アルミの円環



ジャングルジムのてっぺんから紫煙が燻っている。俺はそれを公園のベンチに座って眺めていた。
硬く冷たい板の感覚が尻の下にはある。不意にそれが妙に過敏に感じられて、身じろぎした途端隣に置いていた空き缶が乾いた音を立ててベンチから転がり落ちた。僅かに残っていたアルコールが缶の口から溢れて、白い砂の地面を暗く染める。

「あーあ、月光さん、ポイ捨ていけないんだ」
からかうような声音が降り注ぐ。ジャングルジムのてっぺんで頭を揺らしていた名前はこちらの不手際を見て嬉しそうに大口を開けて笑った。
途端、彼女の口から溢れる煙。それはゆらゆらと頼りなさげに揺らぎながら空に向かって昇っていく。

アレが満月を隠す叢雲になるのだ。

酒に酔った頭で俺はそんなことを考えていた。



名前は俺に3回電話をかけたらしい。
普段携帯をマナーモードにしているから気がつかなかった。
4回目をかけるより、俺が1人で暮らすアパートの扉を叩いた方が早いと気がついてしまった名前がコンビニ袋片手にやって来たのが夕食前。
上り込んだ名前は遠慮なく飯を食べていった。今日のメニューはカルボナーラ。少し塩辛くなってしまったけれど名前はいつも通り美味いとしか言わなかった。

名前が持って来たコンビニ袋の中にはチューハイの缶が4つ。俺の冷蔵庫にはいつか毛利が入れていったビールが何本かあって、名前はそれを冷蔵庫から当然のように取り出してテーブルの上に仲間入りさせた。
酒は嫌いではなかった。進んで飲みはしないが、今日のように誰かが買って来るのなら遠慮なく同伴に預かる。その程度には好きだ。

名前はすぐに酔う。それも楽しそうに酔う。
今日もチューハイが二本空になった頃、俺が寝間着がわりにしているジャージを頭から被って「彼ジャー!」と叫んでいた。
それだけでは済まず、腕を通してもまだ余る袖を持て余してぶんぶんと振り回してやかましく騒いでいた。
うるさかったので捕まえて、余った袖と袖をきゅっと結んで床に転がした。あわあわと手足をばたつかせる様が、陸に上がり損ねたアザラシのようで愉快だったから放置して眺めていたが、やがて名前が「たすけて……たすけて……」と呻き出したので解いてやることにした。
そんなことをしていたのが大体1時間ほど前。

ではどうして俺と名前が公園に来たのかというと、結ばれた袖から解放された名前がふと零した発言が始まりだった。

「月光さんが膝をぎゅっと抱えてブランコ乗ってる姿が見たい」
「………………」
「月光さんが懸垂棒を掴むけど全然足ついちゃう姿が見たい」
「………………」
「ジャングルジムのてっぺんに余裕で手が届く月光さんが見たい」
「………………」
「月光さんと公園行きたい……」
「……構わないが」
「わーい!やったー!わー!」
喜ぶ名前がうるさかったのでもう一度袖を結んで転がした。
とまあ、つまりはそういう流れだった。

チューハイの缶を片手にフラフラと近所の寂れた公園へ向かう。硬いはずのコンクリートの地面さえ雲の上のようにふわふわしていて、自分が酔っていることを否定できなくなる。
夜は更けた。吹く風は冷たい。
少し前を歩く名前は酔いが回っていることもあってかやけに楽しそうで、いつも以上に軽やかに夜の町を進んで行く。
それなりに道を歩いたけれども、誰も見かけなかった。一度だけ塀の上を歩く猫とすれ違った程度。
町はもう眠りにつき、起きているのは俺たちとあの猫くらいなのだと酔った俺はその時本気で思っていた。

公園に着いた途端走り出した名前の背中を目線だけで追いかける。童心に返っているのだろう。ふらついた足元でも確かに地面を踏みしめて走る姿が嫌いではなかった。懐かしい土の匂い。
公園は随分と寂れていて、ブランコと鉄棒とジャングルジムしか遊具がない。サッカーや野球ができるほど広くもない。
ここで遊ぶ子供たちは果たして本当に存在するのだろうか。伽藍堂な公園に夜の風が吹き荒ぶ。12時間後のこの公園を想像できなかった。
「月光さん」
ジャングルジムはこんなに低かっただろうか。もう思い出せない幼少期の景色。
塗装の剥がれたジャングルジムの前で名前は笑っていた。
「登り鬼だったら誰も月光さんに勝てないねぇ」
それだけ言って、名前はフラフラと登り出した。酔ってるから落ちるかもしれないと一瞬肝が冷えたが、彼女の進みは案外安定していた。するすると慣れたように空に近づいて、容易くてっぺんに辿り着き、そこに腰掛けた。
流石に俺は登る気になれなかったから、ジャングルジムのすぐ近くのベンチに座って、残り少なになったチューハイを煽った。見上げた空には丸い月が浮かんでいる。それを隠すように流れ来る雲。
ぼんやりとそれを眺めていると、カチッと小さな発火音。ジャングルジムのてっぺんから燻る紫煙。
「月光さん、吸ってもいい?」
名前の顔のそばで赤い光がチラついていた。すでに火をつけておきながら吸っていいか、なんて。
「……さして問題はない」
「ありがとう」
「が、聞くなら火をつける前に聞け」
「はーい」
と返事だけはいい。しかし果たして改善されるかどうか。ヘラヘラと笑う様子からはあまり期待できそうになかった。


「あーあ、月光さん、ポイ捨ていけないんだ」
揺らぐ煙が天に昇っていく。白く、か細く。転がり落ちた缶などもはやどうでもよくて、名前が笑うたびに生まれる煙ばかりを見ていた。
嗚呼、アレが満月を隠す叢雲になるのだ。
酒に酔った頭で俺はそんなことを考えていた。

月に叢雲、花に風。
では月は叢雲を厭うだろうか、花は風を嫌うだろうか。それは、果たして。
月に叢雲がかかるのを嫌うのは他人で、花が風によって散るのを嫌うのも他人だ。何故何も関わりのない者に干渉されなくてはならないのだろう。受け入れられないのなら、何も言わずに去るべきだ。すべてが、誰もがそうであればいいのに。

「月光さん」
いつの間にか降りて来ていた名前がそばに来ていた。ベンチの横にしゃがみ込んで、転がり落ちた空き缶を指差した。
「月光さん、缶ちょうだい」
「中身は無いが」
「うん、いいよ」
そう言うと名前は短くなって先を地面で潰した煙草を缶の中へぽいと捨てた。ちゃんと持って帰るよ、とそう言って。

それから急に「ふん!」と大声を出して、缶からプルタブだけを外した。
「集めてるのか?」
「プルタブを?ベルマークみたいに?してないよ。知ってる?月光さん。子供のときさ、プルタブをいっぱい集めたら車椅子ができるとか言われてたけど、あれほんとはすごい非効率らしいよ。やるなら缶ごとリサイクルした方が早いんだってさ」
「そうか」
指で小さなアルミ片を弄びながら名前は俺の右手を掴んだ。
「これ月光さんの左手?」
「右だ」
「あら間違えた」
右手を離して、今度は左手を掴まれる。思っていたよりずっと冷たく涼しい掌の温度。
名前の指先がするすると動いて、俺の掌の縁をなぞったり爪を撫でたりして遊んでいた。それが少し、くすぐったい。

「ね、月光さん」
名前は俺の目の前で膝をついてこちらを見上げるように顔を上げ微笑んだ。
「私、月光さんと結婚したい」
そう言って名前は手に持っていたプルタブを俺の左手の薬指に嵌めようとした。

もちろん嵌まるわけなかった。

「あれ、待って。はいんないや」
「だろうな」
プルタブ程度の穴が薬指の第一関節より付け根側に入るはずがなかった。だが酔っている名前にはそれだけのことがわからないらしい。「ふぎぎぎ」と呻き声をあげながらなんとか嵌めようとしてくるので、その手を掴まえてやめさせた。少し痛いし、うっかり嵌ってしまったら二度と外せそうにないだろうと思ったから。
名前から取り上げたプルタブはポケットの奥に仕舞い込む。
どうしたものか、これはもう俺にとってただのプルタブではなくなってしまった。
きっと、ずっと捨てられない。そんな気がする。

「月光さん」
俺の左手を握ったまま、プルタブを取り上げられた名前は不意に泣きそうに顔を歪めた。そんな顔をする必要なんて何処にもないというのに。
「好き。私、月光さんが好きだよ。結婚したい」

酔っ払いの妄言だと一蹴するのは簡単で、けれどもそれをしなかったのはただ単純に俺自身が妄言にしてしまいたくなかったから。

「ああ」
さほど、と言いかけてそれをやめる。
「何も問題はない」

僅かに張った見栄と、握り返した掌。
俺とお前の、たった2人だけで完結する世界なら良かったのに。
何処までも無限に広がっていく未来が尊く眩しいものだと一体誰が保証できるだろう。お前を1人にしないなどとそんなこと、どこに確信を持って言えるだろう。お前を幸せにできる保証はなく、お前より後に死ぬことも約束できない。
叶わないかもしれない約束など交わせるわけがなかった。いつかそれが呪いになるのなら、言えるはずもないのに。

陰る月。
風に散る花。
雲になれなかった煙。
温まらない掌。
嵌らなかった指輪。

なにもかもが上手くいくことなんてそんなにない。
もしかしたら未来は暗いかもしれない。祝福なんてないかもしれない。茨の道を裸足で歩くだけの人生かもしれない。
だから、手を取ることしかできない。
それでも、手を取ることだけはできるから。

「嬉しい」
そう言って笑って泣いた名前の手は少し温かい。だから光は遮られてもいい、花は散ってもいい。誰に何を言われても構わない。
お前と生きていくことを諦めたくないから。


散々泣いて笑った名前は子供のように眠ってしまって、だから俺は彼女を抱えて帰路につく。空の缶を手に暗い道をゆっくりと進んだ。夜が明けるのはまだまだずっと先だろう。今はまだ暗くなっていくその途中。
首筋にかかる彼女の吐息が乱れないように、壊れ物を運ぶように歩いてく。
家に辿り着いても名前は起きなかったから、布団の上に転がして、俺もその横で眠ることにした。目を閉じた途端やってきた睡魔にのまれて意識を手放す。夢は見なかった。


目が覚めた。目を開けたら目が合った。
「月光さん、おはよ」
「……ああ、おはよう」
挨拶を返してから、寝起きのぼんやりとした頭で昨日のことを思い返す。着っぱなしのまま寝てしまった服のポケットを弄れば、中には小さなアルミ片の感触。
取り出して、開けっ放しのカーテンから差し込む光に当てる。キラキラと反射する小さな鈍色。
「それなに?」
本当になんなのかわかってない顔で名前はそう尋ねた。
「指輪だ」
そう答えれば、もっと変な顔をして俺の顔を覗き込む。
「月光さん、もしかしてまだ酔ってんの?」
なにも知らない顔。忘れきった顔。
昨日の夜の話をしたら、お前はどんな顔をするだろうか。声を上げて笑いだしてしまいたい気分だった。

(2017.3.14)
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