あなたの降らせるいくつかの全て



雨音で目を覚ました。
障子越しに縁側の先を見やれば、まだ外は暗く、深夜であるらしかった。
普段なら目を覚ましてもすぐに二度寝をしてしまうというのに、今日のこの時に限っては妙に目が冴えてしまう。

日中は騒がしい屋敷も夜半となれば凍ったように静かで、こんな雨であるから虫の音ひとつ聞こえなかった。
(昨日は出陣も遠征もあった。みんなぐっすり寝ているだろう)
名前は自分の心が妙に穏やかなことに気がついた。穏やかである。かすかな風に水面が揺れているような穏やかさ。まるでこれから突風が吹くことも些細な風の動きでつかめるような。

名残惜しそうに温かさで誘う布団から抜け出し、障子を細く開け、外の様子を覗うと、縁側の先の日本庭園が暗がりの中でもよく見えた。
今はまだ冬。葉も花もなくした桜の樹が橋の向こうで燦然と立っている。
嫌に、懐かしい。昔もこんなふうな雨の日に濡れに外へ出ていったことがあった。
自分がまだ幼い子供であったとき、家族を家族と思えなくなって家を飛び出したのだった。
懐かしい、と自嘲する。思い浮かぶ記憶は決していいものではない。

裸足のまま、庭に降りる。
足裏が泥でべちゃりと濡れて汚れるのも、むしろくすぐったくて気持ちが良かった。
鼻歌交じりにわざと足音を立てて、池の先の桜へ向かう。濡れて黒く染まった橋に泥の足跡が残る。明日の朝に光忠に怒られるかもしれない、から、内緒にしておこう。
歩いてきた痕跡で辺りを汚して、冷たい宵の雨で体を冷やして、ようやく桜の下までたどり着いた。
はたして何のためにここに来たのか、もはや自分でもわかっていなかった。

見上げた桜の大樹、その枝々の隙間から反射のない闇夜が顔を覗かせる。
行き場を無くしたナマエは、今更部屋に戻る気にもなれずに手持ち無沙汰のまま、土の上に顔を出した太い根の上に座り込んだ。

遮るものがないまま雨に濡れ続ける。
体が少しずつ冷えていくのがわかったが、とても立ち上がる気にはなれなかった。
そうだ、幼い頃にもこんなふうに膝を抱えて泣いていた。あの家から逃げるために。逃げておきながら、それでも誰かが追って来てくれることを望んでいた。そんな矛盾した心の内をどうすることもできずに抱え込んでは目を閉じていた。
目を閉じていた。

土の匂い。雨の音。水滴が体を濡らす。冷たい。寂しい。このままでいたい。

(あの日、雨は止まなかった。行く当てもなくびしょ濡れのまま、惨めなまま、家へ帰った。一人で体を拭き、一人で布団に潜り込んだ。)

雨音が続く。目を閉じたまま、朝が明けるまでここにいたいと思った。
雨音が増していく。雨が本丸ごと飲み込んだ。あの日とよく似た雨だ。きっと誰も来ないまま、誰にも気づかれないまま、夜が明ける前にここを去る。惨めなまま。惨めなまま。

雨は止まない。
雨は止まない。
雨は、

「主」

雨が止んだ。

薄っすらと目を開けて、声のするほうへ顔を向ける。
薄暗い夜の中でも目に映る穏やかな微笑み。
「蜻蛉切」
蝙蝠傘を俺に差し出して雨を遮り、自分はその体を雨に濡らして。
「主、ここにいては体を冷やしてしまいます」
名前の近侍はなんでもないふうにそう言った。

「蜻蛉切、探させてしまったのか」
「いいえ、夜分に目が覚めてしまったところ、主が庭に出ているご様子でしたので」
「面倒をかけた。すまない」
「滅相もありませぬ。しかしここは冷えます。どうかお部屋へお戻りください」
「ああ。しかしどうしよう。服も足もこんなに汚してしまって」
「主さえ宜しければ自分が部屋までお連れいたしましょう」
名前が黙ってうなづくと、蜻蛉切はその腕で名前を抱えて、主が濡れないように傘を持ち直した。
脱力して体を蜻蛉切に預け切って名前はぼんやりと、それでもどこか晴れ晴れとした心持ちで夜の庭を見つめた。

そうだ、自分はずっと待っていたのだ。
雨に濡れて膝を抱える俺に、風邪を引いては駄目だ、とそっと傘を差し出してくれる人を。
共に帰ろうと手を引いてくれる人を。
俺の中でずっとずっと、あの日から待ち続けていたのだ。

「随分冷えてしまいましたな。すぐに湯を用意しましょう」
「すまない、蜻蛉切」
「主が謝られる必要などございません。どうかご自分を責めることのないよう」
「ごめんなさい。服も汚しちゃって、泥だらけで」
「大丈夫ですよ、主。光忠殿にはバレないよう、自分が夜の内に洗濯しておきましょう」
「おねがい、内緒にして」
「はい。必ずや」

冷えた体に蜻蛉切の体温がただただ優しく、心地よい。
彼は、彼らは、俺の知っている家族よりよっぽど家族らしくて、それが悲しいほどに嬉しかった。

(2015.3.27)
ペアレンツコンプレックスと蜻蛉切さん
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