将来的に死んでくれ



※下品

望んでいたのは平々凡々な人生。当たり前の人生のレールに沿って生きることのなんと素晴らしいことか。ごく普通に学校に通って、ごく普通に就職して、ごく普通の人とごく普通に結婚して、ごく普通に子供を産んで、ごく普通に幸せになって、ごく普通に死にたい。私の望みはそれだけなのだ。
だというのに神様は残酷だ。私のそんなささやかな願いすら叶えてくれないとは。神は死んだ。何故なら私が殺したからだ。私を助けてくれない神なんぞに価値は無い。一切の残念なく死ね。ああ、くそ、もう神でも仏でも誰でも何でもいいから本当に助けてくれ。
全ては中学1年生のあの秋の日のせいだ。まだ何も知らなかったあの日の私。タイムマシンがあるのなら今すぐにでもあの日に戻って、これから自分の人生に何が起こるのか何一つ知らない私を救いに行きたい。
あれから2年。私の人生はあの日からたった1人の男によって狂わされた。
頼む、どうかこんなにも可哀想な私を救って。できることなら今すぐに。叶わないのならせめて私が18歳になるまでに。

千歳千里と別れたい。
私の願いはそれだけだ。


「久しぶりたいね、名前」
通学路にその男はいた。見上げるほど背の高い男。少し藍色混じりの黒で、量の多い癖っ毛。カランコロンと鳴る鉄下駄。千歳千里。私はそいつを視認した瞬間、遅刻ギリギリの学校のことも鞄の中の弁当のこともすべてをかなぐり捨てダッシュでその場から逃げ出した。ろくに部活にも入っていない女の全力疾走。100メートル15秒台。そんなもの千里にとっては赤子のハイハイのようなものだ。後ろの男はへらへら笑って「鬼ごっこばすっと?」などとのたまいながら、私に追いつきそうで追いつかない、けれども私が少しでも速度を落としたら即座に捕まるような速さをキープしながら追いかけてくる。さながら逃げる獲物を甚振る獣のように。千里はつまり、私の体力が尽き切って本気で動けなくなるまで走らせようと考えているのだ。まんまと嵌められた私は、だからと言って立ち止まり敗北を認めるわけにも行かず、結局獅子楽中から遠く離れた川原の土手まで走らされることとなった。
川原に辿り着き、しかしもう走れないとわかってしまった私は芝生の上に膝をついた。私の脚は可哀想なくらいぷるぷると震えている。くそ、全部全部こいつのせいだ。目の前で準備体操程度の運動が終わったとばかりに伸びをしている男を睨みつける。
「むぞかねぇ名前。生まれたての子鹿のごたる」
視線で人が殺せるのなら私はもうとっくの昔にこの男を殺していただろう。
「……ッハァ、……ハッ、せ、……千里……」
「なんね、名前?」
まるで愛おしいものの名を呼ぶような甘ったるい声で千里は私の名前を呼んだ。その声が私の耳に届いた途端凄まじいまでの悪寒。走らされたせいで体は火照って熱いくらいなのに、ぶわぁっと全身に寒気と鳥肌が走る。
この世に呪いというものが本当に存在するのなら、むしろ死んでいないのが不思議なくらい私はこの男を呪い、憎み、嫌悪した。
「千里……なんでここにいる……」
地を這うような声が自分の喉から出た。意味がわからなかった。千里は今はもう大阪の学校に引っ越したはずだ。ここ熊本にいるわけがないし、いて良いわけがない。なのに、こいつはいる。当然のような顔して私の前に現れる。だが、何故ここにいるのかと尋ねておきながら私はその答えをもう知っていた。何度も何度も繰り返し刷り込みのように認識させられる。逃げられない。私はこの男から逃げることはできない。
何故なら、
「名前に会いに来たっちゃよ!」
この男に私を逃す気が無いからだ。

千里は、もう動けなくなり芝生の上に転がるだけになった私の体を自分の方へ引き寄せると、そのままぎゅっと抱きしめ私を腕の中に閉じ込める。されるがままの私はハアハアと未だ冷めることのない疲労に喘ぎながら、彼の腕に締め付けられるまま、その硬い胸に額を押しつけることしかできなかった。熱い、自分も千里も。抵抗するすべも無く私は顔を上げさせられ、人形みたいにされるがまま千里に唇を奪われた。疲れのせいで荒く口で息をしていたから、奴の舌は容易く私の口内に入って来て、当たり前のように歯列をなぞり舌を絡め喉奥へ熱い唾液を流し込んだ。いくらひと気の少ないの田舎だと言ってもこんな朝っぱらから外で私は何をされているのだろう。ぐちゅぐちゅぴちゃぴちゃとわざとらしく音を立てて、千里は熱にオーバーヒートする私を愉悦の目で見ていた。死にたい。右目から一筋涙が流れる。酸素の足りない頭で思った。死にたい。もしくはこの男を殺したい。


まず第一に、私と千里は恋人関係である。
中学1年生の時の私は何も知らない子供だった。「名前のこつたいぎゃ好いとうよ」と微笑んだ千里に言われるがままうなづいた時点で私の未来は確定してしまっていたのだ。今は後悔しかしていない。本気で千里と別れたい。こんなクソみたいな男とはもう関わり合いたくもない。だが千里はそうではないのだ。アレは私とは反対に本気で私を好きでいる。愛していると言ってもいい。私の自惚れではない。そうであったらどれだけいいか。千里は私を本気で愛しており、将来的には結婚する気でいる。頼むから死んで欲しい。

それから次に、千里はヤリチンである。
彼は早熟で奔放で性的な欲求が人より強かった。依存気味と言っても良い。なにが奴をそうさせたのかは知らないが、来るもの拒まず去る者追わずの精神で街灯の集まる蛾のように寄って来る女を取っ替え引っ替え抱いている。それは彼が獅子楽にいた頃からのことだ。きっと私がいない大阪でも同じようなことをしてるに違いない。これは確信を持って言えることだ。

それから最後の話。私が処女であるということ。

何もかもが矛盾して破綻しているはずなのに、何もかもが複雑に絡まりあいながら成立していた。
『セックス依存症気味の千里は私を本気で愛しているが私を抱いたことはない』
意味がよくわからないだろう。私もだ。

地獄のような記憶を再生させることにしよう。それが一番手っ取り早い。
これはまだ私と千里が付き合い始めたばかりの頃のこと。愛だ恋だのそんなものすらろくにわかっていないまま、私は千里と恋人になった。一緒にどこかへ出かけたり、手を繋いだり、せいぜいその程度の可愛らしいものしか私は知らなかった。なにも知らない、というと嘘になるかもしれない。薄らぼんやりとくらいは男女の性的な接触について知ってたかもしれない。それもせいぜい、保険の教科書に載っている程度のこと。
けれどそれでよかった。それはまだ私たちには早いものであるはずだ。千里は私のことを好きだと笑った。私はそれが嬉しかったし、その笑みを見て私も彼のことが好きだと思えた。私はそれでよかった。十分満足だったのだ。

それは一体いつ頃だったか、確か私たちが2年に上がったばかりの春先のことだったと思う。
その日私は委員会の仕事で大量のプリントを扱っており、確かその紙で指を切ってしまったのだったと思う。切った場所が悪かったのか血が止まらず、仕方なく保健室に絆創膏を貰いに行こうとしたのだ。校舎の一階の端っこにある保健室のあたりは特別教室が集まっており、放課後になると恐ろしく静かになる。夕暮れ、西日が差し込む廊下を進んで私は保健室の前に来た。
保健室の扉には「ただいま保険医不在です」と書かれたプレートが下げられていた。つまり、中に保険の先生はいないということだ。放課後であったし、もしかしたらもう帰ってしまっているのかもしれない。タイミングが悪かったようだ。仕方ないが、切り傷は水道で血が止まるまで洗い流すしかない。そう思って立ち去ろうとした時、部屋の中から僅かに人の声が聞こえた。それは確かに人の声だった。中に人がいる。先生ではなくとも、どこかの部活で怪我した生徒が中で処置をしているのかもしれない。ちょうどよかった。絆創膏を一枚貰うくらい、いいだろう。そう思った私は保健室の扉に手をかけ、何のためらいもなく扉を開いた。
保健室の中に人はいた。1人ではなく、2人。遠くから校庭で部活動をする生徒の声が聞こえた。そんな些細なことを未だに覚えている。保健室に入って正面より少し左手のほう。いつもはカーテンで閉められている体調不良者用の白いベッド。その日その時その瞬間は開け放たれていて、私の立っている入り口付近の位置からでもそれらははっきり見えた。ベッドの上に2人はいた。…………あまり思い出したくない。1人は女で、確か同じ学年の……いやそれはどうでもいい。乱れた制服の女の上に跨っていたもう1人、肌蹴た制服の男は見間違えようもない。私の恋人であるはずの、千歳千里だった。一瞬なにが起きているのかは理解できなかった。当然だ、それまで画面越しにすら見たこともない男女の熱の籠もった絡み合い。けれども私はそれを理解してしまった。それがただ、恐ろしかった。固まったまま立ち尽くす私。不意に千里と目が合った。黒い目が私を捉えた。そこから先のことはあまり覚えていない。多分私はその場から逃げ出したのだろう。

後日、私は放課後に千里を空き教室に呼び出し、当然のことながら彼に別れを切り出した。彼もその意味を理解し、別れてくれるだろうと思っていた。……現実は違ったのだが。
「なして?」
別れて欲しい、と言った私に千里はそう返した。それは誤魔化しや冗談などではなく、本気で理解できていないという顔だった。
「千里、この前の放課後、保健室でなんしよった……?」
「ん?ああ、アレがどぎゃんしたと?」
「……ッ、お前あんなん見せといて今更白々しくどぎゃんしたかち言うんかッ!」
「名前?なして怒っとると?」
その言葉に絶句して、それからカッと頭に血が上った。あれだけ人の目の前で決定的な浮気をしておきながら何故怒っているのかだと?何故別れたいのかだと!?このクソ野郎が、と思わず怒声を吐き出そうとしたその瞬間。

「あれは代用品たい」
その瞬間、私が抱えていた全ての熱が凍らされた。今まで彼からは聞いたことのないような、恐ろしくゾッとするような声音。見上げた千里の顔は変わらない、穏やかな笑みだというのに背筋に寒気がした。罵倒しようと開きかけた口を閉じることも声を出すこともできないまま凍りついたように私は固まる。千里はそんな私を見下ろして、ふっといつものように優しく微笑んだ。千里はゆっくりと手を伸ばして、それから私の頬に触れる。思わずびくりと体は跳ねて、反射的に一歩足が下がった。ふふふ、と上から微かな笑い声が落ちてくる。
「名前」
ひどい落差だ。なんて、甘ったるい声で私を呼ぶのだろう。まるで愛おしいものに触れるかのような指先。私にそれがひどく恐ろしかった。ジリジリと下がって、下がって、下がって、私の背中は壁にぶつかる。
「名前、愛しとうよ」
窓から差し込む西日に千里は逆光になる。けれど見上げた彼の顔には恍惚とした笑みが。ああ、どうして逆光は彼の表情を隠してはくれなかったのか。
「名前のこつば今すぐにでも抱きたかばってん、今孕んだら困っとやろ?」
孕む、という直接的な言葉に肩が震えた。ずぐりと下腹部が疼く。今まで碌に認識すらしていなかった子宮が、私の腹の中で自分はここに有るのだと存在を主張し始める。思わず私は私の右手で腹を押さえた。何も無い、そこには何も無いのに。
「18歳」
呟くような微かな声。目の前の千里が夕日の中できらきらと輝く。私は私の眼球がイカれてしまったのだと思った。全てが見透される。私の肉体は何一つこの男から逃げられない。

「俺と名前が18ばなったら、」
孕ませちゃるけんね。

美しい男はそう言って唇を歪める。
嗤っているように見えた。獲物を前に牙を剥き出しにしているようにも見えた。多分どちらも正しい。
気付かぬうちに詰められていた距離。彼の長い指が私の首にゆっくりと回る。そのまま締め殺してくれ、と思った。そうでなければ、この首を折ってくれと。無論千里がそのどちらも選ぶはずがなかった。首に回した手の、親指と人差し指の付け根あたりの甲で私の顎裏を押し上げ、顔を上げさせる。真っ直ぐに私を見つめるその目に囚われたまま、その黒い瞳に映る怯えた姿の私を見た。それから私たちの距離は私の意思を無視してゼロにされる。優しく、柔らかく、愛を持って、蹂躙された。初めてのくちづけの味など記憶にない。ただ、奪われた、という感覚だけが残された。

彼曰く、愛情と性欲は別なのだと言う。私を好いているのは事実。抱きたいのも事実だが抱くことはできない。もし一度でも抱いてしまったら我慢がきかなくなり、絶対に孕ませてしまうから。故に私を抱くことはできないけれど性欲は当然あるから、名前以外の適当な女で発散するしか無いのだと彼は言った。どう考えても浮気なのだが、千里の倫理観の中ではそれが正しいのだろう。
頭がおかしくなりそうだった。土下座して別れを懇願しても千里はけらけら笑って「いかんよ名前。約束ばしたけんね」と交わした覚えのない将来の約束を持ち出される。私がその考え方はおかしいと彼に言っても彼は笑って「名前がやきもち焼くち、むぞらしかね」と言うだけだった。私は私の倫理観とともに生きたい。私の倫理観を理解してくれる人と生きたい。そしてこの男はそうではない。
だから逃げなくてはならない。この男から本当に逃げられなくなる前に。18歳になる前に、逃げなくては。

だから千里が大阪に行った時には酷く安心したのだった。目のことについては同情するが、それとこれとは別だ。やっと解放された。逃げられたのだと、そう思った。けれど当然そんなわけがない。距離が離れたなんてその程度であの男が執着心を失うわけがなかった。
だから今日もこうして私を逃さぬように再びここにやってきたのだから。


結局、私と千里は平日の真昼間から、当たり前みたいな顔で学校をサボって川近くの芝生の上で並んで座っていた。サボりたくてサボったわけではない。逃げられなかっただけなのだ。いっそのこと学校や両親に叱られても構わないから巡回中の警察官が来て私たちを補導してくれないだろうか。淡い願いは当然叶わない。
私は陽の光を反射させてきらきら輝く水面を見ていた。私の肩に頭を置いている千里は自分の指先を私のものと絡ませては、ただそれだけのことで幸福そうに笑った。
「名前の手ば、ぬくかねぇ」
「……そうかよ」
こいつは人を通学路で待ち伏せ追いかけ回して外で濃厚なキスをしてくるような最悪な男だ。絆されてはならないとわかっている。けれども性と愛の問題が絡まなければ、彼はこうも穏やかに微笑む人なのだと認識させられることがつらい。

「…………千里、大阪は楽しかと?一人暮らしは寂しくなかか?」
「名前……!心配してくれっと!?」
「別に……」
ただ近況を尋ねただけでこんなにも嬉しそうに擦り寄ってくる。今すぐ距離を取りたいが、千里に強く手を握られているからここから動けなかった。くそっと毒づいてから抵抗を諦める。
「四天宝寺ば楽しかよ。一人暮らしもそう悪くなか。ばってん名前がおらんけん寂しかね」
こっちに来る気はなか?などと巫山戯たことを抜かすので、絶対に嫌だとはっきり伝えると「照れ屋さんやね」と空いた方の手で撫でられた。なぜ同じ日本語を話しているはずなのに意思の疎通ができている気がしないのだろうか。

「名前」
「…………」
「名前〜?」
「…………なに」
「2年と2ヶ月たい」
「なにが?」
ちらりと横目で見た千里はきらきらとしていた。私の目がおかしくなったのだろうか。陽の光、水面の反射、そういうものではなくまるで彼自身が発光しているかのような輝き。私はこれを以前にも見たことがあったはずだ。
眩ゆい輝きの中、千里はまるで完成し切ったかのような美しい微笑みで私を見つめた。ゆるく歪んだ口元からもたれそうなほど甘ったるい声が蜜のように零れる。

「名前がぜぇんぶ諦めて、俺んとこ来るまでの時間たい」

なにを言っているのかまるで理解ができないが、今すぐにでも死んで欲しいと思った。

(2018.4.8)
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