アウトサイダー



※伊武くんは報われない


呼んでもないのに勝手に俺の頭の中に住み着いたその人は背中まで届く長い黒髪の人だった。
無愛想な俺とは違って、いつも笑っていて穏やかで優しくて綺麗な人。

俺が知っていることは大抵他の奴らも知っていることだった。
苗字名前。3年6組。写真部。
文化部のくせに脚が早くて、体育祭では選抜リレーに出てたこと。
委員会は放送委員で、昼休みはたまに彼女の声が全校に響くこと。
笑うと右頬にえくぼができて、夏は長い髪を一つに結わくから白い頸が見えること。

それから、それから、みんなが知ってること。
彼女は、橘さんの恋人だってこと。


「よっ、伊武君。朝から精が出るねぇ」
朝練のランニング中に気安い口調で話しかけてきたのは苗字さんだった。右のえくぼがよくわかるくらいニコニコと笑っている。
マフラーで首が隠れた彼女は冬服の紺セーラーを纏ったまま俺に向かってパタパタと手を振る。
そのたびに彼女の膝丈のスカートがゆらゆら揺れて、思わずそれを目で追いかけてしまって、だから、その、とても困る。

「……はよございます。……はあ、今ランニング中だってわかんないのかなこの人……」
「ランニング中にも関わらず先輩のために立ち止まってくれる伊武君はほんといい子だねぇ」
けらけら笑って、俺の頭を撫でようと彼女は手を伸ばすから慌てて距離を取る。
気安く触らないでほしい。
彼女にとって当然の距離感は俺にとってそうではないのだ。触れられたところが熱を持って痛みになって心臓の奥まで焦がすだなんて、アンタ知らないくせに。

「なんでこんな早いんすか」
「私?」
「はぁ……アンタ以外に誰がいるわけ……」
「私は放送委員の雑用。ほら今日って午前中に卒業式の練習あるじゃん?それに使う機材の準備」
「卒業生のくせに……」
「そーなの!卒業生なのにこき使われてんの!うちの学校のそういうとこどーかと思うわ」
「あっやばい、遅刻する」と、喋るだけ喋って苗字さんはじゃあねと手を振って体育館の方へ駆けて行った。
背を向けて走り去っていく苗字さんへ向かって小さく手をあげる。そのまま小さくなっていく背を見送って、彼女が見えなくなってから、すとんと手を下げた。そうして何かを振り払うみたいに途中だったランニングを再開する。口をぎゅっと噤んで、また走り出した。
ランニングのせいじゃない理由で火照った頬を誤魔化したかった。
誰に?…………俺自身に。
だってこんなの、無意味だ。無価値だ。
こんな感情、早く、早く死んじゃえばいいのに。

今は2月の下旬。
まだ肌寒くて、風は冷たくて、桜は咲かない。あと半月もすれば、大切な人たちが大して大切でもないこの校舎からいなくなる。
寂寞があって、消失感があって、なのに足りない現実感。当事者意識に欠けたままの、夢の中みたいな空虚な感覚。失う直前のスローモーション。

今がずっと続けばいい。
うそ。
早く過ぎ去ってほしい。

どちらも本音だから、難しい。


「深司、調子はどうだ?」
橘さんがそう声をかけてきたのは、その日の卒業式の練習の直前。
選抜合宿の時は金髪だったけれど、今は卒業式だからか黒髪に戻している。ふとすれば人混みに紛れてしまいそうで、違和感があるような、ないような不思議な感覚。
「悪くないです、橘さん」
「そりゃよかった」
励ますみたいに軽く肩を叩いて、橘さんは変わらない笑顔を浮かべた。それだけのことにどうしようもなく安心してしまう。
これから俺たちテニス部は橘さん抜きでやっていかなきゃならないから、この人を頼るわけにはいかない。だけど、それでも橘さんは俺たちの唯一の先輩だから、俺たちを支えて導いてくれた光だから、失われてしまうことが悲しくて寂しいのは決しておかしいことじゃない。

別れは寂しくて、悲しくて、苦しい。
けれどそれだけではない。
どうしようもない解放や許しでもあって、それが救いになってしまうことも事実だった。
矛盾する心のうち。
思えば今朝も同じような矛盾を抱えたんだった。

「そういえば今日、」
朝、苗字さんと会ったんですよ。
そう言いかけて、不意に言葉が喉に詰まった。

揺らめくスカート。靡いた長い黒髪。
明るい笑い声。右のえくぼ。

別に大したことじゃない。会ったのが俺じゃなくても彼女はきっと笑ってた。そんなこと知ってる。俺だってわかってる。
けど、言葉で説明がつくものじゃなかった。

「…………今日、よかったら部活に顔出してくれませんか」
「ああ、そうだな。お前たちさえよければ邪魔させて貰おうか」
「橘さんが邪魔な訳ないです」
間髪入れずにそう言えば橘さんは口元で小さく笑って、じゃあ放課後に、とそう言った。
そして彼は式の練習のため体育館の方へ向かう。俺はそんな学ランの背中を黙って見送った。

橘さんの背中が見えなくなった途端に襲う自己嫌悪。
今朝、苗字さんに会ったことを話したところで橘さんは怒ったり、疑ったり、嫉妬したりなどしない。笑って話を聞いてくれるだけだってことはわかっている。
そうじゃない、そうじゃなかった。
苗字さんの為でも、橘さんの為でもなかった。
ただ俺が言いたくなかったから。
今朝、苗字さんと2人だけで話したあの瞬間を、俺と苗字さんだけの秘密にしてしまいたかったから。
ただそれだけのくだらない子供じみた独占欲。

あんなの秘密にもならないってそんなことはわかっていた。苗字さんにとっては今朝の出来事は日常のワンシーンでしかなくて、明日には忘れてしまうような些細な出来事。
例えそれが俺にとってはそうじゃないとしても。

「…………ムカつくよなあ」
すべてに腹が立つ。
すべてがままならない。
けどどんなに自己嫌悪を繰り返しても、橘さんと苗字さんのことを嫌いになれるわけがないということがすべての答えだということもわかっていた。


特に理由なんてなくて、俺はなんとなく3年生の教室がある廊下を歩いていた。
今3年生は卒業式の練習の最中だからどの教室も空っぽ。黒板に書かれた「卒業まであと10日!」という文字が俺にとってはやけに白々しい。

窓のそばに寄って、廊下から校庭を見下ろす。
桜の木々はまだ蕾のまま、咲く気配はない。あれらが咲く頃にはきっともう彼女はいない。
この学校の制服を脱ぎ捨てて、新しい制服で先へ向かって行く。その隣に俺はいない。当たり前だった。けれどそれが今は酷く空しい。

橘さんが、苗字さんの隣でだけ肩の力を抜いて体を預けられることを知っている。
苗字さんが、橘さんの隣でだけ無理して笑わないでいられることを知っている。

そこに代わりはいなくて、他の誰にも代用できないことくらいわかっていた。ましてや、俺がそこに入り込む余地なんて全くない。
わかっていた。
そんなこと、わかってた。

「ほんと、嫌になるよなぁ」
校庭の枯れ木がざわめいた。
開け放たれた窓からは冷たい風が飛び込んできて、俺の髪をむやみに揺らす。

終わりに向かってゆっくりと、でも確かに落ちていく感覚。
寂寞があって、消失感があって、なのに足りない現実感。当事者意識に欠けたままの、夢の中みたいな空虚な感覚。
失う直前のスローモーション。

はなびらが散る頃にはもう彼と彼女はいなくて、だから俺は深い溜息と悲しい安堵を抱えて新しい春を迎える。
俺はこの感情について永遠に口を噤むことにした。タイムカプセルのように掘り起こされることもなく、ただただこの冷たい冬の終わり際に置き去りにしていく。

俺は俺が殺したささやかな感情のために祈った。
墓場に持っていく頃には灰になっていますように。
今はただそれだけを願って、目を閉じた。


(2018.4.4)
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