ノー・エントリー



「名前がいないとつまんねーわ」
ラフなTシャツに一枚羽織っただけのジャケットとジーンズ。それから小さいバッグが手元に一つ。ターンテーブルからスーツケースを取ってくる様子もなく、とてもじゃないがアメリカから帰国したとは思えないような身軽さで仙道は成田に降り立った。ただいまの一言もなく、嘘ともホントともわからない言葉を吐いて、子供の頃から変わらない微笑みで私の前に立つ。
「うそつけ」
「嘘じゃない。オレ、名前には嘘つかねえよ」
瞬間、私の脳裏には今まで仙道につかれた大小さまざまな嘘が走馬灯のように駆け巡った。それらの、今となっては懐かしいとすら言える思い出を口にするのは容易かったが、結局何も言わずに肩をすくめるだけに留めた。今更言い訳や弁解の機会を与える必要もない。

「名前運転出来んの?」
「出来なかったら迎えになんて来ない」
大荷物だろうと思ったからわざわざ親から借りたワゴンで来たのに後部座席のドアは開けられることもなかった。
「それもそうかあ」なんて呟いた仙道は高校を出てからも伸びたその高い身長を見せつけるかのように、(勿論、本人にその気は一切ないのだが)ぐっと頭を下げて助手席に乗り込んだ。長い脚がガツンとぶつかる小気味のいい音。勝手知ったるとばかりに座席を後ろに下げても伸ばしきれない脚を手の甲で軽く叩きながら私は運転席に座った。
「安全運転でよろしく」
「いいからシートベルトして」

そのまま直帰するつもりだった。仙道を彼の実家に降ろして私も家へ帰る。そのはずだったのだけれど、仙道が急に「海が見たい」などとドラマみたいなことを言い出した。
「名前の運転で行こうぜ」
「……」
「ダメか?」
「……」
「なんか言ってくれよ」
「なんか」
流れる景色をのんびり眺める仙道と、運転に集中したい私では言葉数に差があった。仙道の手前、運転慣れしているかのように振舞ってはいるが、人を乗せられるほどには慣れていないのだ。私のつまらない返しの何が面白かったのか、ツボにはまったらしい彼が腹を抱えて笑いだした。バタバタと脚まで暴れさせるから、助手席の前のポケットが何度も蹴りつけられる。
「はっ、ははっ!やっぱ、名前といると楽しいな」
「何処にいても楽しいでしょ、仙道は」
「そんなことねーって」

そこでなんとはなしに途切れた会話。静かな車内でラジオから流れる音楽だけが鼓膜を震わせた。道路の脇に並び立つビル群が不意に途切れて、赤光がフロントガラスを突っ切って射し込んだ。目を穿たれたような唐突な光に、思わず眉間に皺を寄せて目を細める。
もうすぐ日が落ちる。夏が過ぎ、秋めいてきた。日はどんどんと短くなっていく。これはアメリカも同じなのだろうか。聞いてもよかったけれど、なんとなくこの沈黙を崩したくもなかった。

「アメリカは左ハンドルだからさ、なんか、いつもと違う感じがする」
ふと思い出したみたいに仙道がそう呟いた。助手席の窓ガラスにぺたりと額をつけたまま。
「車のサイズとかも違うからじゃないの」
「あー、それはどうだったっけな」
あんまり車乗んねーしなあ、と返ってくる。自分から話を振ったくせに適当。彼はいつもこうだ。
コートから出れば如何にもこうにも緩い奴だった。きっとそれが彼なりの処世術でもあったのだろう。完璧すぎてはならなかった。強ければいいとは決して言えない。チーム競技に触れたことのない自分には想像することしかできないとしても、天才と呼ばれ褒め称えられた彼が誰からも好かれたわけがない。嫉妬ややっかみ、あるいはそれ以上の苛烈な感情。この男がそれらについて私に語ることは無かったけれど。

「うん、でもまあ、名前が運転してるかな」
仙道が私の方へ顔を向けたのが横目で見えた。けれどどんな顔をして、どんな目線をしているのかまでは、前を向いて運転している私にはわからない。外はもう随分暗くなっていた。海に着く頃にはきっと夜になっているだろう。
不意に、仙道が私の左手にふれた。その指先で、撫でるように、ほんの少しだけ。
その意味がわからないほど鈍感ではなかった。ただ、言葉にすることに少し躊躇う。仙道が知らぬ間にすでに通り過ぎてしまった話について。けれどいつかは話さなくてはならなかった。それが今でも後でも結果は何も変わらない。ならば今言うべきだろう。そう思って、私は僅かに顎を引いた。

「結婚するの」
口にした途端、左手薬指にはめられた指輪の存在が大きく感じられる。そちらにばかり意識がいって、仙道のほうへは少しも目線を向けなかった。前を向いたまま、赤信号に気がついてゆっくりとブレーキをかける。少しだけかくんと車体が揺れて、停止した。仙道は「へぇ」とも「ふぅん」ともつかない吐息のような声を出した。それから「名前は嘘つかないもんな」と口にする。当然だ。こんなことで嘘ついてたまるか。
「ああいや、そうじゃなくてさ」
軽い声につられるように仙道のほうを見た。下がり眉でゆるく笑った彼は「待たないって言ってたもんなあ」と呟く。

その言葉で想起された記憶。5年前のことだ。
アメリカに行くと告げた仙道は私の前に立ってこう続けた。
「待っててくれよ」と。
なにを?いつまで?どうして?
問いかけてもヘラヘラ笑うばかりの仙道に私は確か、腹が立ったのだったと思う。だから売り言葉に買い言葉みたいに「待たない」と答えてやったのだ。
「ちっとも?」
「ちっとも。まったく。全然。絶対に」
強い言葉で答えた私に仙道はいつものように「困ったな」ってまるで困っていない顔で笑った。そう、あの日彼は笑っていた。

すっかり忘れていた。仙道に言われるまで覚えてもいなかった記憶。薄暗くなる車内で、よくわからない感情を顔に貼り付けて微笑む仙道を、私はなにも言えずにただぼんやりと見ていた。
「名前、青だぜ」
ハッとして、ブレーキから足を離した。

「結婚する人ってどんな人?」
「大学で会った人。バスケしてた。就職してからは離れてるみたいだけど」
「へぇ」
自分から聞いておきながら、大して興味も無さそうな返事だった。
高校を卒業とともにアメリカへ旅立った仙道とは異なり、私は大学へ進んだ。まだ桜が残る晴れやかな日に、なぜ私はひと気の少ない体育館へ向かったのか。プレイしたこともロクにないのに聞き慣れてしまっていた、バッシュが床を滑る高い音とボールが床を跳ねる重たい音。入り口から覗き込んだその時、その人は綺麗なフォームでシュートを決めていた。リングをくぐり抜けて床に落ちたボールが私のところまで転がってきて、それが始まりだった。

「オレの方が強いと思うよ」
なんて、仙道の戯言を私は鼻で笑って返す。
「そうでないと困る」
彼はもうバスケットボールをプレイする人なら知らない人はいないような人間になっていた。アメリカに行って正解だったのだろう。仙道彰というバスケットボール選手は。
同じ病院で生まれて、近所に住んでいて、同じ学校に通っていた。これでも子供の時は私の方が背が高かったのだ。どこか抜けたところのある彼をフォローしたりして。
けれどいつの間にか彼は遠くへ行ってしまった。私がどんなに息を切らして走ったってもう追いつけないところへ。それでよかったんだ。どこまでも遠くへ行って、高くまで跳んで。大歓声の中で拳をあげる仙道が浮かんだ。それが似合う。君にはそれが似合う。

海のそばの道路に車を止めた。潮騒の音が聞こえる。思えば私も海に来るのは久々だった。仙道が言わなければ、ここに来ることは無かっただろう。
日が完全に落ちて、月が浮かぶ。海辺は酷く暗い。海風と秋風が冷たさを纏って私たちの間を駆けてゆく。夏はとっくの昔に終わっていた。久々に踏みしめる柔らかい砂浜に足を取られる。転びかけたところをさらりと仙道に助けられた。
「……ありがと」
「名前、そうやって笑うと可愛いのにな」
「うるさいな」
その一言がなければまだもう少しは笑っていただろうに。けらけら笑う彼の笑い声が降り注ぐ。
「流石に寒いな」
「その格好じゃね」
「あっちはまだ暑かったんだよ」
その言葉に私は目を閉じて、遠い異国を想った。知らない言葉、踏みしめたことのない大地、君が暮らす街。
きっと、行くことは無いだろう。

「私の好きな人は、」
それを言葉にしたのは、明確な区切りが必要だったからだ。子供の空想のように、今もこれからも存在する事のない未来はここで静かに眠りにつく。
「笑っていなくても可愛い、と言ってくれた」
この先は無い、と、聡明な彼がわからない筈がなかった。

か弱い月明かりの下、遠い暗い海を見つめる彼の横顔は穏やかに凪いでいた。すべてわかっていたのだろう。言葉にする必要もなかった。けれど言葉にしなくてはならなかった。
「うん」
知ってた。と彼は呟く。いっそ波音がすべてを掻き消してくれればどれだけよかっただろうか。

「そんなこと、生まれた時から知ってたさ」



ここからは1人で帰れるから、と言う彼を残して私は1人車に乗り込んだ。またね、と手を振った。その「また」がこれから先、本当にあるかどうかはわからない。いつだって、先のことなど何も知れなかった。悲しくはない。寂しくもなかった。
彼は私を「嘘をつかない」と評したが、あれは真実では無い。いくらでも嘘をついてきた。きっと仙道が私に嘘をついたのと同じくらい。
本当ならば、あの日言った「待たない」と言う言葉だって嘘になるはずだったのだ。けれどそれも、今となってはすべてがどうでもいいことだ。

ふと目を向けたサイドミラーから、仙道が海に向かってなにかを放り投げるのが見えた。それが一体なんなのか、私は知らない。ましてや彼のジャケットのポケットになにが入っていたかなんて、私は永遠に知る必要がないのだ。

(2018.11.4)
(2018.11.6 修正)
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