子供の振りで切り抜けて



「俺、先輩のことが好きっす」

そう切原くんが言った時に、私が焦りも戸惑いもしなかったのは、彼の言う「好き」はあくまでも親愛であって決して恋愛感情ではないとわかっていたからだ。そしてそれは切原くん自身もわかっていることだっていうことも。

「先輩は優しいし、手当てしてくれるし」
「私が優しいっていうか真田くんが厳し過ぎるだけだよ。手当てしてるのは保健委員だからだし」
そう返すと彼はちょっとだけ不満げな顔をして、それから「でもやっぱり先輩は優しいっす」と繰り返した。褒められて悪い気はしなかったから私も微笑みを返した。

私の一個下の切原くんは保健室の常連さんだ。
一応彼の名誉のために言っておくと、切原くんが何もないところで転んでしまうようなドジっ子であるだとか、飛んできたボールを顔面でキャッチしてしまうような運動音痴でだからではない。
2年生エースの彼がボロボロになるくらいテニス部の練習が厳しいからなのだ。
うちのテニス部が強いことも、強くなるために厳しい練習をしていることも、立海にいる教師や生徒は大体知っている。それを彼らが望んで行なっているということも、当然。
テニス部の男の子たちは女の子たちからと人気はあるけれど、彼らの練習風景を見に行って応援する子は案外少なかったりする。彼女たちだって自分の好きな人が体罰として殴られたり、練習して血を流してるところはあんまり見たくないのだろう。
できることなら私もあまり人の血や怪我など見たくはないのだけれど、3年に上がり保健委員長となってしまった上に、生徒会の方から放課後も部員の怪我の手当てをしてくれないかと頼まれてしまえば断りきれない。生徒会書記の柳くんには一年の頃からなにかとお世話になっているので余計に断れなかったって理由もある。
そういうわけで私は放課後も保健室に残っていることが多く、自然と頻繁にやってくる子の顔を覚えてしまったのだった。

私の正面にいる切原くんは保健室の生徒用の古い椅子に腰をかけていた。
それはいつからあるのかわからないくらい古い椅子だから、少し体重移動するだけでギィギィと悲鳴をあげる。だから少し落ち着きのない切原くんが座るとこの椅子は普段よりもっとやかましく鳴き出す。そんな音にもいつしか慣れてしまった。

「あんまり優しい人ばかりを信用しちゃいけないよ」
そう言ってから彼の脚に消毒液をかけると、切原くんは私の言葉に「えっ?」と一瞬戸惑った顔をした後、かけられた消毒液が沁みたのか痛みにぎゃっと声をあげた。
彼は目を瞑って肩を震わせ身悶えて、一度悲鳴をあげて以降声も出さずにぎゅっと体を小さくしてその痛みに耐えていた。ぐっと握った拳に力が入っているのが目につく。
やりすぎてしまった、と内心驚いて思わず「えーと大丈夫?」と尋ねると「……全然大丈夫じゃねぇっす……」と呻き声が届いた。
消毒液かけ過ぎちゃったよ、ごめんね、と笑いかけると、謝罪が軽い……と上目遣いに睨まれた。

「でもこれでわかったね?怪我を治すための消毒液だって痛いんだ。優しいことっていいことばかりじゃないんだよ」
なんて、先輩ぶってそれらしいことを言ってみたけれど、すぐに切原くんに「それは先輩がかけ過ぎたからっしょ?」と最もなことを返されてしまった。

「つか、そもそも怪我しなきゃ消毒液かける必要もねーし、やっぱり厳しいほうが悪いことじゃん」
「あっ、確かに。これは一本取られたなぁ」
「先輩、意外と抜けてるんすね」
「あらら、それを切原くんに言われちゃったか」
へらへら笑ってたら「それどういう意味っすか!」と眉間に皺を寄せて怒られてしまった。
切原くんは良くも悪くも感情の起伏が激しくて、見ているぶんにはとても楽しい男の子だ。できることならいつだって元気な姿を見ていたい。
本当は保健室でこんな風に笑いあったりしないほうがずっと良いんだ。
だって怪我なんて、しないほうがいいに決まってるから。

「でもやっぱり先輩は優しいじゃないっすか」
「そうかな?」
「そうっすよ。先輩は優しいけど、優しいってことは、俺は先輩のことも信用しちゃいけないってことなんすか?」
多分彼は深く考えてないんだろう。
ただふと思いついたから。それだけの理由で、思いついた疑問を口にしたまま切原くんはじいっと私の目を見た。
まっすぐなその視線が、どうしてだか私は急に怖くなってしまって。けれどそのことに気がつかれないように、なんでもないふりをしたまま、そのまっすぐな視線から逃れるように彼の傷口へ目を向けた。一方通行の交わらない視線たち。
答えを求める瞳に気がついてないふりをして、大きめの絆創膏のシートを剥がして、切原くんの脛にある大きな擦り傷にゆっくりと貼り付けていく。
たぶん、この絆創膏だって今日彼がお風呂に入ってしまえばすぐに剥がれてしまうだろう。きっと今日のこの傷はカサブタにすらなれないまま、熱いお湯に濡れて、切原くんにじくじくとした痛みを与えるんだろう。消毒液をかけた時みたいにきっと彼は顔を歪めるのだろう。
それは、なんだか、悲しい気がした。

「……そうだよ。私はもしかしたら他校のスパイで立海の情報を取りに来てるだけなのかも」
だからそうやって結局、茶化すことしかできなかった。へらっと笑って、相変わらず目を合わせることもできなくて、剥がしたシートを丸めてゴミ箱に投げ入れる。コツンとゴミ箱の縁に当たったそれは、それでもなんとかゴミ箱の中に収まってくれた。

私の返事を聞いた切原くんは変な顔をしていた。何を言ってるんだろうって顔で相変わらず私のほうを見ていた。
それからぽつり「別にそれでもいいよ」と呟いた。
「いいの?」
「情報取られたからってそれは負ける理由になんねーし」

ぷらぷらと下げてた両手を頭の後ろに回して、彼はにっかりと笑う。
本当になんでもないみたいに穏やかに笑って、その笑顔を直視してしまった私は目を奪われてしまって、動けなかった。
そうして彼は、それに、と言葉を続ける。

「それでも先輩が俺の手当てしてくれたことは変わんねーから」

そう言って、笑った。
ただそれだけ、ただそれだけのことなのに。

ずるいな、この子は。
まったくもって降参だ。私は心の中で白旗を振った。
事なかれ主義こそが私の在り方だと思っていたのに、こんなにまっすぐそんなことを言われたらどうにだって優しくしてしまいたくなってしまうな。味方になってしまいたくなるな。

肩を落として、敗北を認める。へらりと笑って、なにもかもを受け入れてしまう。
「……いい子だねぇ、切原くんは」
「先輩、俺のことバカにしてるっしょ」
「してないしてない」
ころころと変わる表情。傷だらけになってもテニスから逃げない姿。近くないけど遠くもないところから見てたんだ。

「切原くん」
「なんすか?」
「何か困ったことがあったらなんでも私を頼ってくれていいからね」
「えっ?なんすか急に……」
ちょっと困惑したような顔に、思わず笑ってしまった。だよねえ、そう思うよねぇ。
「部活のことでも、勉強のことでも、恋愛相談でもなんでもいいよ」
君の力になってあげたくて仕方ないのだ、とは流石に言えず。

「そうだな、例えば、真田くんにあんまり厳しくされるようなら私に言ってね。私から彼にガツンと言うから」
「マジっすか!」
そう言うと切原くんはやったー!と嬉しそうにガッツポーズをして、すぐに私の両手を取ってブンブンと激しく握手をしてきた。
まあ、相手は真田くんなので、効果のほどは期待しないでほしいけどね。


握られた手の熱さ、硬さ。
そういうものがまだ残っている。
部活に戻りますって、元気よく駆け出していったその足音を白い部屋の中で聞いていた。遠ざかっていったそれはもう放課後の喧騒の中に紛れて消えていく。
がんばれ、なんてエールは今更だろうけど。
がんばれ、って一言呟いて、私は広げていた救急箱を片付けた。


(2018.5.7)
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