海底より愛を込めて



例えば録音したカセットをプレーヤーに入れて再生するみたいに、ふとした瞬間に思い出される記憶がある。

それはまるでガラスの向こう側。
それはまるでブラウン管の向こう側。

なんとなく当事者意識に欠けたまま、過去の私が経験した事実を今の私が少し離れたところから眺めている感覚。
記憶が摩耗したわけじゃない。
あの曇り空も、流し目で見つめた横顔も、硬いベンチの感触も覚えている。
ただ、時間が過ぎていっただけ。それだけで遠ざかってゆく事実。

その日は曇り空だった。いつものこの場所のこの時間帯なら見えるはずの夕日はあの日厚い雲に遮られていた。
私とあいつは辺鄙な公園のベンチで何をするでもなく2人で並んでいた。
それまではもう1人がいて、3人だったのだけれど、その時にはもう、もう1人はいなかった。
だから1人減ったために生まれた微妙な距離感を見極めきれず、私たちは中途半端な近さと遠さを抱えたままベンチに並んで座っていた。
私の左側にあいつはいて、あいつの右側に私が。先に座ったのは私だったけれど、そこに意味なんてなかったはずだ。私はそこまで頭が回らない。聡明な彼ならわかっていただろうに。

「名前は薄情たい」

そう大きな声ではなかった。穏やかで凪いだ水面のように静かな声。けれど明確に私に向けられた言葉。
言葉が鼓膜を揺らしたあと、流し目であいつの横顔を伺った。けれどやつの右目には白々しく思えるような新品の眼帯がつけられていて、隠れた瞳から表情を察することはできなかった。
対して口元は緩やかなカーブを描いていて、それは一般的に笑みと呼ばれるものだったのかもしれないけれど、もしかしたら私からは見えない反対側の左目からは静かに涙を流しているのかもしれなかった。
ならば隣にいるあいつの感情はどう表されるべきだろうか。

私より高い背。低い声音。浅黒い肌。私と違う人間。違う個体。
理解はいつだって千里先。
思えばずっと遠くにあった。

緩やかに崩壊していく当然の日々を前に何も感じられなかった私の不出来な内心を彼は非難しているのだろうか。
それすら私にはわからなかった。
薄情だと彼がそういうのなら、それはきっと事実なのだろう。彼にとっての事実は当然としてそこに横たわっている。
しかし事実は事実として、その事実が内包する感情にまるで検討がつかなかった。
それこそが多分、私の欠陥。

けれども私は一度たりとも彼を、彼らを悲しませたいと思ったことなどなかったのだ。
水面に差し込む光の屈折のように、望まないままに歪んでしまったそのズレを今更どうすることも出来ず、その時の私は、明日にはもう会えなくなるということを伝えないことが薄情なのか、伝えることこそが薄情なのかを静かに見定めようとしていた。
どちらを選択しようとも、結果は何も変わらないのだと心の何処かで気がついていながら。


中学の中途半端な時期に、遠く熊本から東京に引っ越してきた私だったが、上手いこと新しい環境に馴染むことができたと思う。
時折千歳からの言葉を思い出しては、それを反省として生かすようにした。薄情は薄情なりに、それを抱えたままなんとか適応する必要があった。私はいつだって誰のことも傷つけたくはないのだ。

怒らない。悲しまない。よく笑う。人の目を見て話す。誰かが落ち込んでいたら声をかける。誰かが笑っていたら共に喜ぶ。本当のことはなにも言わない。
多分、それは正しかった。
まるで初めからこの学校に居たように、とはいかずとも私はそれなりに受け入れられた。
よく笑って、相手の言葉を否定せず、悩みを聞くだけ、自分のことや正論ばかりは言わず、少しオーバーにリアクションして、そうやって適応していく。
しかし慣れない自分の行動にいっぱいいっぱいになっていたことも事実であり。


「疲れるだろう」
すべてを見透かしたように笑いながらそいつはそう言う。邪魔くさかった長髪をばっさりと切ったせいで、精悍な顔つきがよく見えるようになった。さぞかしモテるだろう。だからどうしたという話でもないのだが。

「……橘」
放課後のファストフード店で私と橘は2人寂しく茶をしばいていた。壁沿いの4人用テーブルを2人で占領して、そのソファ側のほうで橘は穏やかに笑い、何もかもを知ってるみたいにそう言った。
塩辛いポテトを摘みながら私は顔を歪める。橘はいい奴だが、核心を突きすぎるところがある。それはよろしくないことだ。少なくとも私という人間にとっては。

「別にそうでもない。新しい学校に早く慣れようとしてるだけだよ」
「無理してまでか?」
「たまには無理しなきゃいけない時もあるでしょ。初めのうちは慣れようとして気疲れくらいするし」
そう拗ねた子供のように吐き捨てれば、ハンバーガーの包み紙を開きながら橘は苦笑した。

私とそう変わらない時期に同じく東京に転校した橘は不動峰中でテニスを始め直したらしい。私はそれについて何も言わない。言うことがないからだ。
私と橘の間には共通の友人がいるが、それについても私は何も言わない。……言うことなど何もないからだ。

「そうは言っても疲れているのは事実だろう?あまり自分を良く見せようとし過ぎるなよ」
「………う、ぐぐぐぐ」
自分を良く見せようとしていることは事実であるが、通っている学校も別なのにこうも容易く見透かされるとそれはそれで悔しいものがある。反抗する気持ちでストローをガジガジ噛みながら音を立てて啜る。

「そんなに無理しないで、お前らしくしてればいいんだ」
橘はそう言って、ハンバーガーを頬張った。
橘の言葉は多分正しい。正論だ。
けれどもそれが出来るかは別の話だと思う。
私は正しい人になりたい。優しい人になりたい。誰も傷つけない人になりたい。

「あのさ、橘」
「どうした?」
「例えば生まれつき凄く悪い人間がいるとするでしょ。自分らしく生きようと思ったら、人を殺して金を盗んでとにかく悪いことばっかりしちゃうような悪人がいるの。けどそいつは普段は良い人のフリして生きてる。周りに悪人だと思われたくないから。橘はそんな奴でも自分らしく生きるべきだと思う?」
「極端な話だな」
橘はすこし吹き出すみたいに笑った。眉を下げて、困った奴だなってふうに。それでいながら、私の問いかけに真面目に真剣に答えようと今頭を回して考えを巡らせているのだろう。
橘は時々心配になるくらいまっすぐな人間だ。だから多くの人が寄ってくる。
私に無いものだ。けれど羨ましいとは思わない。羨んでしまったらこれから先、生きていくのが辛くなるだけだからだ。

「そうだな……。確かにそんな奴には軽々しく自分らしく生きろなんて言えないな」
好き勝手な方向へ飛んでいた意識が橘の言葉で現実に帰ってきた。私は現実と向き合い、黙ったまま橘の言葉に耳を傾ける。橘の言葉は大抵正しく、大抵正論だ。私は正論が苦手なのだが、もしかしたらそれは私にとって大事なこと……なのかもしれない。違うかもしれない。でも多分、聞いておいて損はないのだと思う。
「だが、お前はそんな悪人じゃないだろ。俺は名前にだから、自分らしく生きろって言ってるんだ」
「……そ、…………れは、」
果たして本当にそう言えるのだろうか。

(「名前は薄情たい」)

自分らしく生きた結果があの日の彼の言葉なら、私はやはり私らしく生きることなんてできないんじゃないだろうか。

「どう、だろうね。もしかしたら私は大悪党かもしれない」
額に手を当てて呻くように呟くように私はそう言った。橘は何も言わなかった。騒がしいファストフード店の雑踏の中に紛れて私の声は届かなかったのかもしれない。そうであればいい。

一体どれくらい俯いていたのか、気がつくと寂しい小遣いを叩いて買ったポテトはすっかり冷め切ってしまっていた。時間ももう夕方というより夜だ。帰らなくてはならない頃。
ふと顔を上げるといつの間にかハンバーガーを食べ終わっていた橘が荷物を持って立ち上がるところだった。
「ま、誰がなんと言おうと俺は名前のことを大切に思っている」
忘れるなよ、と微笑まれる。
「………う、わぁ、イケメンだあ」
「ああ、それとな、」
去り際に橘は私にそう告げた。

「今度テニスの全国大会があるんだ。よかったら応援に来てくれないか?」




「そうして名前ちゃんはまんまと橘桔平の口車に乗せられて全国大会の会場まで来てしまったのでした」
「嫌なら帰れば?っていうかアンタ青学の生徒なんでしょ?なんで俺たちのところにいるわけ?」
「あ……うん……確かに……ハイ……場違いですみません……」
「橘さーん!深司が苗字さんをいじめてまーす!」
年下の男の子の正論に敗北する。不動峰中の連中は橘に似て正論ばかりを言ってくるので、私は勝てない。
確かに嫌なら帰ればいいし、青学の生徒である私が不動峰の応援をするのはちょっと変だ。でも嫌じゃないからここに来てるし、所属ではないけれど応援したいのは不動峰だから、これでいいのだ。

「俺たちの応援をするからってわざわざ私服で来てくれたんだろ?ありがとな」
橘の言葉に深くうなづく。その通りだ、もし青学の人に見られたら裏切り者だと思われそうだからわざわざ私服で、その上顔が隠れそうな深い帽子も被って来たのだ。まあ、青学のテニス部に知り合いなんてほとんどいない、というか入学して半年くらいしか経ってないから誰がテニス部なのかよくわかってないんだけなんだけど。
とりあえず、まあ、これでいい。
私は今日、不動峰の彼らの応援団。団っていっても私1人しかいないんだけど。



…………などとは言ったものの、ほんとに人生何が起こるかわからないものだ。
もしかしたら橘はすべてをわかった上で私をここへ呼んだのだろうか。いや、そんなまさか。橘は私とあいつのあの日のやり取りを知っているはずがないのだ。だとしたら本当に偶然?それはそれで、運命じみていて嫌になる。

だってまさか橘と千歳が試合をするなんて思ってなかったのだから。

獅子楽中に千歳がいなかったから、心のどこかで安心していたのだ。もう会わなくて済むのだと。
だというのに大阪の四天宝寺のジャージを着た千歳を見た瞬間、

(「名前は薄情たい」)

体が硬直するのを感じた。
肉体を支える背骨そのものが氷柱になり、そこから生まれる冷気によって体の全てが中心から凍っていくような感覚。
橘と千歳はこれから戦うのだろう。あんなに広いコートの中に、たった2人。突きつけられる過去から逃げることなく、2人はお互いの過去のためではなく未来のために向き合うのだろう。
それでいい、2人にすれ違いは同じ場所にいるからこそのものだ。地上にいる2人には同じように光が注がれる。

けれど、私はそこに行けない。
水面に注がれた光が屈折するようなズレを抱えたままでは2人のようには立てない。向き合うことなどできない。
額から頬に流れた汗は真夏の熱のためではなく、緊張と怯えのために生まれた冷や汗だった。
私はコートに背を向ける。あれは2人だけのものだ。あの試合は2人だけのものだ。だから私はここにはいられない。
それに、万が一にでも千歳が私に気がつくようなことがあってはならない。私は千歳の終わり切った過去なのだから。


それでも会場から去ることはしなかった。黙って帰ることはできない。それは私にここへ来て欲しいと言った橘への不義になってしまうと思ったのだ。
だからコートから遠く離れた広場にあるベンチに、何をするでもなくただそこにいた。
2人の試合はどうなったのだろう。千歳はいつの間に大阪へ引っ越したのだろう。目は治ったのだろうか。私のことを嫌ったままでいてくれているのだろうか。
考えることはたくさんあって、けれどもそれらは全て私の頭の中だけでは答えが出てこない疑問ばかりだ。

あれから時間は随分経ってしまっていたようだ。てっぺんに登っていたはずの太陽はいつしかオレンジ色に染まり、木々の影も遠くまで伸びている。不動峰と四天宝寺の試合どころか、下手したら今日の試合のすべてが終わっていそうだ。

せめて橘の元には戻らなくてはならないだろう。勝手にいなくなったことを謝らなくてはならない。しかしそれは同時に千歳と会う可能性もかなりある訳で。そう思うと橘の元へ行くのではなく、彼に電話で一報を入れてそのまま帰るべきかもしれない。
そう思って取り出した携帯の電池は何故か切れていた。ボタンを押してもうんともすんとも言わない。何故このタイミングで。ムキになってボタンを連打するも反応はない。

「名前!」
その時、私の名前を呼びながらこちらに駆け寄って来る影が見えた。声の呼ぶほうへ目を向けて、その声の主を認識して私はベンチから立ち上がる。
「橘」
わざわざこんなところまで来させてしまったらことに申し訳なさを感じる。試合はもう全て終わってしまったのだろう、橘はユニフォームから制服に着替えていた。肩にかけたラケットケースが私には少し重たそうに見える。
「まったく、お前は少し目を離すとすぐに何処かに行ってしまうな」
柔らかな声音。橘は正しさを振りかざすことなく、いつものように私を許してしまう。
「本当に名前は千歳によく似てる」
「…………いや似てないでしょ」
「そんなことはない。千歳もお前もすぐ勝手にいなくなるだろう」
仕方ないなという風に肩を落として笑いながらも橘はちゃんと怒っていた。私はそれに少し安心した。
許されることばかりに慣れたくはない。とはいえ、許されなかった一度を忘れられずに引きずっていることも事実なのだけれど。

「橘、その、ごめん」
「駄目だ。許さない」
「………………、はっ?……え?」
……橘が、許さないって言った。
大抵のことはいつも仕方ないなって笑って許してくれてた橘が、謝ったのに許してくれなかった。
「えっ……許してくれないの?」
「ああ、許さない」
「な、なんで……」
「お前のためにならないだろう」
「ご、ごめんなさい……?」
「駄目だ」
駄目だった。
彼の言う、私のためとはなんだろう。

「勝手にいなくなるのはもう無しだ」
橘はそう言って、私ではなく、私の向こう側、背後へ視線を向けた。
途端、背中から耳へと届く小さな音。
カランカランと鳴る音から、どうしてか感じてしまう郷愁。
それと同時に速くなっていく鼓動。

どうして君は来てしまうのだろう。
向き合えなかった過去が君の姿でやってくる。

「名前」
橘とはまた違う、声の低さ。
それに応えるように私は反射的に振り返ってしまう。

日に焼けた浅黒い肌。見上げるほどに高い身長。ボリュームのあるフワフワとした癖っ毛。夕陽は彼の背にあって、射し込む光の眩しさに目を細める。
「名前」
変わらない姿だ。彼は昔と変わらず、私の前にいて。

(「名前は薄情たい」)

そう言ったのは彼だった。
苦しんだのは彼だった。
辛かったのは彼だった。

なのにどうしてただ私の名を呼ぶだけのことで、そんなにも声を震わせているのだろう。
いつもみたいに飄々と笑って、肩で風を切って、私のことなど路傍の石と思って通り過ぎていけばいいのに。

どうして私の手を掴んで、今にも涙をこぼしそうな顔をして肩を震わせるのだろう。

「なして……?」
両の手で私の肩を掴んで、その手が背中に回っていく。まるで抱きしめるみたいに、千歳は私をその腕の中に閉じ込めた。ぐっと籠められた腕の力に苦しくなる。

「なして、何も言わんと俺を置いていなくなったと……?」

私の肩に千歳は顔を埋める。濡れたのは夏の汗か、涙か。つかない判断を宙ぶらりんにして、私は彼に抱き締められるがまま立ち尽くすことしかできないでいる。

「名前は薄情たい」
鼓膜を揺らした声は過去のものではなかった。今、私のすぐそばにいる千歳の言葉。私は何かを言わなくてはならなかった。
「…………千歳」
「名前は薄情たい」
「千歳、ごめん、ごめんなさい」
「許さん」
「千歳」
「許さんよ」
橘も千歳も今日に限ってなにも許してはくれない。それを望んでいたはずだった。それが私にとっても千歳にとっても橘にとっても最善であると思っていた。
これが?千歳が悲しんでいるこの現状が?

千歳はまるで縋り付くように私の肩で泣いていた。千歳の体の熱が、涙の熱が、じんわりと私の体と混ざり合い同化していく。
「離れた方が、いいと思ったんだ」
釈明。弁明。言い訳。なんでもいいから、言葉にする必要があった。
「千歳にとっても橘にとっても、それが1番いいと思ったんだ。私はただ私が私として生きているだけでどうしても周りの人をを苦しめてしまうみたいだから」
「名前」
「私にとって2人は大事な人だから。苦しめて傷つけて取り返しがつかなくなる前に大事なものは全部手放すべきだと思っ、」
「名前っ!」
それは悲鳴のような声だった。それと同時に強く抱き締められる。きつくきつく。2度と離れることはできないんじゃないかと思うくらいに強く、ただ強く。
「名前、名前、なしてわからん?なして名前が俺らにとって大事じゃなかと思えっと?」
いつのまにか私たちの傍に来ていた橘までが千歳に同意するようにうなづく。私と千歳の肩に置かれた橘の掌は熱を持っていた。
「ああ、確かにお前は薄情だし、人の気持ちがまるでわかってない。多分これからもわからないだろうが、それでいいさ。名前が俺たちを苦しめようとしたことなんてないだろ」
「……名前は、名前は薄情たい。ばってん、それでよか。俺らはお前のそぎゃんとこをすいとうよ」

お前は悪人なんかじゃないと橘は笑った。
薄情でいいのだと千歳は変わらずぐずぐすとしていた。
私はどうしたらいいのかわからずただ抱き締められるがまま、優しく見つめられるがまま、立ちすくんでいた。
どうやら最善と思って選んだ選択は見事に最悪の選択だったらしい。ただ、結末はさほど最悪ではないようだ。

海底で光の屈折ばかりを見ていた私は2人の手に導かれて陸へ上がった。
息はし辛く、歩くのもままならないとして、何にも遮られることなく降り注ぐ光はそう悪くないと思えた。

(2018.3.22)
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