言いたいことを言いたいだけ言うとそいつは、宗谷冬司は、私の赤霧島の瓶を抱えたままこてんと眠りについた。
爆弾を落とされた私はというと、持っていた空っぽのグラスを畳の上に落として漫画みたいに口をポカンと開けて呆けていた。

「はあ?」

 ■ ■ ■

私こと苗字名前は小説家である。
大学生の時に書いた作品が評価されてデビュー、のちに3冊ほど出したがさっぱり売れず、畜生次売れなかったら筆を折ってやると自暴自棄になって書いた1冊が大変評価され大ヒット。
大ヒットしたものの、それからというもの苗字名前はすっかりスランプに陥ってしまい全くと言っていいほど書けなくなってしまったのでした。ちゃんちゃん。

「そんで何でここに来たの、苗字ちゃん」
将棋会館は将棋しない人立ち入り禁止なんだけどな〜と神宮寺会長は笑いながらそう言った。
「いいじゃないですか、私ちっちゃい頃じいちゃんに一応教わったんですよ」
囲碁をな、と言うと会長に頭を叩かれた。

「将棋じゃねーじゃねーか、帰れ帰れ」
「まあまあそう言わず。これ広島土産っす」
そういって生もみじ饅頭12個セットをふた箱渡す。将棋会のひとたちにも是非どーぞと付け加えると、しょうがねえなあと許してくれた。

「んで?どうしたの今日は、宗谷となんかあった?」
相談事があるんですと打ち明けると、箱から生もみじを3つ取り出して「3つ食べきるまでは聞いてやるよ」と言って話を聞いてくれることになった。

「相変わらず察しがいいですね、ご隠居」
「まだ隠居してねーよばか」
再びはたかれる頭。
しかしもの食いながら喋るのはいかがかと思いますぞ、ご隠居。

「いやあ、一昨日宗谷と酒飲んだんですよ」
「酒って、あいつ弱くなかったか?」
「弱いくせに酒癖悪いんですよ、私の霧島抱えたまま離さねえのあいつ」
あと水で割るという概念もないらしい。
熊倉さんじゃないんだから瓶一本飲もうとするのはやめろ。

「そんでそんときに爆弾を落とされましてね」
「ほおーう、何プロポーズでもされた?」
そんなんだったらどれだけよかっただろう。
複雑そうな私の表情を見て、会長も不審げな顔をする。
「私、酒が入ってたのもあっていろいろ愚痴ってたんですよ」
スランプが抜け出せないこと、本が書けないから金もないこと、三十後半に差し掛かって婚期を逃したこと。ほかにもあったが主にこの3つに関してだった。
「そしたら宗谷あいつ、なんて言ったと思いますか?」
「……何言ったの?」

『名前、僕が養ってあげようか?』

「苗字ちゃん、そりゃあ……どっちの意味で?」
どうぞ僕の元に嫁においで、という意味なのか。
はたまたこの糞ヒキニートが、哀れすぎて涙出てきたから恩情でもくれてやろうか、という意味なのか。

「速攻でスネをかじりたくなりつつも、冷静になってその言葉の意味を聞こうとしたんですが」
会長の呆れたような視線を受けながらも話を続ける。
「そのまま宗谷寝ちゃって」
「ありゃま、起きたとき聞かなかったの?」
「……いや、まあ、その、なんか聞きづらくって……」
「うわーチキンー」
げらげら笑う会長に一発くれてやりたくなりつつも相談に乗ってもらっているのも事実なので拳をゆっくりと収める。静まれっ……我が右手よ……!

ひとしきり笑った会長は笑い涙を拭うと言った。
「っあー笑ったー。そっかそっか、そんな面白いことになってんだ」
ぺりぺりと2つ目の生もみじの封を開ける会長。ちょっと待って、まだ3分も経ってないよね?

「え、会長、食べんの早くないっすか」
「そっかあ、苗字ちゃんまだスランプなわけねえ」
聞けよ。っていうか問題はそこじゃねーから!

「けど前にヒットになった本、なんとか賞とかいうのの候補だったじゃん」
「あー、あれは絶対受賞しないってわかってましたけどね」
「?なんで?」
「物語の登場人物で死ぬ奴がいるんですよ、そいつのモデルになった人が審査員の中に居たんで」
吹き出す会長。むせる会長。優しい私は黙って背中をさすってやる。
審査員の笑顔が怖かったっす。そう言うと会長の震えが悪化した。

まったく静かに将棋をするところでこんなに騒がしくしたら怒られるんじゃないだろうか。そんなことを思いつつペットボトルの蓋を緩める。

「そういやヒットの前に書いてた本あったじゃん、将棋の話のやつ」
ある程度落ち着いた会長が思い出したようにそう言った。

その瞬間、体が止まった。雷のように頭が一瞬だけ白く染まる。

「…………ああ、あのさっぱり売れなかったやつですか」
「そんな自棄になりなさんなって。アレ結構棋士たちの間じゃ評判良かったよ」
スピーチん時話すことなかったから紹介したんだわ、とけらけら笑う会長を見て何を言えばいいかわからなくなった。

あの物語は私の中で、特に思い入れの深いものだ。

私が書くのはミステリーというかファンタジーというか、すこしばかり現実離れした物語が多い。
デビューして2冊目の売り上げが不調だったときに担当の編集者が言ったのだ。
「今度は身近な話を書きませんか」と。
身近、という言葉で宗谷を思い出した。彼は私の幼馴染だった。
宗谷を思い出すと、そのまま当たり前のように将棋を思い出した。
将棋の、棋士の話を書こう。そう思った私は濁流のような感情を持て余したまま、叩きつけるように書き始めた。
夢を掴んで、掴んだまま前に進めていない私。掴んだ夢を離さずに一歩一歩進み続ける宗谷。夢を掴むために前に進み続けようとする主人公。
小説の内容は自分でも呆れるぐらい重く、暗く、光がなかった。
運も才能もない棋士が苦悩しながら戦う物語。物語終盤のライバルとの戦いで主人公は一歩及ばず惜敗する。
この物語は、主人公が負けて終わるのだ。

担当も苦笑した。それを見て私も苦笑した。
友情、努力、そして敗北。
ずいぶん報われない話を書いたものだと自分でも思う。
それでも当時の私の全てがあの物語には詰め込まれていた。
嫉妬もあった。八つ当たりでもあった。未来への恐怖もあった。
一言で口にできなかったあの時の私の感情を、
前に進もうと全力で走ってそれでも1ミリも進めないあの絶望感を、
自分の歩んできた道が本当に尊いものだったのか分からず振り返ることのできない恐怖感を、自分の精神を削りながら作り上げた。

売れなかったと聞いたときその全てを否定された、と思わなくもなかった。

「スピーチで紹介したあとさあ、軽く立ち読みしてった島田がそのまま買い取っていったんだよ」
ありがとうございます島田さん。誰だかわからないけど。
「そのあともなんかわかんねえけど俺んところにいろんな奴から感想が来てよ、」
私の心情を知ってか知らずか神宮寺さんは語った。

今までの自分の苦労が肯定された気がする、ってさ。

読者の生の声というものは案外作者に届きづらい。
どうしても相手の顔が見えないもので。
しかしまあなんだ。ひどくむずがゆい感覚。気味が悪いほどくすぐったい。
それでいて過去の自分が肯定されていくようだった。

なにか言わなくてはと思う心と反対に、いま口を開いたらいろいろ溢れてしまいそうだった。
三十路過ぎたのに、酒も入ってないのに。

「あーもー」
天井仰いで空を見る。畜生、こんな話しにきたんじゃないってのに。
溢れそうな目元を押さえる。
いつの間にか食べきっていた3つ目の生もみじの包がくずかごに捨てられる。
タイムアップ。時間切れだ。
現在の問題は宙ぶらりんなまま、何故か過去の私が救われてしまった。
いたたまれなくなってわざとらしく咳払いする私を会長はニヤニヤしながら眺めていた。

「えーっと、その、あ」
「あーそういやな」
ありがとうございます、と言おうとした言葉が不意に遮られる。
立ち上がった会長が私を見て、いたずらっ子みたいに笑った。

「宗谷も読んでたぞ」
「へ?」
「スピーチで言うより前だからなー発売日にでも買ってたんじゃないのか」
「え?」
「随分熱心に読んでるのが小説だったから驚いた驚いた」
「は?」

会長が行っている言葉の意味がよくわからなかった。
宗谷?発売日?小説?熱心?
瞬間石のように固まる私を置いて「生もみじごちそーさん」と会長が去っていく。

去って行く後ろ姿をぽかんと口を開けたまま見送っていると、奥の和室の襖が静かに開いた。
開けたのは宗谷だった。
呆けた私は何故ここに彼がいるのだろうと疑問に思って、ここが将棋会館であることを思い出した。
将棋をする場所に棋士がいるのはまったくもっておかしくなどない。むしろ私のほうが場違いなのだ。
宗谷もそれを思ったのかきょとんとしながらこちらにちょこちょこと歩み寄ってきた。

「名前」
なんでここにいるの、とは聞かれなかった。
少しばかり後ろめたい私は安心した。
宗谷から視線をそらすように周りを見て、ふとさっきまで会長が座っていたところに、ひとつだけ生もみじ饅頭が置かれていることに気がついた。
一体あの狸爺はどこまで先が見えていたのだろうか、今度会ったら絶対ぎゃふんと言わせてやる。
そう心に秘めながら、手にとった生もみじを手渡す。

「ほい。広島土産の生もみじ饅頭」
受け取った宗谷は私のとなりに腰掛けると、饅頭を両手で持ってもっきゅもっきゅと食べ始めた。リスみたいだなと三十後半の男を捕まえて思った。

さて、一昨日のことを聞くなら今がチャンスだ。
養うという言葉の意味、その意図を。
しかし私はというとなかなか初めの一言目を口に出来ずにいた。
嘲笑の意味で言われたのならよっぽどいい。宗谷の綺麗で可愛らしい顔を遠慮なく殴ってやれば済む話だからだ。

だがもしも、もしもそれがプロポーズであったのならば。

私はどうすればいいのだろうか。

取らぬ狸の皮算用、というか妄想の域にきているのはわかる。
が、物は試しだ。私が宗谷の嫁になる想像をしてみる。


だめだ、想像つかない。
そもそも結婚ってなんだ?
一緒にご飯食べて、テレビ見て、同じ部屋で寝て、仕事に送り出して。
それが結婚なら私と宗谷はもう結婚してるぞこんちくしょー。
今の気楽な幼馴染関係とどう違うのだろうか。なにが変わるのだろうか。

宗谷は変わりたいと思っているのだろうか。

ちらりとうかがった横顔は相変わらずなに考えてるのかわかんないし、聞こえているのかもわからない。

そうだ、酒の席での意味のない言葉だったのかもしれない。
考えるのもめんどくせえ。
もう忘れちまおう。
そう決めて、背もたれに倒れかかった、そのとき。

「名前」
名前を呼ばれた。

「うん」
返事をする。

ふわふわとしていて、空間がきらきらしているみたいに感じた。
世界を一新したみたいな感覚。
宗谷が私を見て微笑んだ。

「名前といる時は、いつも音が聞こえる」

思えば子供の頃から宗谷は、いて欲しいときもいて欲しくないときも大抵そばにいた。
もしかしたらそれは宗谷にとっても同じだったのかもしれない。

なんか、ばかみたいに考えすぎたな。

歳をとるとセンチメンタルになってしまう。

長く一緒にいるから、宗谷のその言葉の重みぐらいわかる。けれどその素直すぎる言葉は私にはまぶしすぎて、照れてしまった。
そのうちに何を言えばいいかわからなくなってしまって、結局拗ねたような悪態をつく。
「……そりゃ私がいつもやかましいってことかね」

口の端に付いた餡子を舌で舐めとった宗谷は何にも考えてなさそうな顔でぽやぽや笑った。
「いいよ、わからなくても」

このお馬鹿さんめ、本当にわかってないのはそっちだっつーの。
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