春だから良いじゃない



おや、と家康はふいに足を止めた。
庭を一望できる縁側にごろりと寝転がっているのが、見慣れた自分の従者だったからだ。
眠っているのなら布団の一枚持ってきてやろうかとも思ったが、どうやらそうではないらしい。
転がる名前の右手には墨で濡れた筆があり、目下にはところどころが黒く塗られた紙がある。
書類仕事かとも思ったが、筆の動きを見るにそういうわけでもないようだ。
何をしているのかといつものように気軽に声をかけてやろうと思ったが、いやに真剣な様子だ。
下手に声をかけて驚かせて、傍らの硯をぶちまけさせてしまっては申し訳ない。
家康は声をかけないまま、そっと存在を示す程度の足音を立てながら名前に近づくことにした。

そろそろと近づいてあと数歩、というところで「やあ、家康か」と名前が顔を上げた。
寝転がったまま、立っている家康を見上げるのだからどうにも体勢が苦しそうだが、家康を見た名前はずいぶん明るい顔をしている。
名前の表情からして歓迎されているらしいと気づいた家康は彼女の傍に座ることにした。
家康の真正面に広がる庭は広々としていて実用的でありながら芸術的だ。庭師の腕が窺える。
この縁側から見る庭は絶景かもしれない。木々の隙間から燦々と降り注ぐ日光を受けキラキラと輝く池の水面が眩しい。吹く風は暖かく、優しく二人の髪を揺らす。
思わず「ここはいいところだなあ」と口にすると、「お前の屋敷だ」と呆れたような声が隣から聞こえる。
その言葉を笑って流し、家康は名前が熱中している一枚の紙に目を向けた。
「ところでなにを」
しているんだ、と聞こうとして、答えを得る前に合点がいった。
「ああ、墨絵か」
一枚の紙を世界に、黒白で彩ろうとしている。
どれどれと覗き込むと、描いているのはどうやらこの美しい庭ではないらしい。
丸みを帯びた寸胴な楕円の下から、ぐねぐねと植物の蔦のような線が何本か生えている。

……何を描いているのだろう。
見る角度が違うのかもしれないと思い、右へ左へ首を傾げてみるがとんと見当がつかない。
何かヒントになるものは無いかと庭のほうに目をやるがそれらしいものは見当たらない。
ますますわからなくなって、ついに「なにを描いているんだ?」と直接問いかけることにした。
すると名前は待っていましたとばかりに、にかりと笑って「馬だ」と言った。

ほう、なるほど、馬。
確かに言われてみれば馬のようにも見え、見え……。まあ、例え馬のように見えなくとも名前が馬だというのならそうなのだろう。

「武士だからと言って刀ばかり振るうのは雅でない。武士だからこそ茶の湯や芸術にも通じているべし、と聞いてな」
これはその第一歩である。と名前は自信ありげに言った。
なるほど、その心意気は正しい。
武士として民を守る者は、同時に民の見本となるべき存在でもあるだろう。
いや、だが、この絵は、まあ、うん。
言葉にはしないが「どうだ?私の絵はどうだ?」ときらきらと期待のこもった目で見つめてくる名前に思わず心の中でたじろぐ。
どう、と言われても、家康だって人に何か言えるほどの審美眼は持っていないし、下手な言葉で楽しそうなナマエをがっかりはさせたくない。
そうして家康は、
「そうだな!愛嬌があるし、名前の人柄も見えるようで良い絵だ。わしは好きだな!」と慎重に言葉を選んだ。
勿論この言葉に嘘はない。
名前の言う馬は彼岸の終わりに死者の霊魂を送る茄子で出来た牛のようで愛嬌があって可愛らしいし、素朴で不器用な筆遣いからナマエの善良な人柄も見える良い絵だとは思う。
無論これをこのまま言ったら名前が落ち込むだろうから、端的にかつ言葉を選んで言った。
すると当の名前は、「そ、そうか……!そんなに言われると照れるな!」と嬉しそうに笑った。
実は「上手い」とも「才能がある」とも言っていないのだが、名前は家康からの言葉に覆いに喜んだらしかった。
なんだか騙したようで気が引けるが、さっきよりもより一層楽しそうな名前の筆遣いを見て、まあこれはこれで、と家康も笑った。

ふいに、聞きなれた機械音が近づいてくる。
徳川軍の機械音といえば、本多忠勝の他にいない。
木々や草花を傷つけないように慎重に庭を進む忠勝を見つけた名前は、きらりと目を光らせて叫んだ。
「本多ァ!止まれェ!」
静寂に満ちた庭に突如響いた大声に、忠勝はびくりと一度肩を震わせたあと、名前と家康のほうを困惑した様子で見て、ぴたりと止まった。
名前は満足そうに頷づくと、筆先にたっぷりと墨を含ませ、茄子のような馬の隣にその何倍も大きな人型を描き出した。
何か粗相でもしただろうかと戸惑う忠勝の様子に、家康は少しだけ笑って、安心させるように彼に声をかけた。
「悪いなぁ、忠勝。少しだけ名前に付き合ってやってくれないか」

困ったため息のような蒸気を吐き出す忠勝と、それを見て快活に笑う家康。それらを横に楽しげに筆を走らせる名前。
彼らを見守るがごとく、太陽はやわらかな光を三人に降り注いだ。

(2016.4.5)
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