萱草に寄す



寄せては返す波が耳の奥を優しく揺らすような音を立てる。その波間で日光が反射して目を瞑りたくなるほどに瞬く。その日はよく晴れた日で、段々と涼しくなっていく秋の空気が頬を撫でる感覚が心地よかった。

リハビリが無い時間、花道は大抵海の側でのんべんだらりとしている。ここへ来た当初は走ったり、跳んだり、何よりボールが持ちたくて仕方が無かったのだが、あの優しくて厳しい先生に「我慢こそが一番の近道なのよ」ときっぱり言われてからは、うずうずする気持ちを抑えながら静かに過ごしている。

江ノ島の見える静かな海辺をぼんやりと眺めていると、心は否応なしにあの汗と熱と歓声に満ちたあの夏の日の試合へ引き戻される。あの日、あの瞬間以上に自分の体が自分の思い通りに動いたことはなかった。踏み出す足が、ボールに触れる指先が、精神と肉体のその全てがぴたりと噛み合っていたあの瞬間。力強く跳んで来たパスを受け止めた掌の振動、どうしたらいいのかは頭より先に体がわかっていた。優しく支えるように添えた左手と、ボールを打ち出した右手。
あの感覚を、花道は今もなお覚えている。

「……む」
気がつくと、花道の両手はあの時のシュートモーションの格好になっていた。ボールの重さだけが物足りない。
早くコートに戻りたいと強く思う。バッシュを履いて、赤いユニフォームを着て、駆け出したい。
「しかし今はリハビリ王」
焦りは禁物だ。今は休憩中だが、戻ればあっという間に流川も仙道も追い越してしまうだろう。今はちょっとだけあいつらにハンデをやっているだけだ。天才だからな。花道は鼻を鳴らした。

その時、サク、サク、と誰かが砂浜を進む音が鼓膜を揺らした。普通に歩く足音よりずっと長い感覚で、ゆっくりと進む音。その音に気がついて、花道は座り込んだまま首だけで振り返る。
「花道ー!」
振り返ったそこに、松葉杖をついた1人の女の子がいた。
「む!マメ助!」
「誰がマメ助だ!名前先輩と呼べ!」
マメ助と呼ばれた少女は、柔らかくて足場の悪い砂の上を不安定そうに松葉杖を使いながらやってくる。危なげな名前を見た花道は思わず立ち上がって彼女の方へ行こうとして、……それをやめた。

「たとえ転んでも絶対に助けない」という約束が2人の間にはあったからだ。

何度も波が行き来し、飛び立った鳥がもう江ノ島の向こうに消えていってしまった頃、ようやく名前は花道の元へ辿り着いた。はあ、はあ、と荒くなった息のまま、また一苦労して彼の隣に座り込む。
彼女の右足には青空に浮かぶ雲みたいに真っ白いギプスがついていた。その理由について、花道は知らない。名前もまた、花道が何故ここにいるのかについて知らない。ここではそれが普通だった。

花道の隣の病室のマッスーは可愛い12歳の娘がいるおじさんで、よく車椅子のまま凄まじいスピードで廊下を駆け抜けては先生たちに追われている。玄関に1番近い部屋のモチさんは開きっぱなしにした病室の扉の中からいつもベッドに寝転がったまま、花道に話しかけてくる。
このリハビリセンターにはいろんな人がいて、時折言葉を交わしたりするけれど、やはり彼らが何故、どうしてここにいるのかについて尋ねたりはしない。ここにいる理由は何も知らないけど、何が好きでどんな人なのかは知っている。多分、それだけでいいのだろうと思っている。

息が整ったらしい名前が2本の松葉杖をまとめて横へ置いた。それから「ここの景色最高だよねえ」と笑った。
名前は花道の2歳年下の中学2年生の女の子だ。院内では1番年が近い。花道を呼び捨てにしてくる名前は花道からしたら可愛い年下の女の子というよりかは生意気なクソガキといった感じであったが、子犬のように毎日花道花道と懐いて来られると悪い気はしない。

不意に名前は今座っているあたりに落ちていた貝殻をぽーんと海へ向かって放り投げた。しかしそれは波打ち際にも届かずに砂の上に落ちた。それを真似して花道も手近にあった貝殻を腕の力だけで軽く投げ飛ばせば、ぽちゃんと音を立てて海へ落ちる。
「はっはっはっは!」
「むっかつく〜〜!」
どうだとばかりに笑ってやれば、意地になった名前が「ふんっ!」と声を出しながら次の貝殻を投げる。さっきより遠くへは飛んだが、海へは届かない。「とうっ!」花道が再び投げる。ぽちゃんと海の中へ消えていく。「うぐぐぐぐぐ……」悔しそうな顔をする名前を見て楽しくなる。なんといっても勝負事はやはり楽しいのだ。
貝殻の投げ合いは2人の手に届く範囲の貝殻が無くなるまで続いた。貝殻が手元から無くなると、互いの横腹や腕をガツガツと軽く殴って小競り合いをし始める。
まるで年近い兄妹のような2人の姿を、空高く飛び上がる海鳥だけが見ていた。

散々小競り合いをした2人は今は休戦中。もしも2人の背中や足に問題がなかったのなら、少し手が出るくらいの小競り合いだけでは済まず、2人ともこの海辺でびしょ濡れになっていたに違いないけれど。
「花道はさあ、」
海風が吹き起こって、名前の髪がふわりと膨らむ。遠く、海を見つめる名前の横顔を、花道は見た。きっと妹がいたらこんな感じなんだろう、なんて思いながら。
「リハビリ終わったら何したい?」
「ラーメン食いてぇな」
「いいねえ!私もパフェお腹いっぱい食べたい」
「デブんぞ、マメ助」
「デブんないし!マメ助じゃないし!」

ここの食事はうめーけど味が薄いかんな。
それに野菜ばっかだしね。
なんだマメ助、野菜食えねーのか?
食えなくないし!ピーマンだけだから!
けけけけ、まだまだガキだな!
大人ぶんな!2個しか違わないくせに!

「ご飯もだけど、学校も行きたい」
「…………だな」
花道は、名前がいつからここにいるのかはわからない。けれど花道よりずっと長いことここにいるらしいということは、誰から聞かなくてもわかることだった。
「学校行って、ダチと遊んで、早弁して、寝て、」
「花道、ベンキョー全然してないじゃん」
「いんだよ、天才だから」
「なんじゃそりゃ」
当たり前だった日々を懐かしい思い出には、まだしたくない。

「そんでなにより、」
それは花道自身だけでなく、名前にとってもそうであってほしいと思う。退屈に思えるような学校生活の中で、院内の寝間着ではなく制服を着て友人達と屈託無く笑う名前を想像してみる。

「バスケすんだ」
それはとても、尊いもののように思えた。


◇ ◇ ◇


『ハルコさんへ』
手紙に書きたいことは沢山あった。自分が彼女から届く手紙を楽しみにしているように、どうか彼女もそれが届くのを待っていて欲しいと思う。

「花道、なにしてんの?あっ!ハルコさんへの手紙でしょ!って、うわ、字汚っ!」
「うるせい、見んな見んな」
松葉杖をついた名前が談話室にいた花道に近寄ってくる。散れー!と言ってもどこ吹く風。ニヤニヤと笑いながらテーブルの向こうの椅子に腰かけた。

『もう2学期がはじまってますね。この天才桜木はすでにリハビリ王としてリハビリ界の頂点に立っています』
「誰もリハビリ王なんて呼んでないけどね」
「いずれ世界がそう呼ぶ」
ハルコさんに伝えたいことはたくさんあった。こんなに楽しく文字を書いたことはあっただろうかというくらい心は満ちていて、その迅る気持ちのまま、ペンはするする進んでいく。
名前は楽しそうにそれを眺めていたかと思うと、小脇に抱えていた本を開いて読み始めた。花道はそれをちらりと見てから、また便箋へ目を落とした。
書き綴るのは、前にハルコさんがくれた手紙への返信と、こちらの近況。マネージャーになってくれて嬉しいこと、文通が楽しみなこと、リハビリが順調なこと、それから、それから。

『ここのリハビリセンターにはマメ助という奴がいます』
目の前で鼻唄を歌いながら本を読む名前のつむじを見て、どうせなら書いてやろうと思った。
『豆みたいに小さいからマメ助です。こいつはリョーちんより小さいくせにミッチーより態度がデカイです。年下なのに自分の方がここに先にいるんだから先輩と呼べと言ってきます。しかしこの桜木の天才っぷりに気がついたのか、すぐになついてきました』
このようなことを書かれているとはつゆ知らず、名前は先生から借りてきた「はじめてのバスケットボール」という本のページをめくる。今さっき、スリーポイントシュートというものについて知った。一気に3点ゲットできる方がおトクだなあと思いながらそのページを読み込む。

『マメ助はバスケの話をしてやると喜びます。いつかバスケの試合を生で見たいと言っていました』
この天才がコートに舞い戻ったあかつきには、きっとこの小さな妹分を試合へ呼んでやろうと、花道は思っている。観客席から水戸たちと一緒に歓声を上げる名前が容易に想像ついた。
などと、あれこれマメ助について書いたが、どうしたってやっぱり気持ちは最終的にバスケへ向かう。
バスケがしたくてたまらないという気持ちを言葉にして、花道はハルコさんへの手紙を締めた。

「名前ちゃーん、時間だよー」
花道がペンを置き、名前がトラベリングについて知ったその時、彼女の担当医が廊下の方から手を振った。名前はパッとそちらを見てから「今行きまーす!」と元気よく返事をした。
「ぬ、リハビリか」
「おうとも」
「気合い入れてけよ」
「わっはっは、よゆーよゆー!」
そうやってけらけらいつも通りに笑って「じゃあね」と一言、松葉杖をついて歩いていく名前の背中を花道は静かに見守った。

それから彼は折り畳んだ便箋を封筒にそっと差し入れて封をした。
開け放たれた窓から入ってきた涼しい風が廊下を走り抜けていく。海はだんだん静かに、日は少しずつ短くなっていく。日々は夢のように一瞬で、けれど確かにこの掌の中にあった。
夏の終わり。しかし寂しくはない。思い出をあの日の中に残して、今は少しずつでいいからただ前に進んでいくだけだ。

遠く、江ノ島へ向かう海鳥が高らかに鳴いた。

(2018.11.10)
「萱草に寄す」立花道造
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