剥がれ落ちた怜悧を撫でる




エズミ、本当の眠気を覚える人間はだね、いいか、元のような、あらゆる機ーーあらゆるキーノーウがだ、無傷のままの人間に戻る可能性を必ず持っているからね。

「エズミに捧ぐーー愛と汚辱のうちに」J.D.サリンジャー



懐にはずっと手紙があった。長い遠征の間、軍服を着ているときは常に内側のポケットに入れっぱなしにしていたから、あともう少し長く遠征が続いていたのなら肌と同化していたのではないか、などとそんなことを冗談交じりに思う。
ガサツな自分のところにあったから、いつしか手紙は老人のように皺だらけになり、また、使い古した革のようによれて柔らかくなっていた。もっと丁寧に扱ってやるべきだろうかと後悔じみたことを思う反面、こうなってしまってよかったのだともなんとはなしに思わなくもない。別に戦闘中に読み返す訳ではない。それどころか、待機時間や私室で1人になった時、眠る前だってろくに読み返しなどしなかった。内容だって覚えている訳でもない。倉庫に仕舞われたままの古物のように入れっぱなしにしていたそれは、敢えてその存在を示すわけもなく、けれど確かに彼のそばに在り続けた。

そんなわけだから、普段はほとんど肌と同化しているその手紙のことなどすっかり忘れていたのだ。
長い遠征は終わりに近づき、幾千万の星の中を厳めしい艦船が群れをなして進んでいく。その鼻先は帰るべき場所として首都星オーディンを目的地に指し示す。ワープを繰り返した果てに帝国領に入った以上、今後この艦隊が砲火を放つことは無い。数週間ほど前に叛乱軍を相手に死闘を繰り広げたことなど夢幻のような穏やかさで艦は帰路につく。

眠るようにと言ったのは副官で、その副官はずっと休みなく指揮をするビッテンフェルトの身体と精神を気遣っていた。しかしビッテンフェルトは休みたいとほんの少しも思わなかったのだ。来るべき睡魔は夜になってもーーこの宇宙空間は永遠に夜であるけれどもーー現れず、ビッテンフェルトはこの長い遠征の間、仮眠程度の睡眠しか取っていなかった。それは彼の自由意志ではなかった。眠りたいと思わなかったし、なによりどれだけ目をつむっても眠れなかったのだ。

部下の言葉を聞き入れるのも上官の役目だ。副官に言われるがまま私室のベッドへ転がったが、やはり睡魔は彼の眠気の扉をノックすることもない。持て余した平穏な時間にやけに空虚な感覚を覚え、無意識にベッドの上で身動ぎをした。その時、僅かに胸元に引き攣るような感覚を覚えて、そこで久々に懐の手紙のことを思い出した。彼はようやくほとんど体の一部になりかけていた軍服を脱ぐと、無造作に内ポケットを漁って手紙を取り出した。

封筒には彼自身の名前が書かれていた。消印は無い。直接手渡されたものだったからだ。ビッテンフェルトが長い遠征に向かうと知ったその翌日、彼女は彼にそれを押し付けてきたのだ。
「きっとお返事をくださいね」と、こちらが不安になる程おとなしい彼女にしてはえらく強引に約束を取り付けられた時のことがまだ海馬の中に残っている。その時の彼女の指先も、表情も。
ビッテンフェルトはそれを渡されてすぐ地上車の中で読み、士官用の自分の官舎で読み、そして今、王虎の中で読んでいる。

乾いた指先で封筒から便箋を取り出した。内容は、やはり覚えていない。深い谷のように跡を残した折り目を開いて、ビッテンフェルトはそれを読んだ。遠い星を眺めるように。
広げた手紙は彼の琥珀色の瞳に写って、何度かの瞬きの時だけ視界から消えた。
一枚きりの便箋だ。すぐに読み終わった。読み返してみれば、そう大した内容のことは書かれていない。だから記憶にも残らなかったのだろう。
多分、彼女も内容などなんだってよかったに違いない。書かれた文字列ではなく、手紙を送った、という事実が必要だったのだ。それがどうしてなのかは、ビッテンフェルトにはわからないけれども。
彼は天井とベッドの間にその手紙を掲げて、ささくれだった硬い指先で柔らかな丸みのある字の群れをなぞった。自分には描けそうにもない筆跡だった。
連鎖するように彼女のことを思い出す。一度だけ並んで街を歩いた人。横に並ぶと向かい合った時より背丈の差が顕著になった。彼女は半歩後ろを歩いていて、こんなものが果たして楽しいのだろうかと思い、振り返ってやると目が合った彼女は穏やかに微笑んだ。話がしづらいからと無理に彼女を隣に並ばせたが、大した話をした記憶もない。ぎこちなく隣にいた。だが、どうしてか嫌ではなかった。果たして彼女はどうだったのだろうか。自分には宇宙の果てよりもわからない。

そうやって彼女のことを考えているうちに、不意にビッテンフェルトは自分の瞼が落ちかけていることに気がついた。長い間、強く意識の糸を握りこんでいた拳は硬直してしまっていて、掌を開くというただそれだけのことが長いこと出来ずにいたのに。いつしかゆっくりと力が抜けるように拳は開かれていく。掌の皺の隙間に微かに風が通り抜けていった。

そうして肉体はようやく思い出す。呼吸をするように、食事をするように、眠ることもまた人間としての当然の機能であったこと。

お返事を、と彼女は言った。果たして自分は書くのだろうか、彼女へ、手紙を?まるで想像がつかなかった。「素敵なお手紙をありがとう」だなんて、ペンを握り、机に向かって?
深い睡魔に体の支配がきかなくなっていく。肉体が溶けていくように、ベッドの中へ体が沈み込んでいく。脳髄の奥底で陶然と引き込まれていくような快い眠気を覚えた。
手紙はきっと書けないだろう。けれど、返事をしよう。彼女はそれを願って、おれはあの時曖昧にだったけれどもうなづいた。約束をしたのだから。
彼女へ会いに行き、またどこかを歩こう。何かを伝えるかもしれない、伝えられないかもしれない。どちらにせよ、会わなくては、返事を返さなくては。手に取っていた手紙が指先から離れ、ベッドの上に音もなく着地する。その時にはもう彼は深い眠りに身を委ねていた。

(2019.9.1)
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -