エンドロールに会いたい



※作中で橘さんは既に故人
※橘←千歳の描写あり


あっ、と思った時にはもう遅かった。
桔平の部屋の机の近く。そこでうっかり足を引っ掛けて、彼の鞄の中身を散乱させてしまった。
書類と、ペン類と、財布と……。いろいろな物がフローリングの上を滑って転がっていく。ああやってしまったと内心反省しながら、私は屈んでそれらをひとつひとつ拾い上げていった。
そうして最後のひとつ、窓際まで転がってった黒いボールペンに気がついた私は立ち上がってそれを取りにいく。

辿りついた明るい窓際。開け放っていた窓からは深緑の香りが湿度の高い熱風とともに吹き込んで、レースカーテンをふわりと膨らませた。
そのとき、薄く白い布一枚越しに、私は夏を見た。
また、夏が来た。
何度も繰り返してきた夏だ。
匂い、熱、色。夏はそういったものに満たされた感覚と寂しさを矛盾なく孕ませて私に伝えてくる。
真新しい風を受けたそのとき、唐突に胸の中に生まれた言語化できない感覚が痛みになって私を苛む。耐えるために静かに目を閉じた。
どれだけそうしていただろう、やがてゆるやかに収まっていく痛み。
それから私はゆっくりと目を開き、拾い上げたボールペンを手に窓へ背を向けた。

そうしてかき集めたものをひとつひとつ丁寧に鞄へ戻していく。

その、途中。

彼の鞄の奥底で、私は見つけてしまった。
半ば事故とはいえ人の私物をあさるような僅かな後ろめたさと、罪悪感。
けれど、それを覆い尽くす、彼のそばにいることのできる唯一の女としての淡い期待。心の中で桔平に謝ってから、私は鞄の奥底で眠っていたそれをそっと取り出した。

それは掌に簡単に乗ってしまうような小さな箱だった。
それは決して重くはないけれど、思わず丁重に扱わなければと思ってしまうような荘厳さがある。
その箱は深い藍色をしていた。彼が好んだ色であると、考えるより先に気がついた途端、ただの小箱がたまらなく愛しくなった。なんて単純な女なのだろう。僅かに自嘲しながらも溢れる感情のまま、肌触りの良い上質な布で覆われたその箱を少し汗ばんだ掌で優しく撫でる。

婚約指輪だ。
と、その中身に検討がつかないほど鈍感ではなかった。


◇ ◇ ◇


8月15日。その日はここ一週間の中でも特に蒸し暑い日だった。遮るもののない日射に熱せられたコンクリートが茹って、遠くの景色を陽炎のように揺らした。
日射を疎んでかぶったはずの帽子の中がひどく蒸れていた。篭った熱によって頭皮から首筋へ流れる汗の感覚に余計暑さを感じてげんなりする。
夏は嫌いではないけれど、毎年毎年のこの暑さはどうにかならないものか。何年繰り返してもこの暑さには慣れないし、今後も慣れる気がしない。
都会のビルの隙間を縫い歩きながら、私は逃げ場を求めるように待ち合わせ場所である喫茶店の扉を開いた。
ガラスが嵌め込まれた木製の扉を引くと、カランコロンと扉につけられていた鈴が店内に鳴り響く。入った途端に冷房の風が熱く茹だった私の熱を冷ました。

昭和初期からあるのだというこの喫茶店は落ち着いた雰囲気をしている。照明が少ないため中は少し薄暗いが、それが居心地の良さになっているのだろう。
こちらに気がついた店員が寄ってくる前に私はぐるりとそう広くはない店内を見渡す。すると、すぐに彼が見つかった。
窓際の4人がけシート席で背の高い彼と目が合う。おいで、と彼は私を手招いた。「一名様ですか?」と寄って来た店員に「あ、いえ、待ち合わせです」と言って、少しだけ早足に私は彼の元へ向かう。

「すみません、千歳さん。お待たせしてしまいましたか?」
「気にせんでよかよ。俺も今来たところばい」
微笑む彼に促されるまま、私は彼の正面のソファに腰をかける。
私たちの座る席は窓際。そのガラス窓からは歩道を足早に歩く人々と、その向こう側の四車線の道路を流れ去っていく車ばかりが見えた。
涼しい店内で、あっという間に汗は引いていく。それと同時に窓の向こう側のあの茹だるような熱の感覚もゆっくりと失われていった。
私は脱いだ帽子をソファに置いて、顔を上げる。そうして桔平の友人である千歳千里と改めて向き合った。

深い藍色の癖っ毛、座っていてもなおわかる高身長と、穏やかでありながらも精悍なかんばせ。その整った顔立ちでは良くも悪くも目立つだろうと思っていたが、聞くところによると案外そうでもないらしい。
曰く、場に溶け込むのが上手いというべきか、引き際を得ているというべきか、と。
「放浪癖があってな、いざ探そうとすると厄介なんだ」
記憶の中の桔平がそう言って笑った。
(だけど貴方はすぐに見つけてしまうんでしょう?)
少しだけ羨んだことを、桔平は、ましてや千歳さんはきっと知らない。

「今日も暑かねぇ」
「そうですね」
古びたメニュー表をパラパラと捲りながら千歳さんは呟くようにそう言った。彼が私の方からも見えるようにメニューを置いてくれたから、すこしだけ体を前にして覗き込む。
パンケーキやナポリタンなどもあったが夏バテのせいか、腹に固形物を入れるのが億劫だ。
アイスコーヒーにします、と告げ、メニューからそうそうに目を離してソファにぺたりと背中をつける。
朝も食欲がなかったし、完全に夏バテだろう。今の私の生活は以前よりずっと適当なものになっているから、多分、原因はそこにあるのだと思う。けれど改善する余地はなかった。なくなってしまっていた。
昼時は過ぎていたから、彼もそう食欲はなかったのか、千歳さんは呼び出した店員にアイスコーヒー2つ、とだけ告げて、静かにメニューを閉じた。

「お元気でした?お怪我とかご病気とかは」
「ん、なんもなかよ。名前さんは?」
「私も変わらず元気です」
「それはよかこつばい」
当たり障りのない言葉が当たり障りなく生まれる。
彼とはもうなんだかんだそれなりに長い付き合いのはずだが、それでも会うのは1年に一度程度。だからそのたびに、会わずにいた間に離れていったお互いの感覚を擦りあわせるように、毒にも薬にもならないようななんでもない会話を紡いでしまう。そうやって様子を見合って、伺い合って、そうしてようやく、話したいことを話せるようになる。この二度手間のような作業が、私はそう嫌いではなかった。

運ばれて来たアイスコーヒーのストローに口をつける。グラスについた水滴。濡れたコースター。音を立てる氷。口に広がっていく苦みと冷たさ。
「コーヒー」
「ん?」
「いや、紅茶かコーヒーだったら、桔平もコーヒーでしたよね」
「そうたいね。ばってん、もっと言ったら緑茶派たい」
「確かに」
ゆるやかに流れが変わっていくのを感じた。より深いところへ、お互いの深いところへ。けれど決して相手の内心の深みに足を取られないように。

「もう5年くらい経つとね?」
「ああ、もうそんなになりますか」
「いや、わからん。ちゃんと数えとらんけん」
「数えても意味ないですしね」
思っていたよりずっと、なんでもないような声が自分の口から出た。
それを聞いた千歳さんは顔を上げて私を見て、それから安心したように微笑む。その行為の意味を私だけは理解できたから、黙って微笑み返す。


桔平が死んだ。
もう随分前のことだ。
夕食を作っている途中「卵が足りないから買ってくる」と告げて彼は買い物に出かけた。鍋を見ておいてほしいと頼まれた私は、キッチンから「いってらっしゃい」と声をかけた。それに答えるように軽く手をあげる彼の後ろ姿を見送った。そうしていつものように彼が帰ってくるのを待っていた。

桔平はその帰り道に交通事故にあって死んだ。
だから私は未だに彼に「おかえり」を言えずにいる。


桔平の遺体は焼かれ、空虚な骨となって冷たい墓の下にある。
私は葬儀場で、火葬場で彼が死人として扱われていくそれらすべてを見届けた。彼の遺品は、妹である杏ちゃんからいくつか渡されて私の手にある。
私は桔平が死んだことを知っている。

それでもなお、私は桔平が卵を買って家に帰ってくるのを待ち続けている。

私は桔平が死んだことを知っている。
私は桔平が死んだことを知っている。
私は桔平が死んだことを知っている。
私は桔平が死んだことを事実として知っている。

けれど、桔平が死んだことを認めてはいない。

それは、おかしいことだろうか。

葬儀場で涙のひとつも零さず、石のようにじっと座っている千歳千里を見た時、私は気がついた。
ああ、あれは私だ、と。
おそらく、彼も気がついたのだろう。自分とおんなじ人間である、と。
だから理解するのは容易かった。
彼が桔平に向けている感情は私が抱えているものと同じであるということに。

それは彼の死を認めていないということだけについてではない。
私が桔平を愛するように、千歳千里も桔平を愛しているということ。
愛念、恋慕、傾慕、情愛。
言葉はなんだっていい。私も彼も、橘桔平という一人の男を愛している。ただそれだけの、決して揺らぐことのない共通点。

「桔平の紹介で初めて千歳さんと会った時は全然気がつきませんでした。千歳さんも桔平の事が好きだって」
「そぎゃんドジ、今更踏まんよ。俺こそ、名前さんと桔平がこんなに長く続くとは思っとらんかったけん驚いたとよ」
「早く別れればいいって思ってたんじゃないですか?」
「今も思っとるばい」
BGMの音だけが微かな店内に私たちの笑い声が小さく響く。私が彼に対してもう少し遠慮がなかったらテーブルの下の長い脚を蹴っ飛ばしていたかもしれない。

と、そのとき。心臓が強く跳ねた。
不意に。
反射的に。
私たちは同時にガラス窓の向こうを見た。
考えるより先に体が動いていた。たとえ今世界が崩落してもきっと目を離せなかったに違いない。ああ、だって、これは本能のようなもの。だから、追ってしまう。その面影を、姿を。

ガラス窓の向こう側。

歩道を歩き去っていった人。
それは背が高くて、短い金髪の青年。
それは、まるで……。

心臓が次の瞬間には止まってしまうんじゃないかってくらい、大きな音を立てた。

…………違う、彼じゃない。

それに気がついたとき、いつのまにかカッと熱を持っていた頭が冷水を浴びせられたように一気に冷えた。
私も千歳さんも見なくてもお互いの考えている事がわかってしまう。
同時に跳ねた心臓のことも、落胆した感情のことも、嫌でもわかってしまった。
そしてこれが初めての経験ではないということも。

彼じゃない誰かが通り過ぎていっても、私たちはまだガラスの向こうを見つめ続けていた。遠くで揺らめいたコンクリート。足りない現実感に頭がどうにかなりそうだ。
長い間、私たちは何もない場所を見ていた。それからゆっくりと顔を戻す。私も千歳さんも正面を向き合って、そこにあったのは鏡だった。千歳さんは酷い顔をしている。見なくてもわかった。きっと私も同じ顔をしている。
何か言わなくてはと焦って、まるで幽霊でも見たような顔ですね、とでも言おうとして、すぐにその考えを捨てた。そんなことを言うくらいだったら黙っている方がマシだ。閉じた唇をぎゅっと噛み締める。

私たちは彼の死という深みに足を取られたまま、傷が治らないようにかさぶたを剥がし続けている。
その傷を癒そうとする言葉や時間を拒絶することを選んだ。違う、選ぶことしかできなかったんだ。だって、受け入れられる筈もない。
失ったものや、それを失った意味なんて、わかる気がしない。この先もずっと、永遠に。

グラスの中の氷が音を立てて溶けた。

「もしも、」
口を開いた途端、千歳さんの意識が私に向いたのがわかった。
店内のBGMは途切れてた。例えるのなら、半旗のように。
「私と千歳さんがこうやって会ってるのを桔平が見たら浮気を疑ったりするかもしれませんね」
叩いた軽口は本当に軽かった。
水よりも空気よりも焼かれた骨よりも軽くて空虚で、そこに意味なんて無かった。
けれど、
「へえ、」
千歳さんが下手くそに笑った。
そうして少しだけずるい顔をして、私のことを見た。
「名前さんはそぎゃんふうに思うとね?」
言外に、俺はそうは思わないと彼は語る。

同じ人を見てきたけれど、感じるものは違うらしい。それは見てきた角度や側面が違うのかもしれないし、受け止める側の違いなのかもしれない。
故に踏み込みきれない私たちはポーカーフェイスで橘桔平を愛し合う。歩み寄り合いながら、突き放し合いながら。
私が知らない桔平を千歳さんが知っているように、千歳さんが知らない桔平を私は知っている。
それは当然のことで、だけれど寂しくて、だからこそ優しい。

私は不意に今朝のことを思い出した。
桔平の鞄をひっくり返してしまった朝のこと。
鞄の奥底で眠っていた小箱のこと。

結局私はその小箱を開けることはせず、静かに鞄の中へ戻した。私は何も見なかった。そういうことにしよう。
いつかきっと、桔平が私に渡してくれる日まで、何にも気がついてないふりをしておこうと思ったんだ。

そう、いつか。
桔平が照れたように顔を赤らめながら、或いは真っ直ぐに真剣な目で私を見つめながら、この小箱を私に向けて開いてくれる日まで。いつかきっとやってくるその日までずっと、ずっと、ずっと、待っている。
それが幸福ではないと、いったい誰が言えるだろう。いいや、決して誰にも言えるはずがない。

だって私は小箱を見たその瞬間、確かに未来を見たのだから。

(2018.4.25)

『橘さんが事故死して、橘さんと付き合っていたなまえさんと橘さんのことをずっと好きだった千歳だけが残されて別に付き合う訳じゃないけど誕生日だけ橘さんの話するっていう話』というフォロワーさんのツイートが元ネタでした
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