さよならだけが人生ならば



眠れない夜を耐え忍び、迎えた朝に一枚の手紙が届いた。裏書きには決して忘れない名前。住所は海の無い街。
嗚呼、やはり、あの痛みにも、寂しさにもきっと意味があったのだろう



水のそばにいるのに、潮の香りがしない。そういう違和感に居心地が悪くなる。けれど名前はそう感じなかったようだ。俺のそばに座ったまま、何も言わずに何もない遠くばかりを見つめていた。まるで目を合わせてはいけない遊びみたいにじっと、じっと遠くばかりを見て、俺のほうはちっとも見やしなかった。
俺たち以外誰も乗っていないボートは黙りこんだまま何処かへ向かっていく。岸はもう随分と遠くて、これが何処へ向かうのかはわからないけど、少なくとももう戻ることはできないような、そんな予感だけがした。
名前といるのに、どうしてこんなにも居心地が悪いのだろう。どうしてこんなにも寂しいのだろう。船が進むたびに、変わり映えのない景色がゆっくりと後ろへ下がっていく。進んでいるのに変わらない。音も遠くて何もない。誰もいない。俺と、名前以外は。急に怖くなって、確かめるみたいに俺は彼女の名前を呼んだ。そうしたら彼女はすぐに「どうしたの」って返事をしてくれたけれど、俺には返事が返って来るまでのその僅かな空白すら永遠みたいに長かった。
「どうしたの、ヒカル」
なんでもないって言えなくて、俺は慌てて頭の中のおもちゃ箱をひっくり返して彼女へ返す言葉を探した。けど、おかしい。本当は話したいことが、伝えたいことがいっぱいあったはずなのにどうして今になって急に見つからなくなってしまったのだろうか。

「…………、海の、匂いがしないなって」
結局有り合わせの言葉しか出てこなくて、だから彼女は相変わらず俺のほうを見なかった。見ているのは進行方向ばかり。冷たくて、まるで彼女じゃないみたいだ。多分、それは正しい。
「慣れちゃったな」
彼女はそう言った。何処にも感じられない海の香りに慣れてしまったって、伽藍堂の言葉。無くなったことにも慣れてしまうのなら、俺のことだっていつか慣れてしまうの?
「そんなの、寂しくないか?」
まるで縋るみたいな、助けを求めるみたいな声が出てしまったのに、彼女は相変わらず俺のほうを見ない。まるで彼女じゃないみたいだ。あの日泣いてた俺のためにハンカチをくれたあの子じゃないみたい。多分、きっと、それは正しい。
「慣れちゃったよ」
やっぱり彼女はそう言った。仕方ないって、諦めるみたいな声。

慣れたって、諦めたって寂しいことに変わりはないのに、そうやってなんでもない顔をするのが大人になるってことなの?ねぇ、遠くに行ってしまってもう2度と会えないのなら、それはもう死んでしまったことと同じなんじゃないの?
そうやって早次に繰り出してしまった言葉に、彼女が困ったように笑うその吐息が聞こえた。途端、俺は申し訳なくなって、あの子にひどいことをしてしまったと思った。だって彼女のせいなんかじゃない。だってこれは彼女じゃない。

そこでようやく理解した。
名前が俺のほうを見ない理由。名前のせいなんかじゃない。
他でもない俺が、あの子の顔を忘れかけちまってるからなんだってこと。
すべてすべてに合点がいって、悲しくなって、寂しくなって、どうしようもないことばかりが現実って名前で転がってる。悲しい。寂しい。だからあの子の名前を呼んだ。思い出せなくなってしまう前に。名前。名前って。

そうして目が覚めた。


時計はてっぺんを少し過ぎる頃を示していた。月明かりだけが部屋を照らす中、俺はさっきまで見ていた夢を思い返した。潮の匂いのしない場所で、俺とあの子がいて……。
途端、体を走った痛みに呻く。
ぼんやりと残っていた夢の残り香が、不意の痛みで弾けて消えた。ここのところ、ずっと夜にやってくる脚の痛み。膝を抱えてベッドに蹲った。一つ上の仲間たちが成長痛って名前を教えてくれた。成長するのには痛みが必要らしい。こんな痛みに耐えて、それでやっと大人になるの?ジクジクと膝の関節のあたりが痛み続ける。気がついてしまったからもうそれしか考えられない。目を閉じて、眉を寄せて、身を縮めて、ただ耐える。それ以外の方法がわからなかった。
夢の中身はすっかり忘れてしまっていた。
ただ寂しかった。
あの子が遠かった。
それだけが微かに残滓として残る。

3つと、3つと、4つ。頭の中にまだ残っていた数字を必死に思い返す。電話をしたかった。声を聞きたかった。あの子に。今すぐにでも、真夜中でも。でもそんなことに意味がないってすぐにわかってしまった。何度コールしてもあの子はもう出ない。出るはずがない。彼女の顔より、そんな悲しい事実の方を忘れてしまいたかった。痛い。いたい。いたい。そばに、いたい。いたかった。
「またね」って、泣いていた俺に言ってくれた言葉を信じたい。忘れてしまう前に。これからも続いていく沢山の日々にあらゆる思い出が押し流されていくとしても、それでもずっと。
耐えるから。ずっと、耐えてみせるから。こんな痛みにも耐えて、きっと大人になって、海の無い街に行ってしまったお前に会いにいくから。最後に貸してくれたハンカチを返しにいくから。だからどんなに痛くても、忘れないでいたくて、だから掠れた声であの子の名前を呼びながら大人になる痛みに耐えようと、瞼を強く閉じた。

(2018.6.12)
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