アップライト・サーカス



雨雲が夜の街を覆った。降り出した雫が音を立ててアスファルトを黒く染めていくのを、一人暮らしのアパートのベランダで紫煙を燻らせながら見ていた。夜の涼しさに雨の冷たさが加わって、風が先ほどよりずっと低い温度で私の掌を通り抜けていく。

「雨か?」
遮光カーテンの内側から問いかける声。女には出せない低い声が私の鼓膜を震わせる。
「雨、降ってきた」
「結構強そうだな」
「うん、まあまあ強いね」
さっき見たはずの時計の針が思い出せない。日は跨いだだろうか。少し、もう少し進んでいてと、そんなことをこっそり願った。
ローテーブルの上に空になったアルミ缶が置かれる音。コンビニで買ったつまみの袋が空になってガサガサとゴミ箱の中に入れられる音。
なんだ、その終わりに近づいたみたいな音。

「そろそろ」とあいつは言った。
「そろそろ帰るけどよ、」
立ち上がる音。私より背が高くて体格のいい宍戸の体が持ち上がるのを、音や気配でカーテン越しに気がついた。
「あのさ、宍戸」
「なんだよ」
「先週、傘壊しちゃって、貸せないんだわ」
嘘だった。
いつも使っている傘は大学の研究室に置きっ放しだからここに無いのは本当だけれど、貸そうと思えば折りたたみ傘がもう1つある。
黒い可愛げのない折りたたみ傘。小さくてすぐに骨が折れてしまいそうなそれを宍戸が差したら、両肩が濡れてしまうだろうな。小さくて頼りない傘。暗い夜道を小さな傘を手に身を縮めて歩いていく宍戸が容易に想像ついた。
「いや俺ん家も大して遠くねぇし、別に気にしねぇよ」
走ってくから、と2人で開けた缶を資源ごみ用の袋に入れながら宍戸が言った。それを聞いてあいつからは見えないベランダで眉を寄せて顔をしかめる。
「や、雨結構強いよ」
「大丈夫だっての」
大丈夫、じゃ、ないから。

「泊まってけば、いいんじゃないですかね」
なんて、そんな不貞腐れたような、子供みたいな声音が自分の口から出てきて、少し困った。
カーテンの向こう側。カツーンと空き缶が一個、床に落っこちた音。動揺の音が耳に飛び込む。
音、音、音ばかり、カーテンの外側から聞いてる。雨の音の中、カーテンの内側は見えない。今、どんな顔してるの。

まだ先が残っている煙草の先を灰皿に押し付けて火を消す。煙は消えて、匂いだけが残る。夜の空気を胸に吸い込んで、大きく深呼吸。口に残ったメンソールが冷たい空気に触れてスースーと心地いい。
それに反して、長い沈黙とそれによる居心地の悪さ。何か言ってよ、と思うけど思うだけ。
馬鹿なことをした。言うんじゃなかった、と2本目の煙草を箱から出そうと手を伸ばしたところで、シャーって高い音を立ててカーテンが開いた。
室内の蛍光灯が眩しくて、反射的に目を閉じる。やがて緩やかに目が慣れて、ゆっくりと瞼を開く。目を開いた先には表情が見える程度に逆光になった宍戸が居て。

「その言葉に甘えて、……泊まっても、いいのかよ」
初めて見る表情と、夜の雨音程度じゃ遮られない声が届いて、私は静かにただ黙って首を縦に振った。
「ベッド、1つしかないけど」
「いや、俺は適当なところで構わねぇし。……あっ、絶対手は出さねぇから信じてくれ」
「………バカ、そこは『今夜お前を抱く』くらい言いなさいよ」
「はっ?えっ?あっ……」
わかりやすく思考が止まった宍戸の手には何故かチューハイの空き缶が握られている。その軽くて薄いアルミ缶が、動揺と共にクシャッと音を立てて握りつぶされて、少し笑えた。
長い空白から帰還した宍戸はくそっと一言吐き捨ててから、いつもより雑に「激ダサじゃねぇか」と悪態をついた。

「とりあえず、」
「うん」
「中入れよ、寒いだろそこ」
私の腕を優しく掴んで中へ引き入れそうとする宍戸の掌が酷く熱い。引かれるがままに明るいところへ戻る。顔が赤いのがバレそうで、恥ずかしい。酔いや寒さで誤魔化せるだろうか。
なんて、杞憂だった。
酒なんかじゃ誤魔化せないくらいに真っ赤になった男がむっつりと黙り込んだまま、私の掌をぎゅっと握ったから。

(2018.5.21)
「#幼馴染」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -