オーロラになれなかった人のために 2



「忘れ物はないですか?」
「うん。……あっ、そうだマクワこれ預かっておいてほしい」
「鍵、ですか?」
「うん、私の家の鍵。旅行先で失くしても困るし。用があったら入ってもいいから。まあ、あんまり物置いてないけど」
「用なんてなかなか無いと思いますが……。わかりました。失くさないよう預かっておきますね」

ショルダーバッグひとつ。旅行に行くにしては少ない荷物で彼女は港に立っていた。
群れをなすキャモメの鳴き声。繰り返す波の音と潮の香り。すこし強い風が彼女の髪を揺らした。

僕は船に乗らない。乗るのは彼女だけ。
今日、名前はガラルを発つ。

寂しくないといえば、嘘になる。
けれどそれは僕の感情の問題であって、彼女の旅立ちを遮る理由にはならない。
「寂しいな、少し」
けれど彼女はそう言う。同じ感情に微かに心が安らぐ。
「僕も寂しいです」
「お揃いだね」
そう微笑む彼女に、初めて出会った時のことを思い出した。


『君もツボツボを連れているの?』
同じ年頃の子に話しかけられた。あの時も、彼女はショートヘアだったからその中性的な顔つきや声音もあって、同性だと勘違いしていたことまで思い出す。
『お揃いだね』
と笑ったその顔に、見惚れる。
そんな僕らを他所に彼女のツボツボと僕のツボツボが顔を近づけ合って挨拶をしていた。互いの匂いを確かめるように。
『私、ツボツボのむしタイプなところが好きなんだ。君はどんなところが好き?』
ジムチャレンジの頃は、まだ母の影響でこおりタイプのポケモンを中心に連れていた。だからほのおタイプに弱くて、その対策として、いわタイプのポケモンを仲間にしたかったのだ。
『い、いわタイプなところ』

たぶんそれも今の自分を形成するきっかけの一つだったのかもしれない。


船の汽笛が鳴り響いて、マクワは我に帰る。
「……そろそろ行かないと」
大きな客船を見上げて、彼女は眩しそうに目を細めた。時間が来たようだ。
「体に気をつけてくださいね」
「うん。マクワも」
「怪我やトラブルに巻き込まれないように」
「心配性だな、マクワは」
「あなただからですよ。たまには連絡くださいね」
「手紙、送るよ」
「はい、楽しみにしてますから」
離れがたいと思いながら、僕は少し体を引く。
すると名前はその距離を取り戻すかのようにグッと一歩前に出る。それから周囲を見回して何かを確認したかと思うと、
「わ、名前!?」
抱き締められた。
広げた腕をそのまま、真正面からぎゅうと。思わずホールドアップ。まさかの行動にぶわっと顔に熱が集まる。これまで付き合ってきて、一度も人前では彼女から手さえ繋いだことすらないのに。そんな彼女が、そんな照れ屋さんの彼女が!
びっくりしながらもマクワもゆっくりおずおずと彼女の背に腕を回す。すると彼女はこちらの胸にぎゅっと顔を押し付けた。一ミリも隙間のないゼロ距離に混乱する。

時間にしてほんの10秒程度だったろうか、彼女はそれからすぐにパッと離れると「ありがとう」と笑った。
「あっ、いえ、こちらこそ……」
「もう行くよ。このままじゃ名残惜しくなっちゃうからね」
「……はい」
またね、と手を振って彼女は船へ向かっていく。その左手の薬指には2人、お揃いの指輪が光る。今はまだ婚約関係を示すための指輪。いつか、永久を誓うためのものを渡せたらと、そう思っている。
軽やかに歩いていく彼女のその背中をマクワはぼんやりと見送った。腕の中にはまだ彼女の感触が残っていて、鼻孔をくすぐった甘い香りが脳を痺れさせる。……いい香りがした。緩みそうになる口を必死に抑えて耐える。
まったく。最後の最後になんという爆弾を落としていってくれたのだろう。


少しずつ動き出す大きな客船。そのデッキから彼女が手を振るから、応えるようにマクワも大きく手を振った。
船が小さくなるまで、水平線の先に見えなくなるまで、マクワはずっとそこにいた。

指先に止まった蝶が再び飛び立つこと、それを惜しむ気持ちは事実としてあって、けれどやはり虫かごに閉じ込めてそばに置いておきたいとも思えない。

マクワにはチャンピオンとして人前に立つ名前が虫かごの中の蝶のように見えていて、だからその立場から解放されて笑う彼女を見て安堵するのだ。
名前には好きなように生きて欲しい。好きなようにバトルをして、好きな場所に行って欲しい。そして疲れた時にはあの10日間のように休めばいい。願わくば、その止まり木としてマクワを選んでくれたらそれが一番嬉しいのだけれど、それを選択するのも名前自身だ。

遠ざかる汽笛の音。船は往く。
どれだけその場に立ち尽くしていただろう。
小さくなって、ちいさくなって、船はもう見えない。

遠い水平線。
新しい旅立ち。
……僕ももう行かなきゃ。

微かに息を吐いて、マクワは海に背を向けた。キルクスへ戻ろう。自分をもっと鍛えなくては。今よりもっと強くなって、彼女の隣に立つにふさわしい人になろう。強いとか弱いとか、きっと彼女はそんなことを気にはしないとは知っていたけれど、それでもマクワはそうでありたかったのだ。


と、その時、ポケットの中のスマホが震える。
マクワは何とは無しに、誰からの電話からも碌に確認せずに取ってしまった。

『マクワ!あんた元気にしてるかい?』
「げっ……母さん……」
電話の相手は母だった。こっちが絶賛反抗期だということも関係なく電話をかけてくるのはやめて欲しい。
「なんですか急に……」
『あんた、家族なんだからいつ電話したっていいじゃないの』
まったくこの子は冷たいねぇ。よよよと電話口で泣き真似をする母に眉間の皺を寄せながらマクワは溜息をついた。
「いいから本題に入ってください」
『はいはい、それでマクワ。あんた、前から名前ちゃんとは仲良かっただろう?』
つい数日前に婚約した恋人の名前を出されてマクワは一瞬どきりとする。まさか母がマクワと名前の関係を知っているとは思えないが、知られたくないと思うことばかり気がつくのが母親という生き物だ。

「なっ、んですか急に。……ま、まあ、悪くはないですけど」
『名前ちゃんと連絡は取れるかい?』
「連絡?」
『あの子、リーグ戦の後、チャンピオンの引き継ぎを終えてから行方不明になっちゃったんだって!』
「…………は?」
『ジムリーダー全員にこの連絡が来ててねえ。リーグ委員の人らがね、名前ちゃんが家にも帰ってないみたいで心配してるらしいのさ。仕事用のスマホにかけても繋がんないって。さっきあたしもかけてみたんだけど繋がんなくてね』
「…………いや、母さん、その、」
『ほら、リーグで負けてからマスコミやら週刊誌やらがあの子のことを好き勝手に言ってたろ?アレで変に塞ぎ込んでないか心配してたらしいんだけどもう何週間も連絡がつかないから、もう捜索届けでも出そうかってなってるらしくて、』
「……あー、母さん?」
『ご実家の方にも帰ってないらしくてねぇ。ご両親は大丈夫だって言うけれど女の子だし心配じゃないの』
「だから、母さんってば!!」
『なんだい急に!』
「名前とはさっきまでずっと一緒にいたから大丈夫だよ!」
途端に沈黙する母。というか、多分、これは、絶句。
あ、やってしまった、とマクワが冷や汗をかいた時にはもう遅かった。

『…………あら、あらあらあらあら。なんだい、ああ、なんだ、そういうことかね』
「……いや、待って母さん」
『あっはっは、わかったよ!リーグの方には大丈夫だって伝えておくからね!』
……なんか、良かったのか悪かったのか、色々なことが全部伝わってしまった気がする。
『なんだい、あんたら随分と仲がいいじゃないかい!それならそうと言ってくれたらよかったじゃないの、もう!』
「なっ、ちがっ……くない、ですけど!」
ケラケラと大きく笑う母の声が電話の向こうから聞こえる。

『ま、とりあえず心配はしなくていいってことかい?』
「うん、見聞を広めたいってカントーに向かっただけよ」
『そうかい、ならいいんだ』
「あと名前、多分仕事用の携帯は家に置きっぱなしにしてるだけだと思う」
『なるほどね。名前ちゃん、ずっと家に帰ってなかったみたいだからねぇ』
「ええ」
『ってことはマクワ。あんた、名前ちゃんを今までずっと家に泊めてたってことかい?』
「…………」
『マクワ』
「……どうやらお電話が遠いようですピーという発信音の後に切りますそれでは」
『こらマクワ!』
今度ちゃんとあたしんとこに連れて来なさいよ!という母の言葉を無理やり切って、マクワは肩を落とす。バレた。全てがバレた。いずれ伝えなくてはならないことではあるが、こんな形でバレるとは……。
やはり、母、倒さなくては。マクワは決意を新たにする。

しかしそれにしても、名前。いくら仕事用とはいえ携帯を家に放置しておくとは。
まさかプライベート用の携帯まで家に忘れて行っていたりしているんじゃなかろうか。そんな考えに至ってマクワは苦笑した。
もしそうだったら、それはそれで仕方ない。スマホやネットに縛られない彼女はとても彼女らしいしそういうところも好きだ。それに今回はそれが幸いしたと思えるわけだし。……なんて、マクワは基本的に名前のことはなんでも肯定的に見てしまう。惚れた欲目というやつだろうか。

マクワはスマホを仕舞うと、今度こそ歩き出した。
きっと彼女から手紙が来る日が、今から待ち遠しくてたまらない。


(2020.5.13)
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