しょうじょのはか



※財前が当て馬


風は穏やかに流れ、それに揺らされた木々はサラサラ音を立てる。降り注ぐ太陽の光は暖かく、やがて夏がやって来ることを教えてくれた。

「……千歳先輩」
学校の裏庭、木陰で穏やかな寝息を立てて眠るその人を見た。
木の根を枕に、学ランも着ずに平和そうに彼は眠っていた。小さく呼んだ名前にも反応しない。彼のすぐ隣に腰掛けても起きやしない無防備さ。
今は放課後。部活の時間だろうに、こんなところで眠っていていいのだろうか。恐らく、良くはない。けれど彼にとってはそれは然程問題なことではないのだろう。
風来坊。見ているこちらが羨ましくなるほど自由に生きている人だ。
ただ、彼のようには決してなれないとなんとなくわかっている。

「…………千里さん」
少し強い風が吹いた。
それは私の伸びた髪を巻き上げ、彼の服の裾を揺らす。絵画や写真のような一瞬。音も色も匂いもすべて、正しいところに収まっていた。そんな、感覚。

「ん、」
けれど世界は絵画ではないから、ゆっくりと当然のように動き出す。
彼の長い睫毛が揺れ、褐色の瞼が時間をかけて持ち上がる。そしてその胡桃色の瞳が世界を写した。
「……ん、名前?」
そうして、私をも。
「はい、おはようございます。先輩」
「ここでなんしよっと?」
「家に帰ろうと思ってたまたまここを通ったら先輩を見かけたんです」
遠く、吹奏楽部が練習しているバラバラの音色が届く。知らない音、知らない曲。けれどもその価値は理解できるような気がした。それが持つ名前ではなく、真に価値があるのはその本質であると。

彼は猫のように目を細めて、それから口元を柔らかく歪めた。
「名前は嘘つきやね。ここは裏庭たい。校門とは真逆の方向にあっとよ」
お見通しとばかりに微笑んで、彼は不意に地面から背中を離して起き上がる。
上体を起こした彼と座っている私が並べば、先程とは景色が変わって、今度は彼が私を見下ろす形になる。望むより先に生まれた距離。立ち上がれば背丈の違いはより明確になって、彼との距離はもっと遠くなる。
名は体を表すというが、この人ほどそれを体現した人もいないと思う。
千歳千里。
どこまでも遠い人。
時間も、距離も、なにもかもが。

「なして嘘をついたと?」
「ついてません。私はいつも遠回りして帰るんです」
「名前は嘘つきたい、ばってん嘘は下手くそたいね」
「……そんなことより先輩、もう放課後ですけど部活に行かなくていいんですか」
そう話をそらせば、彼はどこか勝ち誇ったような得意げな表情で笑った。その顔に少し腹が立って、でも少し愛らしいとも思った。むず痒い。こんな面倒な感情は日常的に抱えるものじゃないと改めて実感してしまう。
「よかよか。今から行っても白石に怒られるだけたい」
「白石、先輩……、ああ、あのめっちゃモテる先輩ですか」
彼はこくんとうなづく。
「うらやましかねぇ」
「……羨ましいんですか」
意外だな、と思った。彼はそういう、他人からの目線には興味がないと思っていた。それに、他者を羨ましく思わずとも彼を好意的に見る女性は多いように思えたから。
「やはりモテたいものなんですか?」
そう尋ねれば彼は太陽を背に少し逆光になったまま「俺も男の子ばい」と笑った。別に大した会話ではなかったはずなのに彼がいうと妙にいやらしく聞こえる。
すると不意に、昨晩から出血を続けている股からドロリと血の塊が溢れ出たのを感じた。
妙なタイミングだったから、彼に上手い返事もできないままそこで会話は途切れる。
私は何も言えず、彼は何も言わなかった。それだけの沈黙をやけに重く感じた。
「……先輩、私もう帰りますね。先輩も部活に行った方がいいですよ」
立ち上がろうとすると不意に彼の手が私の方へ伸びた。それを黙って受け入れると、彼の掌は私の頭をさらさらと撫でた。
「名前」
「はい、なんでしょう」
「好きに呼んでよかよ」
「……何を、」
「千里さんでよかね」
そう言ってなんでもない顔で笑った。
唐突なことに戸惑って何も言えなくなってしまった私のことにだって気がついているくせに、へらへらと笑って彼は立ち上がった。それを見上げて、私の口からは「聞いてたんですか」と言葉が小さく溢れる。眠っていたと思っていたのに。
口を薄く開いたまま、けれど何も言えなくなっている私を置いて、彼は立ち上がって何処かへ行ってしまった。私はひらひらと手を振る背中をただ黙って見送ることしかできない。なんて狡い人なのだろう。


「……千里さん」
「ん、おはよ、名前」
「おはようございます」
翌朝、ぐずぐずと重たい痛みを訴える腹を抱えて通学路を行けば、珍しいことに彼と会った。
「珍しいですね、今日はちゃんと朝から出席するんですか」
「そう思っとったばってん、今は名前と遊びたかねぇ」
いつも通りの笑みでおいでおいでとこちらを手招く。望むまま、望まれるがままに彼の元へ行くのは魅力的ではあるが。
「私は千里さんと一緒に登校したいです。あと、お昼を一緒に食べたいです」
すると困ったような顔をしてこちらを見るが、キッパリと言いきってしまえば、諦めたように肩を落とす。
「……狡か子たい、名前は」
仕方なさそうに歩き出した彼の脚が向かう先は学校の方だった。
お昼、裏庭に向かいますねと言えば、待っとると彼は穏やかに笑った。腹の痛みはいつしか収まっていた。


昼休みのチャイムと同時に教室を出た途端に声をかけられた。
「どこ行くん」
クラスメイトの財前だった。
どこか気怠げな雰囲気のある彼は1年の時からの付き合いで、今もなお良い友人だ。
「裏庭。先輩と待ち合わせしとんのや」
そういうと財前は躊躇うようにわずかに目線を彷徨わせた後、覚悟を決めたみたいにキッとまっすぐこちらを見て言った。
「……それ、千歳先輩やろ」
こちらに尋ねる体裁を取りながらも、確信に満ちたような声。なんで知っているのだろうか、と思ったが別に知られて困ることもないから「うん」と肯定する。
「……苗字、千歳先輩と付きおうてるんか」
「そんなんやないよ。ただの先輩と後輩や」
「あの人はやめとき」
なんでもない、と言う私の言葉を跳ね除けて財前はキッパリそう言った。
「なんやの急に。せやから先輩とは何もあらへんって」
「うっさいわ阿保、ええから聞けや」
財前に嘘をついた訳ではない。なんでもないのは事実だった。ただ私がそれを虚しく感じていることはどこまでも事実だったけれど。

「あの人、ええ人やないで」
そう言う財前の顔は初めて見るようなえらく真剣な顔で、どうしてか笑い出したくなってしまった。多分笑ってしまえばよかったのだ。
彼のらしくない姿を笑って、茶化して、水を差せばよかったんだ。そうすればすべてはここで終わったのかもしれない。
けれどそうしなかったのは気まぐれに知りたいと思ってしまったから。私ではない、他人の目を通して見た彼を知ってみたかった。そんな、猫を殺すような好奇心。
昼休みが始まったばかりの廊下の騒がしい雑踏の中で、私と財前だけが取り残されていた。
「あの人、部活にも学校にも碌に来おへんし、普段何しとるかまるでわからんし、」
廊下の窓から吹き込む風が頬を撫でた。財前の声をここまで届ける、暖かい乾いた季節の風。遠くどこまでも続いていく青空。そういうささやかなものがどうしてか彼を想起させるスイッチになる。
「いっつもフラフラしとって。ええ噂聞かんよ、あの人。四天宝寺来たんだって、前の学校でなんややらかしたかららしいし、」
彼はもう裏庭にいるのだろうか。いるのだろうな、授業なんかサボって、私が朝に告げた約束を守ろうとしてくれる。そういうところに心の柔らかいところがぎゅっと押し潰される。この感情を私は処理しきれないでいた。腹の奥が鈍く痛む。痛みと共に流れ続ける赤を今はただ恨めしく思うばかりだ。
しかし、どうしてだろう。財前が紡ぎ出す言葉がやけに遠い。
「せやから苗字、」
「あのさ、財前」
彼の言葉を遮る。
たったそれだけのことなのに、少しの驚きと怯みが混じる財前の瞳に思わず笑みが溢れた。
私の抱える感情はもしかしたら財前の言う通りの恋愛感情なのかもしれない。ただの気の迷いのような憧れなのかもしれない。あるいは欲望、執着。もしかしたら愛憎かもしれない。
けれど、どのような名前であるか、そこに意味はないのだ。どんな名前だっていい、そこに本質は無い。この感情を枠に嵌めようが嵌めまいが、私は何も変わらない。
この感情に殉じてやろうと、そう思ってしまったのだからもうなにもかもが遅い。

だって初めてだった。
こんなに制御できない感情を抱えるなんて。
荒れ狂う嵐の中にいるようだ。何もかもが手に負えない。自分のことも、彼のことも。自分の中にこんな激情があるだなんて知らなかった。なにもかもがままならなくて、それが嫌で、それが不快で、それが怖くて子供のように駄々を捏ねて暴れまわる。自分のことなのに自分のことがわからない。
だからもう受け入れてしまった。なんだっていい、どうだっていい。今はただ、この苛烈な感情の行き着く先が見たい。その果てが地獄でいい、絶望したって構わない。もう戻れないところまで辿り着いてみたい。だって、何もわからないから、何も知らないから。

私はただ知りたいだけなのだ。

「あんな、財前」
元から肌の白い財前が、それでも蒼白と言えるような顔色をしていた。端正で綺麗な顔が不自然に歪む。薄く開いた唇は震えて、本当に何もかもが彼らしくない。
「ごめん」
「……あ、」
「私、行くわ」
いかんといて、と唇が動いた気がした。多分、気のせいだろう。
立ち尽くす財前に背中を向けて歩き去る。
彼に会いたいと思った。


果たして彼はそこで待っていた。
「千里さん」
「ん、待っとったばい」
木陰の下、変わらない穏やかな笑み。
心拍が激しく上がるわけではない。体温が上がるわけでもない。けれどもこの人を前にすると私は平常ではなくなる。私は未だ理解に至らないこの感覚に慣れないでいる。

裏庭に人はいなかった。私と彼の2人だけ。昼休みの校舎の騒がしさもここまでは届かない。
すべてを振り払ってきたような気がする。ふと思い浮かびかける顔と惜しみたくなる感情を躊躇いなく捨てて、木の根元に腰をかけた彼を、立ったまま見下ろした。
「お昼、それだけですか?」
彼の手には購買で買ったのか、菓子パンがひとつだけ。彼の背丈には不釣り合いに見えた。
「学校で食うつもりがなかったけん、さっき適当に買ってきたとよ」
それは悪いことをした、と思ったが随分堂々とサボるつもりだったことを告白されて、罪悪感も消え失せる。残ったのはただ、彼への不器用な善意。
「交換しましょうか、私のお弁当と」
「それは名前が困っとよ」
「私はダイエット中なので」
「……名前は嘘つきたい、ばってん優しか子やね」
芝生の上に膝をついて、彼へ弁当の包みを渡す。受け取る前に頭を撫でられた。

「名前が作ったと?」
「いいえ、母が作りました」
「ん、ほんなこつうまかねぇ」
「……それはよかったです」
彼とてすべての嘘に気がつくわけではないらしい。よかったと安堵した。

「名前は?」
「美味しいですよ」
甘ったるい菓子パンをちびちびと口にしながらそう答える。すると返事の代わりに頭を撫でられた。一度それを許してしまったから味を占められたようだ。今後何か不都合あるたびに頭を撫でて誤魔化されそうだ。それに、私もそれで許してしまいそうで怖い。
彼に会う以前の私は果たしてそんな人間だっただろうか。もう、よく思い出せないのだ。

吹く風が遠くから生徒たちの雑踏を運んで来る。何もかも、遠い。
その中で彼だけが恐ろしいくらい近いところにいる。あんなに遠くにいたのに。

途端、風が強く吹いた。
木の葉を散らすほどの強風に反射的に目を閉じる。背中まで伸ばしている髪の毛が風に捲き上る。風が収まるまでの一瞬がやけに長く感じた。

「名前」
目を開く。
「え、」
さっきよりずっと近い距離に彼はいた。精悍な顔つきが静かな表情のままそばにある。そして彼の腕が、焼けた肌が、掌が、私の首筋にそっと差し入れるように伸ばされた。肩にかかった髪の毛をそっと手の甲で持ち上げて、すぐ目の前の彼が笑う。
「さっきの風で見えたとよ」
目の前がきらきらとした。立ちくらみの直前みたいなイかれた視界。麻薬のようなトリップ。
「名前はここの、首んとこば黒子があっとね」
暴かれた。そう思った。
熱を持った彼の指先が首筋に触れる。そこに黒子があるのだろうか。触れられた指先のその一点だけが酷く熱い。自分さえ知らない自分が暴かれていく。
怖いと思った。嬉しいと思った。
腹の奥がやたらと疼く。けれどこれ以上の快楽はないと思えた。

変わらないこちらを見つめる穏やかな笑顔。
この人のすべてが欲しい。
この人にすべてを奪われたい。
どろりと股の間で血が流れるのを感じる。これはきっと、破瓜だ。


(2018.3.29)
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