熱が冷めない



酸素が足りない感覚には気がついていた。だからドアが開くたびに外の空気が入ってくる出入り口付近をキープし続けてはいたのだけれど。
(電車、もう一本遅らせればよかった……)
どうして東京はこんなにも人がいっぱいいるんだろう。
日曜日の朝、親戚に会う予定があって乗った電車はまさに満員電車だった。人波に体を潰されてしまうほどではなかったけれど、身動きはしづらくて周囲の人と肩がぶつかるたびについ縮こまってしまう。
人が多いから春先なのに車内は酷く熱くて、密室だから空気も薄かった。
私にとって最悪の条件が整っていたのだ。

決して体が弱いわけではないのだけれど昔から人混みが苦手な上に、全校集会の時のように長時間立ちっぱなしでいるのが苦手だった。ひどい時にはそのまま貧血を起こして蹲ってしまう。
そういう自分の体質をわかっていたから、普段から人混みは避け、体調が悪い時には無理をしないようにはしていたのだ。
なのに今日はそれをすっかり忘れて、何も考えずに人の多い電車に乗ってしまったことが私のミス。
人混みと、長時間の立ちっぱなし。嫌な予感はついに的中してしまった。


それは乗り込んでから5駅目くらいの時だった。
(……どうしよう、息がしづらい)
息を吸っても吐いても、体の中で酸素が循環する感覚がなかった。まるで穴が空いた自転車のタイヤに必死に空気を入れてるみたいな、そんな空回りした感覚。
それになんだかお腹の鳩尾あたりが気持ちが悪くなってきた。
経験上良くない傾向だなと気がついた私は、なんとか酸素を吸おうと上を向いて口を開いて息を吸おうとしたがやはり空回りしてるような気がした。酸素じゃなくて二酸化炭素ばかり吸ってるような息苦しさ。それに、そうだ、この路線はよく揺れるんだった。がたんごとんって揺れる電車に合わせて脳味噌と胃の中が揺れる。頭が、痛い。気持ち悪い。急に何かに縋りたくなって手すりを掴み直そうとしたけど、手を離した途端手すりが何処にあるのかわからなくなってしまった。もう指先が冷たくて、ほとんど感覚がなくなっていたのだ。指先を見ようとした時、頭が沸騰するように熱を上げた。途端目の前が壊れたテレビみたいに眩しくチカチカとした。視界から世界が消えていく。目の前が前衛芸術みたいなサイケな色に染まっていく。
(あ、これ、ダメかも)
そう思った時にはもう遅かった。

カクンと膝が折れた。そうしたらもう立っていられなくなってしまって、ずるずるとその場に座り込んでしまう。
目の前がチカチカする。赤とか青とか緑とか黄色とかいろんな蛍光色でぐちゃぐちゃになったホログラムみたいな視界の向こう側で他人の靴だけがたくさん見える。吐きそうだった。けどこんなところで吐いたら汚いし、すごく迷惑になる。左手で鞄を抱えながら右の掌で口を押さえた。俯いて、役に立たない視界から逃げるみたいに目を強く強く閉じる。何かを掴んでいないと怖くて仕方がなくて、必死に鞄の持ち手に縋る。次の駅で降りよう、降りなきゃ。目的地じゃないけど、このままじゃ周りに迷惑だ。どうしよう気持ち悪い。気持ち悪い。息がしづらい。お願い、早く着いて。たくさんのざわめきが頭の上に振ってくる。体の内側が熱い、のに、外側は凍りついたように冷たくて寒い。吐きそう。いや。いやだ。だれか、たすけて。

「大丈夫ですか?」
低い男の人の声がすぐそばから聞こえた。
苦しいから目を開けることはできなくて、だからその人の声だけしか聞こえない。けれどそれが今の私にはどうしようもなく救いだった。気がつくと開けない瞼からぼろぼろと涙がこぼれていた。
「すいません、ちょっと背中撫ります」
「……はい…………」
ごめんなさい、と掠れた声でそれだけしか答えられなかった。
少しおっかなびっくりに私の背中に多分その人のものなのだろう掌が触れる。温かい、と思った。それが躊躇いがちにゆっくりと、上下に動いた。
ただ、それだけ。別に気持ちの悪さがどうにかなったわけではない。相変わらず気分は最悪で、瞼の裏にはチカチカと混乱するような視界が在り続ける。

けれども、
「もうすぐ次の駅っぽいんで、そこで降りましょう」
ただ、安心した。
救いの手が伸ばされたという事実、それだけのことで心は落ち着いた。よかった、もう大丈夫だとそう思えた。

「荷物持ちます。立てますか?」
次の駅に到着してドアが開いた。
彼の言葉にガクガクとうなづくと私がずっと掴んでいた鞄は私の手からすっと消えて、その代わりその人が私の手を取ってくれた。
「すいません、出ます。開けてください」と私の代わりに周囲に声をかけて道をひらき、ゆっくりと外へ連れ出される。
出入り口の段差を降りた途端、風が頬を撫でる。深呼吸をする。
やっと息ができる、と思った。

(「悪い、サエたち先に行っててくれ」「俺はバネについていくのね」「ありがとな、いっちゃん、助かるわ」「わかった、じゃあ向こうには伝えておくから」「ありがとな」「急がなくていいからね」)

ドアの閉じる音。遠ざかっていく電車。
私は駅のホームで蹲った。彼に、彼の友人たちにひどく迷惑を掛けてしまったということだけを理解した。
申し訳なさにただ俯いて、ごめんなさいと再び彼らに言うことしかできなかった。
「大丈夫ですから。そこにベンチあるんで少し横になりますか」
「バネ、俺駅員さん呼んでくるのね」
「いっちゃん、頼んだ」
再び手を引いてベンチまで連れてきてくれた彼は、大丈夫ですと虚勢を張る私をベンチに寝かせた。
「スカートなんでジャージかけときますね。あっ、ちゃんと洗ってるから大丈夫なんで」
「いや、そんな、そこまで……」
横になる私の腰元に彼は何か布のようなものを、確認したところ彼の言葉通り赤いジャージをかけていてくれた。至れり尽くせりに、ありがたいけれどとにかく戸惑ってしまう。
外の空気も吸えて、この頃にはもう目を開くこともできて、あの熱い車内にいた時よりずっと回復していたので余計に申し訳ない。
その上、もう一人のこの駅で降りてくれた彼の友人が駅員さんを連れて来てくれる前にいつのまに買っていたのか、スポーツドリンクを一本手渡してくれた。
「水分摂った方が楽になると思うんで」
「そんな、ごめんなさい、何から何まで……」
「気にしないでくださいって。ん、さっきより顔色良くなってんな、よかった」
そういって、彼は初対面のはずなのに本気で安心したように笑う。そんな彼を見て、私は場違いにも貧血じゃない眩暈を起こしてしまった。

駆けつけてくれた駅員さんが、駅には救護室があるというので少しだけそこで休ませてもらうことにした。
ベンチから立ち上がって、お礼を言おうとすると慌てて彼らに止められる。座ったままで申し訳ないが、と前置きして2人に頭を下げた。
「ごめんなさい、でも本当に助かりました。って、あのもしかして今日大会とかだったんじゃ……!」
彼らの肩にかけられたテニスのラケットケースが目について、私は青ざめる。どうしよう、大変なことをしてしまったかもしれない。

「大丈夫ですよ、今日はただの練習試合ですから」
そう答えてくれたのは駅員さんを呼んでくれた男の子だった。こちらを安心させるような笑みで、大丈夫ですと微笑んだ。
もしかしたらそれは私を安心させるための嘘だったのかもしれないけれど、私は黙ってうなづいて、もう一度「本当にありがとうございました」と頭を下げた。
私の手を引いてくれた背の高い黒髪の男の子は座っている私に目線を合わせるためにベンチの前で屈んだ。それから私の顔を上げさせると「体には気をつけて」と言って「それから、もう無理はしねえように」と続けた。私が「はい、約束します」と神妙にうなづくと満足そうに「よし」と冗談のようにわらってくれた。

彼らはその後、次にやって来た電車に乗り込んでいった。
ドアの向こうで手を振ってくれた2人に、手を振り返して、流れていく電車を見送った。目の前にあった電車が遠く離れ、小さくなってやがて消えていく。それを私は穏やかな気持ちで静かに眺めた。
それから駅員さんに促されて、ゆっくりと立ち上がろうとした私はあることに気がついてしまった。

「あっ……」
「どうかしたかい?」
私の腰元には赤いジャージが残っていた。それを手にとって駅員さんに見せる。
「あの、このジャージさっきの男の子が貸してくれたものなんですけど、私返しそびれちゃって……」
「おっと、それは困ったね」
駅員さんはジャージをまじまじと眺めると「六角中か……」と呟いた。
良く見るとジャージの左胸のところに六角中と書かれている。
「ご存知ですか?」
「確か、千葉の海の方の学校だったと思うよ」
「千葉……」
私の家も千葉県内にある。海の方、といっても太平洋側なのか東京湾のほうなのかわからないが、おそらくそう遠い距離ではないはずだ。
落とし物として預ろうか、と申し出てくれた駅員さんの言葉に私は少しだけ考えてから首を振った。

「あの、もしかしたらホントは良くないかもしれないんですけど、私の手で返しに行きたい、です」
助けてくれたお礼もちゃんと言いたいですし……。そう言うと駅員さんは少し考えてから「いいよ」とうなづいてくれた。
「かっこいい男の子たちだったもんね」
「えっ、あっ……いや、別に、そういうんじゃ……え、ええと、……」
返事が尻すぼみになっていく私を見て駅員さんは「ごめんごめん」と笑った。
急に熱くなった頬に彼が渡してくれたペットボトルを押し当てる。

自分でもバカみたいなことを言ってるって思う。けどあの時あの瞬間、私を助けてくれたあの男の子は本当に王子様のように思えた。
赤いジャージを胸に抱きしめる。どくどくと心臓が跳ねるのは体調不良のせいなんかじゃないってわかってた。

どうしよう。
温かい掌の感触がまだ消えない。
熱が、冷めない。



赤いジャージの内側に「黒羽春風」と彼の名前が刺繍されていることに私が気がつくのはもう少し後の話。


(2018.4.6)
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