ユニバース・トラベラー



「君、あれだろう」
彼女はからかうような声音で笑った。
「小学生の時に一人はいた、年中短パン履いてる子」
どこか確信に満ちたようないたずらげな声に黒羽は咄嗟に「違う」と言いかけた。
しかし、ふと自分の幼少期を振り返ってみたところ、決して違うとは言い切れそうになかったから、大きく開いた口のまま「うるせぇよ!」と言うにとどまった。
当然彼女には些細な誤魔化しなどバレバレのようで、波の届かないところから「なはははは!」と楽しそうな笑い声が響いた。

何処でもいいと言ったから海へ連れてきたというのに、「海岸まで2キロ」という標識を見た途端「このワンパターン男め!」と運転中の人の肩を叩いてきた。言葉ほど語調は怒っていなかったから、信号待ちの時に手の甲で軽く肩を叩き返してそのまま標識に従うことにした。

9月の海は閑散としていて、涼しいというよりかは寒いに近くなった海風がもう夏が終わってしまったことを教えてくれる。
「もう10月だってのに海に向かうのは君くらいだよ」
呆れたような声に苦笑する。
「まだ9月だろ」
「四捨五入したら10月だよ」
「するなよ。可哀想だろ、29日と30日が」
柔らかい砂に足を取られながら、それでもついてくる名前が、本当はちっとも嫌がっていないことなど黒羽はもうすっかりわかっていた。ただ彼に何かを言ってやりたいだけなのだと。彼女のそういうところが、時折ひどく億劫で、時折ひどく愛おしい。

靴も靴下も脱いで、ジーンズの裾をめくる。日を浴びて温かい砂の感触。温かいけれど夏の日の熱さではない。いってしまった夏を想って、少し寂しくなる。
「入るの?」
すっとんきょうな声で隣の彼女が尋ねてきて、少し笑う。
「せっかく海に来たんだぜ」
「でも10月だぜ!?」
「まだ9月だって」
もう一度さっきみたいに訂正してやれば、負けじとばかりに「もう9月だぜ!?」と名前は叫んだ。

「入んねぇの?」
そう聞いてやれば彼女はぐっと一度怯んで、してやられたみたいに押し黙ってからすぐに「今日タイツなんだよ」と口を尖らせた。

そう言われて、改めて彼女へ目を向ける。秋を思わせる深い緑のスカートから伸びる脚には確かに薄い膜がある。尖った爪で容易く破けてしまうようなもので一体何を守っているのか、黒羽には未だにわからない。
波打ち際へ足を進めながら「脱ぎゃあいいんじゃねぇのか?」と口にした途端、拳サイズの貝殻が頭を狙って飛んで来た。本当にわからない。

海へ近づく。波がすぐそばまで迫ってくる。決して荒れてはいない沖へ目を向けると、パターン文様のように揺れ動く波が穏やかな日差しを受けてキラキラと星のように瞬く。
一見複雑に見える波の動きはすべて計算で導き出せるのだそうだ。……自分にはわからないけれど。

生まれてからずっと親しんでいたこの場所も時折自分を冷たく突き放す。愛すれば愛するほどすべてがわかっていくのだと思っていた。けれどそうではなかった。足を進めるほどに深みに落ちていくこともあるのだと、知っていたはずなのに。
乾いた浜辺を離れ、波に濡れ湿って黒くなった砂の上に立つ。その冷たさを想像して、少しだけ躊躇いがちに爪先を濡らす。冷たい、けれど想像していたほどではない。

それでも、もう夏はいってしまったのだと、それだけは確かにわかってしまった。

これまでに何回も繰り返して来て、けれどすべて一度きりの夏だった。気がついたら始まっていて、ふとすると消え失せていた夏。緩やかに流れていく季節に自分だけが困惑していたような気もする。
あるいは明確な区切りが欲しかったのかもわからない。春一番が吹いて春の訪れを知るように目に見えるボーダーラインを求めた。だから一人でここに線を引いた。終わりが来たから寂しいのだと、理由が欲しかったのだ。

ささくれを弄るような感傷の中で不意に振り返る。さて海に入らない彼女は、とつい気にかけて後ろを見たところ。
「…………」
「……お前って結構、ノリがいいよな」
脱いだ靴を放って、タイツを脱いでいる途中の名前と目が合う。あれだけ入る気がなさそうなことを言っていたくせに。思わず吹き出すように笑ってしまうと、歯を剥き出しにして威嚇された。見たことは無いが、ガチャピンの威嚇とかってあんな感じなんだろうな。

「ええい!見るな!笑うな!」と喚きながら裸足のまま大股でこちらに歩いてきた彼女が、「あいたっ!」貝殻を踏んで身悶える。踏んだ貝殻の位置と大きさを見るに、さっき俺に投げつけてきたやつだろう。いんがおーほー、という言葉が頭に浮かぶが、漢字が思い出せなかった。

彼女といるといつもこうだった。淡い感傷の上に原色のペンキを重ねるみたいに鮮やかに塗り替える。
そんなところが好きだった。今も好きだ。きっとこれからも好きなのだろう。

だから、だからこそ、
「……俺たち、うまくやっていけると思ってたんだぜ」
波と戯れる名前へ目を向ける。口をついて出て行ってしまった言葉に少しだけ後悔して、けれど言わずにいられなかった。しかしどちらにせよ、そこに意味はもう無かった。
横に並んだ彼女はこちらを見ないまま、寄せて返す波を蹴っている。人の目を見て嘘をつけない人なのだと、俺は知っていた。

「本当に、何一つ問題なくやってけると思ってたんだけどな」
独り言みたいな声音。どうにも愚痴っぽい言い方をしてしまうことに自己嫌悪を感じて、心臓のあたりが気持ち悪い。

嬉しく無いエポックだった。
神様ってのはもっと遠い世界の、例えるのならハリウッド映画みたいな恋愛を揶揄って遊んでいるものだと思っていた。こんな世界の端っこにいる二人になんて、気がつかなくてよかったのに。
心の底から何処にでもあるものを望んでいた。「普通」でよかったんだ。彼女が嫌いな言葉。そうだとしても俺は、今、何よりもそれが欲しいと思う。喉から手が出るほど、泣き喚いて懇願するほどに。

晴れた日の海辺を歩くような、そんな穏やかさを信じていたのに。

「私も、君のことが好きだよ」
漣に掻き消されそうな声で名前が言った。こちらを見て、すこし笑っている。右の口角が上がる、警戒心のまるでないいつもの緩みきった表情。

「でもそこまでだ」
もう愛することはできない、と硬く掠れた声が聞こえた気がする。或いはただの気のせいだったのかもしれない。どちらにせよ、同じことだ。
名残惜しさのあまり、到ることがなかったそれ以上の未来を想像してみる。
……目が潰れそうだと思った。

9月29日。夏と秋のボーダーライン。子供の時に俺が決めた。
9月29日。今日が俺と彼女のボーダーライン。致し方なく、2人で決めた。

言いたいことはたくさんあった。
手紙の一つでも、とも。煙草は控えろよ、とも。
けれども結局口を噤んだ。
今はただ、両の足を地面に踏みしめて水平線を見つめる彼女の背中を見つめている。誰一人として辿ることを選べなかった、おいてけぼりの未来を眺めるように。


(2018.9.29)
バネさんへの誕生日祝いに書いていました。
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