血と後悔 後編




『せめて上手に後悔しようと
過去を苦い教訓に未来を夢見る事は
あの日のあなたのかけがえのない
こわれやすい愛らしさを裏切ることになる』



万全を期すことと戦力を無駄に投入することはまるで違う。
相澤はあまりの非効率さに目眩がしそうだった。誰だ、この作戦を企画した奴は。

休日の昼下がり。相澤は耳障りでない程度の音量でジャズが流れる喫茶店のソファ席に座っていた。普段着慣れない若者じみた服装をして、サングラスをかけて、まるでごく普通の客のようにこの喫茶店にいる。
しかしながら、オフではない。
ただ喫茶店でのんびりコーヒーを飲んでいるように見えるが、こう見えても仕事中だ。

監視対象に気づかれない位置から常に対象を視認し続けること。そして、もしも監視対象が個性を発動した場合、相澤も個性を使用して対象の個性を消し、すぐさま対象を捕縛すること。
それが今回の相澤に課せられた任務だ。

普段行なっているヴィランとの交戦に比べればそう大変なものではない。何故なら今回の任務における監視対象はほかでもない、ただの一般市民であるからだ。

「……はあ」
思わず溜息を出てしまう。
相澤が見つめる先には例の監視対象であるひとりの女性がいた。苗字名前。24歳。××大学博士課程の学生であり、専門は犯罪心理学。頭の中で暗記したデータを確認するようになぞる。
写真やデータは何度も確認したがこうして実際に彼女を見るのは初めてだった。窓際のボックス席に座る彼女は大人びた雰囲気の紺のワンピースに身を包み、5センチほどのハイヒールを履いている。例え戦闘になったとしてもあの格好では碌に戦えないだろう、などと考えてしまうのは職業病か。
そんなことを思いながら、視線を少しだけ横にスライドさせる。相澤の視線の先、そして苗字のテーブルを挟んで向かい側にはエンデヴァーこと、轟炎司が座っていた。

誤解のないように言っておくが、浮気調査などではない。エンデヴァーもまた、相澤と同じく今回の任務に当たっているヒーローの1人なのだ。
そう、監視対象はただの一般市民。そして彼女のそばにはNo.1ヒーローのエンデヴァー。例え何かあってもすぐさま対象の個性を消せる自分もいる。
戦力はそれで申し分ない筈だ。だというのに、今この喫茶店には自分とエンデヴァー以外にあと3人のヒーローが普通の客を装ってここにいる。まったくもって溜息が出るほど無駄な戦力に他ならない。

繰り返すが監視対象は一般市民だ。例えその背景に何があったとしても、何の罪もない、むしろ守られるべき銃後の市民なのだ。だというのに、こんなにも過剰に戦力を投下しては、まるで対象が重大な犯罪者であるかのように扱っているも同然だ。対象の女性がそれを知ったら何を思うか……などと考えて、相澤は自分の思考がまるで合理的でないところまでたどり着いたことに気がついてすぐさま考えをやめる。他人が何を思っているか、などと答えのない問いをすること以上に無駄なこともない。
耳につけたイヤホンを嵌め直して軽く息をつく。そこからは音楽などではなく、エンデヴァーの衣服につけられた隠しマイクからの音声が流れていた。

◇ ◇

「お久しぶりですね」
苗字は古い友人にするかのような微笑みを浮かべて炎司を見た。微かに小首を傾げた途端、彼女のショートカットの黒髪が揺れる。
「とは言っても本当は貴方にお会いしたこと、少しも覚えてないんです」
「だろうな」
僅かに懐かしむように炎司は答えた。
「君と俺が会ったのは一度きりで、君はまだひどく幼かった」
「ええ、勿体無いことをしました。かのヒーローだと知っていたのならきっとサインを強請ったでしょうに」
それはどうだろうか、と炎司は思った。オールマイトと違ってエンデヴァーはあまり子供からの人気は無かった。今もそれはあまり変わってはいない。

ずっと昔、エンデヴァーによって保護された彼女は何が起きていたのかまるでわかっていない様子だった。抱き上げた少女は身を硬くしてやがて迫り来る現実の衝撃に耐えようとしていた。あの日自分はあの子供に何か言葉はかけてやったのだろうか。薄れた記憶ではもう20年近く前のことなど碌に思い出せもしない。
向き合う2人のボックス席はまるで個室であるかのように静かで他者の介入を許さなかった。水の注がれたグラスの中で音を立てて氷が溶けた。無情に流れていく時間を破裂させたかのように。
「事件の後、私は父の妹、私にとっての叔母の養子に入りました。ですから今は弟切名前ではなく、苗字名前なのです」
とは言っても、と彼女は続けた。
「叔母には私より2つ下の息子がいましたので、私はほとんど祖父母の家で過ごしていました」
多感な幼少期に、良くない影響があっては申し訳ないですから。
そう語る苗字に炎司は眉をひそめる。
「……苗字君、君もまた多感な時期の子供だったろう」
「ありがとうございます」
苗字は少しだけ笑って、不器用な炎司のフォローを受け止めた。同情に慣れたその態度に、少しだけ彼女のそれまでの人生が垣間見える。その大人びた態度に、娘とそう変わらない年齢の女性とこう向き合って話すことなど殆どない炎司は少し戸惑う。娘とだってこんなふうに向き合ったことなど碌に無いのだから、余計に。
「名字が変わったこともあって、私が弟切の娘であると知っている人は少ないです。中学の時に周囲に知られましたので高校は離れたところを選びましたが」
コーヒーを口に含んでから、ゆっくりと彼女は言葉を続けた。
「今は大学で犯罪心理学を学んでいます。私の出生を知っているのは教授だけですが、教授は私にしかできないことがきっとあるだろうと研究を応援してくださっています」
「……そう、か」
それは良かった、などと決して口にはできなかった。炎司は目の前にある自分が選んだ選択肢のその果てを見つめながら、選ばなかった選択肢のことを考える。何が正しかったかなどと、誰にも出せない答えを思って。
「君は弟切を、君の父のことは覚えているか?」
「はい。ごく僅かではありますが、記憶はあります。……こんなことを言っては叱られてしまうでしょうけれど、私は父が好きでした」
炎司は何も言わずに、彼女の言葉を待った。それに少し微笑みを深めて苗字は口を開く。
「母がいませんでしたから、代わりに父がそばにいてくれたんです。勉強も料理も父が教えてくれました」
「……良い父親だったのだな」
自分とはまるで逆だ、と思った。ヴィランでありながらも良い父親だった弟切と、ヒーローではありながらも碌な父親では無かった自分。勉強を教えるどころか、まともに会話したことすら無かったというのに。人の善悪とその人の人間性に関係は無いということがやけに思い返される。

「……話が前後してしまったが、今日君を呼んだことにそう深い意味などは無いのだ」
炎司はそう嘘をついた。彼女が目の前にいること、それは深い意味と様々な思惑の結果だ。けれどもそれを伝えるつもりはなかった。
「息子を通じて、君の言葉を受け取った。そうして君が息災であることを知って、黙ってはいられなかった。こんなことを今更言ってたところで不愉快だろうが、何か困っていることがあるのならば力になれたらと思っている」
本当は少しだけ、彼女を直視することに躊躇いがあった。待ち合わせにして入ったこの喫茶店には他にも女性客は多くいた。だというのに、少し見ただけで彼女が弟切の娘なのだとわかってしまった。

彼女はよく似ている。
自分が殺した男に。

けれど今度こそ炎司は真っ直ぐに苗字を見た。自らの罪の最果ては穏やかな微笑みのまま、その視線に応える。
「それに、あの言葉の真意を知りたいのだ」
『誰か何と言おうと、あの時の貴方の判断は間違っていなかったと私は思っています。』
伝えられた言葉の意味を。

弟切の娘だと知って、彼女からの言葉を改めて受け止めた時、思い返されたのはいつかの間際の瞬間だった。
炎司は弟切の最期の言葉を忘れられずにいる。炎によって身体は炭化し、死の淵に立ちながらあの男は嗤っていた。
『エンデヴァー……君に子供はいるかい……?』
『いるだろう?……わかるさ、私もそうなのだから……』
『なあヒーロー……社会の中で……正しく在れない者が……去るべきなら……』
『どうか、私の娘も……』

「感謝しているのです」
思考の水面に沈んでいた意識がパッと浮上する。目の前の今が遠い過去とオーバーラップしかけていた。ここにいるのは弟切ではない。苗字名前という罪なきひとりの女性であるというのに。
「……感謝?」
「はい、他でもない貴方に。私は大学で学んでいく中で改めて父の事件のことを知ろうと思いました。父が行なったことと僅かながら覚えている父の記憶を思い返しながらあの事件について調べたのです」
当時の新聞からゴシップ、ネット情報、その事件を引用した論文までありとあらゆるデータを集めて調べた。それから僅かに残された自分の記憶も元にして。そうして苗字にはわかったことがあった。

「父が死んだことによってわからなくなったことがあるでしょう」
事件の内容も、殺人の方法も手段も、弟切という男の経歴も、大抵のことは警察の調べですべてわかった。
男に死によって、永遠にわからなくなったことがあるとしたら、それは。
「……どうして弟切は殺人を犯したのか、だな」
「その通りです」
彼は逃亡の際に手にかけた警察官1名を含む12人を殺害していた。最初期こそ老若男女問わずだったが、4人目以降の被害者は殆どが児童である。例外があるとすれば最後の殺人である警察官のみだ。何故児童を多く狙ったかについては、「大人を殺すより簡単だから」であろうという推論が出ている。
しかし、そもそも何故殺人を犯したのかについては動機を答えるはずの弟切の死によって永遠にわからなくなってしまった。それが当時、エンデヴァーが批判に晒された理由の1つでもあったのだが。

「けれど、その答えは簡単です」
まるで答えを知っているかのように彼女は言った。あまりにも当然のようにそう言うものだから、炎司は咄嗟に何かを言うことができなかった。
「轟さん。父はね、ただ単純に人を殺したかったから人を殺したんですよ」
「……目的が手段であったと?」
「はい。段々と子供を狙うようになったのは子供を殺す方が自分の好みだと気がついたからです」
当然のごとくそう語る彼女を炎司は訝しげに見た。虚言か、妄言か。弟切の娘の言葉を見極めようとする。
「解せんな。何故君がそう確信を持って言える?確証など何もないだろう」
「ええ、実証的なものは何もありません。すべて感覚的なものです。けれど、私はわかるんです。……だって、」

喫茶店には耳障りでない程度の音量でジャズが流れ続けていた。それは僅かな隙間。曲の終わりと曲の始まりの間。空白の瞬間。声だけが明確にその一瞬を穿った。

「私も父と同じですから」
そう言って彼女は嗤った。

遠い過去と今現在が混ざり合って重なり合って崩れ落ちて眩暈がしそうだった。嗚呼、覚えている。その笑みを識っている。

『なあヒーロー……社会の中で……正しく在れない者が……去るべきなら……』
『どうか、私の娘も……殺してやってくれ……』

『あの子は……私と同じなんだ……』

あの男もまた、同じ顔で嗤っていた。

カッと頭に血がのぼる感覚があった。これは怒りだろうか、わからない。けれど何かが絶対的に許せないという感情が一瞬で膨れ上がって炎司の身に熱が籠る。個性の炎が出なかったことが唯一の救いか。感情のままに吐き出しそうになる怒号を理性が止める。直前でかけられた急ブレーキはなんとか目の前の彼女を傷つけずに済んだ。処理しきれない苛烈な感情だけを残したまま。
炎司は氷の溶けたグラスを煽り、水を喉に流し込む。こんな結末があることなどわかっていた。けれどそれを前にして冷静になどなれそうにもなかった。
そんな炎司を目を映した苗字は少しだけ目を伏せた。
「怒って、くださるのですね」
苗字は口角を上げる。
彼女の微笑みは無表情と変わらない。嘘をつくように笑っているけれど、その時たしかに彼女は嬉しくて笑っていた。自分の悪性を叱ってくれる人の存在が嬉しくて、嬉しくて笑っていた。

苗字名前はずっとそうだった。誰にも言ったことはないけれど、子供の頃からずっと漠然とした衝動を抱えていた。
衝動とは理性や常識でとどめられるものではない。凄まじい荒波に飲まれるように、自分ではどうしようもない、衝撃のような欲求。ずっと耐えていた。それは正しくないと知っていた。
名前はわるい子です。けれど、薄れた記憶の中、もういない父だけがそれを肯定してくれる。父と同じ、殺人衝動を。

「家の中で私と年の変わらない子供を殺して解体する父に尋ねたことがあります。「どうしてわたしにはそういうことをしないの?」って」
「…………」
黙り込む目の前の人を愛おしいと苗字は思った。ああ、この人はきっと許さないでくれる人なんだって、そうわかったから。
「そうしたら父は言ったんです。「名前はお父さんと同じだからそんなことしないよ」って」
……轟さん、私、今ならその言葉の意味がわかるんです。

炎司は首を横に振った。それは違うと。それは間違っているのだと。けれども苗字は諦めた顔で微笑むばかりだった。
「きっといつか、私も人を殺します。理由もなくただそうしたいという衝動に呑まれて、愛も憎もなく人を殺します」
「そんな日など決して来はしない」
炎司はそれを否定する。けれどもその言葉をこそ、苗字は否定した。
「……いいえ。いいえ、来ます。もう来ているんです。轟さん、間違ってるってわかってて快楽を求めてしまう弱さに勝てないんです、私という人間は。父と同じです。きっと父も耐えていた。耐えて耐えて耐えきれなくなってああなった。父が始めて人を殺したのは29歳の時です。あと5年、私にはとても耐えられる気がしない」
「苗字君」
言葉はだんだんと早くなっていく。穏やかそうな微笑みのまま、声だけが冷たく鋭く自傷のように、或いは他傷のように次々ととどまることを知らずに吐き出されていく。
「私は母の個性を一切受け継ぎませんでした。父の個性をそのまま受け継いだ。それだけあの人の血が濃いんです。ねえ、知っているでしょう、あの人がどんな個性か。自分の個性を使ってどう人を殺していたか。知ってます、私見てましたから、教わりましたから、覚えてますから。そのまま同じことができます。だって私は父と同じ個性だから。私は父と同じ生き物だから……!」
悲痛な声が彼女の笑みを剥がすことは無い。張り付いた無表情な笑顔のまま、彼女は笑うしかなかった。
「いつか、私はきっと誰かを殺します」
その声は軋みだった。彼女が抱える、正しく在りたいという倫理観とすべてを壊してしまいたいという殺人衝動が軋轢を起こして悲鳴をあげる。

「だからどうか、私を殺してください。私が、誰かを殺してしまう前に」
泣き出しそうな顔で笑った。


イヤホン越しに音声を聞いていた相澤は僅かに瞼を痙攣させた。対象は確実に混乱し、感情を高ぶらせている。これ以上下手に刺激をしたら個性を発動しかねないだろう。サングラスを一枚隔てながら相澤は対象の女性を見つめ続けた。エンデヴァーの指示があれば即座に取り押さえても構わない状況だが、当の彼からの指示はない。会話を続行するつもりなのだろう。
他のヒーロー達がこちらからでも見て取れる程に焦りを感じているのが見えた。あまりにもわかりやすすぎる。密偵に向いていないヒーローたちだ。対象から目を離さないまま、次回から彼らを外すように上へ報告することを相澤は決めた。


周囲をよそに、炎司はひどく落ち着いていた。彼女は個性など使わない。彼女がきっと嫌っているであろう人を殺害することに特化した個性を決して使うはずがないと、それがわかっていたから。
「……自分と娘は同じなのだと、弟切も最期に同じようなことを言っていたな」
炎司は静かに語りかけた。顔を両手で覆ったまま俯く女性は肩を震わせたまま何も言わない。
「君と弟切。そのどちらとも対峙した身では、君たちは確かによく似ているという他ない。容姿も顔つきも個性も雰囲気も」
けれど、と言葉は続いた。
「似ているだけだ。君は弟切ではない」
「……同じですよ」
「決して違う」
それだけは強く断言できる。彼女に罪は無い。涙を流す理由もない。彼女はただの罪無きひとりの市民なのだから。
「人を殺したいと思うことと実際に人を殺すことには天と地程の差がある。君はまるで自らが罪人であるかのように言うが、それは間違いでしかないのだ」
君はまだ、誰も殺していないのだから。

「よく、耐え忍んできた。甘言や弱さに流され、正し過ぎる社会から逃げることだって出来たろうに」
これから先のことなどいくらでも言えるとして、それでも弟切と彼女はまるで違う。

耐えかねて殺人を犯してしまった弟切と、未だに耐え続けている苗字。
もう死んでしまった弟切と、まだここで生きている苗字。

積み上げられた過去の天辺が今なのだとしたら、もう一度出会えたこの瞬間にこそ意味があったのだろう。
「俺は、どんな理由があろうと君の父親を殺した男だ。良い父親にもなれなかった。多くの過ちを犯して来た」
いつしか苗字は顔を覆っていた掌を離して、炎司を見ていた。そこに涙はなく、また笑みもない。ただ迷子になって、帰り道がわからなくなってしまった子供のような顔で見つめ続けるだけだった。
「それでも、俺はヒーローなのだ。助けを求める声に応えなければならない」
正しいと信じた歩みがすべて間違いだったとしても。選んだ選択の果てに、選ばなかった未来を尊んでも。選んだ道で背負った罪を抱えて、生きていくほかない。
「君はひとりで耐える必要など何処にもなかった。苦しいのならば、苦しいとそう言えばよかったのだ」
過去や血縁は切り離すことなどできない。けれど、それでも抱えて苦しんで汚れながら、それでも生きて欲しい。酷い我儘だと、わかっている。死を望むほどに耐え忍んできた女性にこれからも耐えろと言っているのだから。
けれど彼はずっと我儘を通して来た。何も振り返らず、多くを犠牲にして。
後悔で過去は消せない。それでも、それでもどうか未来を歩むことはできるのだと信じて欲しい。

「ずっと、苦しかった……」
伏せた瞼の間から涙が一筋こぼれた。
「助けて……私を助けて、ヒーロー……」
「……ああ、必ずや君を救ってみせよう」
それは過去のやり直しではない。彼女は救われなかった彼の代わりなどでは決してない。
自らの悪性に怯える罪無き市民をひとり、この手で救う。ただ、それだけのことなのだから。



「よかったんですか、あんなこと言って」
任務の終わり、帰路につきながら相澤は隣を歩く炎司に問いかけた。

その後結局、相澤どころか他のヒーローたちの出番もなかった。苗字名前という女性はただ笑って、炎司へ感謝を述べて帰って行った。
彼女と炎司の会話内容こそやや不穏ではあったが、それもエンデヴァーがどうにかした。彼もまたひとりのヒーローである。力ではなく言葉でひとりの女性を救った。ただそれだけのことだった。

相澤からの問いかけに炎司は不愉快そうに鼻を鳴らした。
「馬鹿を言え。そもそもこの話を持ってきたのもお前のところの校長だろう」
彼女の論文まで送ってきおって、やら、面倒ごとばかり押し付けて、などと炎司が不満を言うのを隣を歩く相澤は完全にスルーした。合理的無視である。

一連の件は一種の予防策であった。
敵連合とのいざこざにひと段落はつけど、やはり未だにヴィランへ対する市民の不安は大きい。
その上「ヴィランの子供はヴィランになりやすい」などと言った言説が俄かに流行りだしたことに先立って、加害者家族への偏見を払拭するために弟切事件の犯人の娘と対話を行なったのだが、結果は今回のようになってしまった。よかったのだか悪かったのだかまるでわからないな、と相澤は内心そう思った。ヴィランの子にもヴィランのような思想があったことは明らかに都合が悪いことであったが、それを未然に防げた、という点ではよかったと言っても良いのだろうか。

「少なくとも思想がああである以上、苗字名前は誰かの監視下に置かねばならん。ならばある程度事情を知っている俺が適任だろう」
救いを求めてきた苗字に炎司が提案したのは、エンデヴァー事務所への就職だった。
理由のひとつは当然彼女を監視下に置くこと。もし万が一彼女がヴィランになった時に対応する人物として現在のNo.1以上に適任はいない。
そしてもう一つは彼女が大学で研究し、構築したシステムにある。これまでの研究内容を応用したヴィラン追跡システム。今はまだ試作段階ではあるが、論文を読む限り実際のヴィラン捕縛に使用できる程度には実用的であり現実的なシステムのようだ。今後もまだ気の抜けないヒーロー界としては使えるものはなんでも使いたい。そしてそれが有用性があるのなら勿論のこと。
そんなわけで苗字との邂逅は一種の盛大なスカウトだった。

「あ、いやそっちではなく」
「違うのか!」
エンデヴァー事務所に優秀な人材が増えることは別にそこまで重要視することではない。
むしろそれ以上に問題だと言えるのは、

「あんな約束してしまってよかったんですかって話です」
「…………」
途端にむっつりと黙り込む炎司に相澤はちらりと目をやった。顔にはでかでかと「ああ言うしかなかった」「後悔も反省もしていない」と書かれている。流石に呆れて溜息が出るが……、善か悪かは別として悪い判断ではなかったのだろうとは相澤も思っている。

『もしも君がヴィランとなって誰かを傷つける日が来たのなら、その時は君が誰かを殺す前に、俺が君を殺すことを約束する』

「…………オフレコで頼む」
「俺に言われましても」

彼のその言葉に彼女はようやく本心から笑っていたのだから。

しかしこの人も大概不器用だ。僅かな縁しかない苗字にですらあんな風な言葉をかけられたというのに、それがどうして自らの子供にはできないのか。相澤は少しばかり呆れる。とはいえ彼は教師でもある。家族の問題に口は出せずとも、フォローくらいはしてやらねばならないだろうと、きっと今回の件でまた父親を誤解しそうな生徒のことを思った。

「イレイザー、音声データの後半だけうまく破損させることとかできないのか」
「無理ですね」



『くり返す波の教えるのは
ただの一度も本当のくり返しは無いという事
けもののように言葉をもたなかったら
このさびしい今のひろがりを
無心に吠えながら耐える事もできようものを』


(2018.12.11)
引用した詩は谷川俊太郎の「後悔」より
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