いつかのアルカディアの為に



少し、背が伸びた。隣に並ぶとよくわかる。中学1年生になった長太郎は一年前よりもうずっと身長が伸びて、隣に並ぶ時、私はもう少し見上げるようにしないと彼の顔をちゃんと見ることが難しくなってしまった。
少しずつ遠ざかる距離に、ささやかで漠然とした不安を抱えながら。


「……ピアノ、やめるの?」
「ううん、やめないよ」
2人だけ、誰もいない静かな音楽室で長太郎はそっとグランドピアノの鍵盤蓋を開く。私をそれを少し離れた壁際に寄りかかりながら見ていた。
「……どうしてテニスなの?」
あふれてしまった言葉に、少しだけ悔いた。どんな返事が返ってきても、きっと笑うことなどできない気がしたんだ。

彼は何度か確かめるように立ったままの鍵盤に指を沈めた。その度にポツン、ポツンと水滴のように響き渡る音階に耳をすませる。私には音楽がわからなくて、彼の長い指が導き出す音が澄み切っていて綺麗だということ以外、何も理解できはしなかった。それが少しだけ寂しいような、気後れするような、そんな気持ちをずっと抱えていた。彼はそれでも良いのだと微笑むのだけれど。

カタリと微かな音を立てて引かれた椅子に長太郎は静かに座った。まるで厳かな発表会のように。
私しかいない演奏会。慣れ親しんだ2人きり。いつも通りの心地よい静けさ。もうずっと、こんな時間を過ごしてきた。

「凄いものを、見たんだよ」
私の問いかけに答えた長太郎は優しい表情で鍵盤へ目を落としていた。
「あんな気持ちになったのは初めてだったから」
私は彼の声を聞いて、もう何も言えないまますっと通った彼の鼻筋を見つめていた。怖かったのだ。新しく拓かれた世界を見てしまった彼が、もうピアノの前に座ることが無いのかもしれないと思えてしまったから。遠ざかってしまう距離を縮める術などこの手には持っていなかったから。

広い音楽室の窓は全て開かれていて、昼下がりの穏やかな日差しがレースのカーテン越しに降り注いだ。それは窓から遠く離れた壁際にいる私の目にも飛び込んで来て、眩暈みたいに一瞬目蓋の裏を焼いた。
「何が聴きたい?」
窓から差し込む光を背に、鍵盤に手を置いた長太郎が私の方を見て微笑んだ。彼の少し癖のある柔らかい髪が吹き込んだ風に揺れる。色素の薄い彼の髪に反射した光に少し、眩む。
「……あれがいいな。なんだっけ、えっと、」
たんたたたーん、たんたたたーん、と脳味噌の中でうろ覚えのままレコードを再生する。そうして曖昧に口ずさんだその鼻歌だけでわかってくれた長太郎はそっとうなづいた。「好きだよね、この曲」っていつものように笑って鍵盤に手を添えた。
「……変ホ長調作品18」
囁くような微かな声が聞こえた。
「華麗なる大円舞曲」
動き出したその指が軽やかにワルツを奏で出すのを見て、私は目を閉じた。

長太郎の指にたくさんのマメができて、あの長くて綺麗な指先が鍵盤の感覚を忘れて、明度の高い黄色のボールの感触ばかりを求めてしまうとしたら。
それは少し、寂しい。
けれどそれは私の話で、長太郎にはなにも、何一つ関係なんてありはしないのだ。
曲が弾けるようになるたびに私を家へ招いたあの日々はいつか失われる。それは明日かもしれないし、ずっと何年も先かもしれない。けれどいつか最後の日が来る。背が伸びるように、新しいものに出会うように、変わらないものなんて無いとわかってしまった。

瞳を閉じたまま、私は彼が奏でるメロディーに耳を傾ける。
メドレーのように移り変わる旋律はまるで四季の変化や心変わりのよう。或いは変わろうとしなくても変わっていってしまう私たちのようでもあった。
ぐっと伸びた身長だとか、隣を歩く時の歩幅の違いだとか、そういうものに時折胸が締め付けられる。ただ何もしなくても、生きてるだけで髪も爪も身長も伸びていって、考え方も感情も変化してしまう。だから変わらないでいたいって、ずっとこのままでいたいって願いは叶わない。きっとこうやって止まれないまま変わり続けて、いつしか私たちはそれらしい大人になっていってしまうんだろう。

彼は大人になっても、ずっと私の好きな曲を弾いてくれるだろうか。

曲調も佳境に入り、ゆっくりと閉じていた目蓋を開く。
暗い目蓋の裏ばかりを見ていたから、明るい日の光に思わず目を細める。狭い視界の中で、少しだけ逆光になった長太郎が跳ねるような軽やかさで鍵盤の上に指を踊らせていた。じっとそれを目に映す。ずっとこれが続けばいいのにとそんな夢想。けれど終わりは来る。ふと余韻を残しながら彼の指はするりと止まる。ふわりと白鳥が音もなく飛び立つみたいに。

膨らんだレースカーテンの向こうの喧騒はずっとずっと遠くて、世界の裏側くらい遠い気がした。ここはまるで密室みたいだ。私はこの空間が、時間が好きだった。ずっとずっと、昔から変わらず今もなお。それが風の前の灯火だとしてもきっと。

「名前」
不意に名前を呼ばれて、彼の方へ意識を向ける。椅子に腰を掛けたままこちらに体を向けた彼は、眉を下げて私に微笑んだ。微笑みながらもどこか不安げな表情。どうしてか彼は自信家なのに気が小さくて、か弱いけれど優しい。そこは昔から変わっていない。そんな些細なことに安心してしまう。

「また、俺のピアノを聴いてくれる?」
それがいつか未来への祈りになるのなら。
「……うん。私、長太郎のピアノ好きだよ」

まだ鼓膜に残るあのワルツが失われてしまう前に。
なにもかもを取りこぼしてしまう前に。
私たちが大人になってしまう前に。

手放したくない未来を、それでも望み続けていいのかな。

(2018.8.6)
第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
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