凍えることすら一人では上手にできなくて



この豪雨の中、まさか傘も差さずにここで来たのだろうか。
上から下まで、髪の毛も服も靴もびしょ濡れ。彼の気に入りの灰色のコートは雨に濡れて、まるで初めからこんな色をしていたんじゃないかと思えるくらい深い灰色に変色している。
そんな冷たいコートに身を包んだ彼は私が暮らすアパートの扉の前で体育座りをして小さくなっていた。抱えた膝に額を乗せていたから顔は見えなかったけれど、見慣れた派手な髪色ですぐに彼だとわかってしまった。
足音を立てて近づいても顔を上げず、眠っていると言われても信じてしまうほど静かに彼はそこにいる。
「…………仁王」
返事はなかったが、彼の肩がピクリと揺れた。気だるそうに顔を上げるその頬はやけに赤い。熱か、酔いか、寒さか。どちらにせよ、私がすることは決まっていた。
「はやく中にお入り」


私の住むアパートは建てられてからもう随分経っているらしく、古ぼけていてヒビの入った外観の壁の色はどこもかしこもくすんでいる。それに部屋の中でも時々軋む屋根や風が吹く度にがたつく窓ガラスが不安だ。例えばこんな雨風の激しい嵐の夜などは特に。

リビングのソファに座ってテレビも電気も付けずに、私は目を閉じて水音ばかりを聞いていた。窓の外からは雨の音が、風呂場の方からはシャワーの音が、似たような二つの音は紛れて混ざって私の鼓膜を揺らす。

雨は好きだ。理由やきっかけなどは特になく、私の感性がただの自然現象を感情的に受け入れた。
では、彼のことはどうだろう。彼を好きになったのは何故?その理由は?きっかけは?雨と同じく、感性ゆえに?自己の感情にすら説明がつかないけれど、ただ事実として彼への好意が存在している。それだけは誰にも否定できない真実だ。
背凭れに体重を預けて、大きく息を吐く。

誰かを待つのは好き。特に仁王を待つのは好きだ。
いつも彼より早くに到着しては、不意にすぐ後ろから声をかけて驚かせてくる彼を待つのが好きだ。けれども彼はどうだろう。
私を待っている間、彼は何を思っていたのか。
ここは私の帰る場所ではあるけれど、彼の帰る場所ではない。他のところに行こうと思えば何処にだって行けただろうに、どうして今夜ここに来たのだろうか。こんな酷い雨の中、傘も差さずに来たのはどうしてだろう。
自分自身のことすらわからないというのに、他人のことまで理解しきれるはずがなかった。理解したいという願う気持ちの存在は否定できないとしても。

不意に水音が薄くなった。層のように重なり合っていた雨音とシャワーの音。シャワーの音が途切れて、聞こえるのは窓の外からのものだけになる。
代わりにバスルームの方からは耳をすまさなくとも扉の開く音や歩く音が響いて聞こえてくる。彼が生きて動いてる音。私が好きなものの一つにただ耳を傾ける。だんだんと近づいてくる足音にゆっくりと目を開いた。


開いた視界の中、リビングと廊下の境界線のところに彼はすっと立っていた。
ただそれだけのことが恐ろしく絵になる。けれどその姿はまるでデジャブのように、外にいた時と変わらない濡れ鼠のままだった。脱衣室にはいつか彼が置いていった着替えを用意したはずなのに、それらを一切纏うことなく肩にかけたバスタオルだけが彼を温める唯一のものだ。
「風邪を引くよ」
彼の髪や体を這い流れて、ぽたぽたと音を立てて落ちていく水滴がフローリングの床を濡らしていく。部屋には暖房をいれてはいるものの、それがどこまで彼を温められるか。そう思ってかけた声にも彼は反応せず、視線も合わず、ただ立ち尽くだけだった。
けれども放っておくことなど出来るわけがないから、ソファからゆっくりと立ち上がり彼の方へ一歩近づこうとした時。

「俺じゃなくてもええんじゃろ」
ポツリと言葉が零れ落ちる。
静かな部屋に落ちたそれは波紋のように響いて広がってゆく。
寂しそうな声。拗ねたような声。
ふわふわとした声音は酔った時によく似ているとして、それが事実であるかどうかは判断できない。なにせ彼は嘘が大得意であるから。
「俺じゃなくても部屋に入れたんじゃろ」
体勢を変えて、壁に背をつけた仁王。そしてそのままずるずるとしゃがみこんだ。
「おまんはどうせ柳生とかにでも優しくするんじゃ」
彼はグズグズと鼻をすすってまた膝を抱え出した。私は彼の元へ近づく。しゃがみこんだ彼を上から見下ろせば滅多に見ることのできない旋毛が見えた。珍しい景色を静かに堪能していると、仁王の指先が私のスカートの裾を引いた。
だから私は彼が望むままに仁王の前にしゃがみこむ。
絶えず滴る水滴は解かれた彼の髪を伝って流れていく。鎖骨の隙間に僅かに溜まった水を見兼ねて、肩にかかったバスタオルで彼の髪をバサバサと拭いて乾かす。されるがままに頭を揺らす彼は少し顔を上げて、不満げにこちらを見た。彼の言葉を否定しなかったことが不満らしい。けれど私は彼にあまり嘘はつきたくないのだ。

「そうだね、多分柳生君がびしょ濡れで部屋の前に居ても部屋に入れてると思う」
「素直過ぎじゃ」
「嘘をつきたくないだけだよ」
吐き出す言葉はすべて事実だ。
柳生君とは仁王からの紹介で3人で何度か食事をした程度の中だが、困っているなら自分にできる限り手助けしたいと思えるような好青年だった。
きっと私は彼を部屋の中へ招き、シャワーへ案内し、仁王が置いていった着替えを貸し出しただろう。

「でも全裸で出てきたら普通に叩き出してると思う」
「柳生はそんなことせん」
「うん、そりゃそうだ。けど仁王だから叩き出さないんでいるんだよ」
連絡無しにやってきても、びしょ濡れになってても、全裸で風呂から出てきても、床を水浸しにしても、めんどくさい問答を始めても、すべてを許せるのは単純に彼のことが大切だという気持ちの方が強くあるからだ。

「私は君がいっとう好きだからね」
バスタオル越しに髪の毛ごと緩やかなカーブを描いて丸みを帯びた彼の頭を撫でる。少し乱暴なくらいにガシガシと。
そうすれば仁王はそれまでの不満げな顔はなんだったのかという程、にこーっと満面の笑みを浮かべこちらに両手を広げて抱きついてきた。
「名前〜〜!」
全体重をかけて、のしかかってくる。もちろん彼の体を支えることなんて出来ないので後ろにひっくり返りながら潰される。
服一枚越しに感じる他人の熱と、男性的な肉体の感触。狭い廊下で全裸の男と抱き合って、私は一体何をしているのだろう。思考が虚無になる私をよそに、ぎゅうぎゅうと頬に頬を押し当てられる。冷たそうな顔をして、シャワー上がりの体は熱を持って温かい。

本当に、なんて面倒な男なのだろう。わざと寂しがったフリをして、不満げなフリをして、私にいちいち言葉にして言わせなければイヤなのだという。言葉少なな私にも問題はあるとして、彼の方にも問題はあると思う。
めんどくさいのはまあ良いとして、こんなことをしていて本当に体調を崩したらどうするのだろう。

「のう、名前」
心配する私をよそに、廊下に転がった私の顔の横に両手をついて、彼は口元を緩めて私を見下ろした。
「俺は明日休みなんじゃが、」
ゆっくりと近づいた唇が耳のてっぺんに触れる。
「どうかのう?」
囁く声。濡れた髪の先からぽたぽたと落ちる水滴が服に斑点をつけた。

生憎というべきか、幸か不幸か、私も偶然明日は休日だ。
うなづくことは容易いけれど、それは少し癪だ。今宵は仁王に振り回されてばかりなのだから。時には私だって彼を困らせてみたい。
そんな自分の感情を第一に優先して、微笑む彼の口元のほくろに口付けようと思うのだけれど。さて、どんな反応が返ってくるだろうか。


(2018.2.24)
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