深呼吸して眩暈



私は忍であったが、くノ一のように諜報のために己の身体を男に明け渡す事が出来なかった。己の純潔を惜しがってだとかそんな今更な理由ではなく、ただ単に私の着物の下の肉体がもはやまっさらな部分を探す方が難しいほどに傷だらけであるからだ。その傷のほとんどは時には折檻として、時には褒美として私の主人である久秀様から与えられたものであった。逆らうという選択肢はもとより私の中に存在せず、与えられたそのすべてを受け入れるうちに傷口はやがて消えない傷跡になった。顔や腕にはほとんど傷がないため着物を羽織ってしまえば何も問題は無い。日の下に出て主人の言いつけ通りに使いをすることだってできる。けれども一度その着物を脱いでしまえば赤だとか黒だとか、道を往く女共の肌とは似ても似つかない色をしている。ついには褒美や折檻のために抉られた腹の皮膚がまともに温度を感じる事もなくなった。己の手で触れても何かが触れていると感じる事すらもなくなったのだ。気が付いたときはさすがに困惑したが、任務には一切支障がないため久秀様への報告はしなかった。後日それを理由に再び折檻されるのであるが。久秀様曰く、所有者には所有物の状態を正しく把握することが求められるのだそうだ。ひびの入った茶器で茶を点てる愚か者はいないだろう、と折檻のため複数人の男に私を犯させながら、優美に微笑みつつ久秀様が言ったのをよく覚えている。


ある日の暗殺任務の前、久秀様はあることを私に命じて送り出した。困惑も疑問もなく、私は当たり前に頷いた。
任務内容はある要人の暗殺であり、それもたった一人であったから遠距離から苦無を投げるか、或は食事に毒でも混ぜればすぐに終わる仕事なのだが、私は久秀様から受けた命を完璧に遂行しなければならなかった。そのためには要人に近距離まで近づいて殺す必要がある。リスクではあった。とはいえそうすることで私の作業になんらかの支障が出ることはない。宵闇の中で要人の前に立ち、気が付かれるよりも先にその首を切りつける。噴き出した血流が私の顔に、髪に、着物に降りかかる。生暖かいそれを浴びて、嫌悪よりも先に安堵する。そうすればあとは用済みとなった目の前の男を始末し、死体の近くに彼の部下の私物を置いて退散する。楽な任務だ。血を拭うこともしないまま私は闇を駆け、久秀様のもとへ舞い戻る。この成果、主人は喜んでくださるだろうか。

ただいま戻りました、と久秀様の前に参上すれば、彼は笑みを深くして「こちらへ来なさい」と私を自身の部屋へ招いた。しかし私はたかが一介の忍で、ましてや血にまみれて汚れたままだ。思わず敷居を跨ぐことを躊躇う私に、久秀様は笑って「何を躊躇う必要があるのかね?それとも私の命が聞けないと?」と言ったものだから、私は慌てて彼のもとへと歩を進めた。
未だに乾かない血がぽたりぽたりと主人の部屋の畳を汚すのをこわごわとした目で見つめた。けれども久秀様はそれらに一瞥することも無く私を膝の上に載せた。「久秀様、御着物が」きっと私の命よりも高価であろう着物が汚れてしまう。けれどもやはり久秀様は躊躇うことなく私を抱き寄せて「些末なことだ」と眉を上げた。
出来る限り血を浴びて帰ってきなさい、というのが久秀様からの命であった。私はそれを従順に達したけれど、そのために主が血に汚れるのは私の望むところではなかった。久秀様の御身体を汚さぬようにさりげなく身を反らせるけれども、彼はそれを気にすることなく己の腕の中に私を収めては「やはり君には赤が良く似合う。生と死を示す美しい色だよ」と囁いた。
久秀様から私への可愛がり方は犬や畜生へのそれと同じだ。事実私は彼の褥に呼ばれたことなど一度もないし、餌は与えられても賃金を与えられたことはない。彼はあくまでも聞き分けの良い犬を膝の上に乗せているのであって、決して人間の、女を愛おしがっているわけではないのだ。だから私は彼の思い通りに黙って忠犬に徹する。久秀様は私の固まった血で指通りの悪い髪を、いや毛並みを梳くように撫でた。戦場では苛烈な火花を放つ左手が私の毛並みを一筋掬ってそこに口づけをする。ああ、こんなこと、あの口うるさい三好の三人組に見られたら、久秀様を小汚い他人の血で汚すなど許されないと怒りを顕わにするだろう。私が望んだわけではないのに、きっと私が叱られるに違いない。だから私は久秀様のために久秀様の元を離れなければならないのに。彼の手があまりにも心地良いものだから、私は動けないまま、ここにいる。きっとこれからもずっと。彼は私の着物を脱がせると、もう熱を忘れてしまった肌を指でなぞった。刀を握るその固い手が、私の知らない誰かを殺したその冷たい手が、私を愛しんで、髪に、頬に、首筋に、体に触れて、それだけが私のすべてだった。きっとこれがすべてだったのだ。
「己が不幸に気がつかないことこそが君の幸福か」
哀しいな、と彼は笑んだ。
「きっと君は幸せになれる」
幸せ、とその人は言った。想像の中に納まらないもの。けれども確かにここにあると感じているもの。

身を裂く絶望や不幸について、私は何も知らない。
けれども希望や幸福についてなら、きっと私は知っているのだろう。

(2015.7.25)
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