愚か者たちに雨



昨晩からの雨が朝になってもまだ続いている。
日常のあらゆる音は絶え間無い雨に掻き消されて、僕はトーストが焼きあがる音を聞き逃してしまった。

窓の向こうに朝日は無い。外は薄暗く、黒雲と風と雨が世界を支配していた。僕は自分の家という安全地帯で、昨晩君がくれた電話を思い返す。
「ごめんなさい」と、硬い声で君がそう言った時、光った夜空が一瞬だけ部屋を照らし、時を待たずして地を揺らすような轟音が鳴り響いた。まるでそういうドラマみたいだと思いながら、僕には君を許す以外の選択肢が思い当たらなかった。そもそもの根本として、間違っていたのは僕の方なのだから。

「枯らせてしまったの」
絞り出すような声がまだ鼓膜に残っている。名前が欲しかったのは罰だったのだろうか、容易く許しを口にした今となってはもはや知る術は何処にもない。もしも僕らが電話越しでなかったのなら、優しく君の頬をつねってあげることだってできたのかもしれないのに。

遠く離れたところで暮らす名前が寂しくないようにと渡したサボテンはやはり代用品でしかなかったのだ。酷いことをしてしまった。あの小さなサボテンにも、寂しそうな君にも。
笑うのが少し苦手な君のはにかんだ笑顔に許されて、僕はこれで良かったのだと思いたかった。
わかっていたよ、名前が本当に欲しかったものはそれじゃないって。
けれどあの日の僕に、他に一体何をしてやれたっていうのだろう。

精神すらデジタルに解剖される時代、僕らの敵は恐ろしくアナログなものだった。
二人の間に横たわる距離はあまりにも遠く、気軽に会いに行くには犠牲にするものが邪魔すぎた。世界は広いって人は言う。それを比喩ではなく、わかりやすい数字として理解し、深くうなづくことができるようになってしまった。そんなこと知りたくなかった。きっと君もそうだろう。
寂しいね。もう随分長いこと、君の香水の匂いに鼻腔をくすぐられていないよ。もう随分長いこと、君の寝顔を見ていないよ。もう随分と長いこと、君の髪を撫でていないんだ。
寂しい、君に会えなくて寂しい。
昨日、そう言えばよかった。言ったところで何にもならなくても、そう言えばよかったんだ。

端の焦げたトーストを齧りながら、僕は後悔を頭に広げる。
名前の代用品なんて何処にもないってわかっているのに、僕はそれを君にしてしまった。それが僕の罪だ。君を悲しませてから思い知らされる。わかっていたはずなのに。悪いのは僕だった。

吹きすさぶ風が窓硝子を叩く。お前のせいだと責め立てるように、こんな安全地帯など壊してしまおうとするみたいに。
謝らないといけないのは僕で、罰を受けなきゃいけないのも僕だ。記憶の中、ぶっきらぼうな名前の顔を思い出す。きっと君は僕を許してしまうのだろう。死んでしまった命を土に返して、掠れた声で私が悪かったと言うのだろう。

僕らは時々よく似ているよ。
きっと綺麗に花が咲いても笑えなかった。いつだってまっすぐ立てているのに抱えたインポスターシンドロームが重荷だね。
だからお互いが必要だったはずなのに。

ねぇ、名前にとってはわからないけれど、少なくとも僕にはまだ君が必要みたいなんだ。
無意味とわかってもなお、今すぐ君へ向かって豪雨の中走り出したいくらい、会いたい。
電話だって手紙だって、名前がくれるものならなんだって嬉しい。けれども大切なものは目に見えないからって、大切なものまで目に見えなくしてたら意味がない。
だって僕の惑星に花はひとつしかないんだ。でもその花は僕がそばにいなくちゃ守ってやれない。こんなに遠くにいたら、君を守ってあげられないよ。
かけた時間の数だけ大切に思えるのなら、このあまりにも遠過ぎる距離にだって意味はあると言えるのだろうか。わからない、意味なんてないかもしれない。けれどそんなこともうどうだっていいや。きっと遠くても近くても君を想う気持ちは変わらないから。

気がつくと窓を叩く手荒い音を消えていた。吹きすさぶ風が雲を空から追いやった。そうして薄暗い世界に真っ直ぐに光が差し込んだ。

僕は名前が思うほど賢くない、名前が思うほど優しくない、名前が思うほど大人じゃない。けど、名前が思うよりずっとずっと、僕は名前が好きだ。名前に会いたい。名前のそばにいたい。

だから会いに行くよ。
空を飛んで海を越えて、夜をくぐって朝を迎えて、遠くにいる君に会いに行く。
君のことが大好きな僕のままで、僕は君に会いに行くよ。

(2018.6.3)
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