境界線でダンスを



あまり考えるのは得意ではない。それでも考えずにはいられなかった。
死という概念を既に通り過ぎてしまったオレたちに、再び死はやってくるのだろうか。



それは良く晴れた夜のことだった。満月から降り注ぐ月明かりは、雲に遮られることなく暗い夜を照らす。
今晩なら、街から街を渡り歩く旅人も宵闇を恐れることなく足を進めることができるだろう。

風が走る音だけが微かに聞こえる草原は遠く広く、この広大な大陸の何処までも続いていくようだった。
輝く満月は凪いだ湖水に写り、彼女は水面に落ちた紛い物の金色をじっと眺めていた。ただ、静かに。まるでこんなに美しいものは初めて見た、と心の内を震わせているかのように。
そんな彼女の横顔を、ナタクは静かに見つめていた。
彼女の静かな表情に、ナタクが何を思い、何を感じているのか。それはナタク本人にすら理解できなかった。きっと彼がここに来る理由だって本当はなかったはずだった。
誰も彼もが静まりかえった穏やかな夜。1人で湖へ向かった彼女を追いかけたのは何故だったのだろう。ナタクは彼女の数歩後ろを歩きながら、少しだけ考えて、すぐにそれを取りやめた。
前を歩く彼女が一度振り向いて、ナタクを見て微笑んだからだ。

(「君たちはよく似ているよ」)
そう言ったのは図らずも師となった太乙真人だったか。その言葉に皮肉は無く、ただ事実だけを淡々と口にしていた。
(「肉体の死とは一体どういうものなのだろうね」)
人として死することなく仙人となり、生き続ける彼には、彼らにはどうやら理解できないらしい。曰く、封神は死ではそうだ。
では彼らはあの冷たさを知らないのだろうか。
あの太極の境界の冷たさと静けさを。
深い眠りのような安寧だった。ただゆっくりと自己が消滅していく感覚。自分という境界線が消えて、闇の中に溶けていくような。それは心地よくて、恐ろしくて、昏くて、冷たかった。
とは言っても、ナタクとて死したのは肉体だけであって魂ではなかった。あの穏やかでどうしようもない恐れに似た安らぎは刹那のことだった。導かれるように、掬い上げられるように、魂は再び現世に戻された。

あれを知っていたのは自分だけではなかったと、そんなことを知った時オレはどう思ったのだったか。今となってはあまり思い出せない。少し安堵したような、そんな気がする。

「なたく、つき。とりにいく」
思考に耽っているうちに、彼女は、名前はいつしか湖へと足を踏み入れていた。着物の裾を掴んで捲りあげ、濡れないようにしながら湖の中心へと足を進め出した。
「待て。何をするつもりだ」
「つき。おちてる」
左手で着物の裾を掴み、右手で湖の中心を指差した。その指の先には水面に映る満月があった。
どうやら名前は水面に映る月を本物だと思い、取りに行こうと考えたらしい。
名前は少し、頭が足りない。キョンシーだからだ。
幼い頃に命を落とした名前はキョンシーとなって蘇った。そして幼いまま、成長することなくキョンシーとなって数十年、数百年稼働し続けたらしい。けれど何年経とうと頭の中身は幼い頃のままだった。学ぶ環境が無かったのならそうなる、と楊ゼンは語っていたが。彼は彼なりに半妖怪じみた境遇の名前に感じるものがあったようだ。時折何かと名前に構っていた。

ナタクが止める間も無くザカザカと進んでいく名前。湖は中心へ向かうにつれて深くなっていくらしい。初めは名前の足首程度までしかなかった水位も、彼女が躊躇いなく進んでいくからどんどんと変化していって膝へ腿へと上がり、今はもう腰のあたりまで来ていた。
ナタクは岸辺から風火輪で飛び立つと、水面の月へ触れようと手を伸ばしては水面を揺らすだけで何も掴めずにいる名前の傍で止まった。
「なたく、つき、つかまらない」
「それは月じゃない」
「なぜ?」
「空の月が湖に反射しているだけだ」
「……なぜ?」
「知らん」
難しいことは他の奴に聞いてほしい。
ナタクは名前を脇の下から抱き上げるようにして掴むと、湖から引き上げた。引き上げてからもずっと着物の裾を掴んでいるが、もう着物も手も足も濡れてしまっていた。湖の中心から岸辺へと戻っていく。彼女の脚を伝って水滴が落ち、水面に幾重もの波紋が生まれた。

湖と岸辺からさらに離れ、草原にある大樹の下に名前を降ろした。そうすればきっともう再び湖に入ろうなどとは思わないだろう。そうであってほしい。
名前と共にいると、変に世話焼きになってしまう。天祥よりずっと手がかかる子供だ。だというのにどうしてだろうか、離れてしまおうとは思わないのだ。それは一体どうしてなのか、…………。そこまで考えて、ナタクは己の思考を取りやめた。これ以上はどんなに考えたって意味がない。

すとんと草原に座り込んだ名前は未だ宙に浮いたままのナタクを見上げて、何事かを言いたげに口を開いた。
「なたく、よる、こわい、?」
それは唐突だった。湖から連れ出したことに不満を言うかと思っていたから、その言葉に豆鉄砲を食らったように一瞬怯んでしまった。けれどそれをおくびにも出さないように努めて声を出した。
「怖くなどない」
それは本心だ。夜を恐れたことなど一度もない。
それは名前だってそうだろう。恐ろしかったのなら、こんなふうに夜の中へ出ては来なかっただろう。

「わたし、よる、こわい。ねること、こわい」
名前はそう言った。
それでナタクは合点がいった。嗚呼、それは、理解ができる。同意はできずとも、その感情は理解できた。
「なたくとわたし、ふたり、しってる」
こわいね、と座り込んだまま名前はこちらを見上げて笑った。未だ濡れたままの脚が夜風に吹かれて温度をなくしていく。名前に温度なんてもうとうの昔にないのだけれど。

眠りはいつか体感した死によく似ていた。自己を失う感覚。自分自身の支配権を行使できなくなる恐怖。それでもなお感じてしまう安堵。

ナタクはあまり、考えることが得意ではない。けれども彼は考えずにいられなかった。
死という概念を既に通り過ぎてしまったオレたちに、再び死はやってくるのだろうか、と。

名前もナタクも、一度死に、再び生を受けた。その身に鼓動は無い。ナタクの心臓は宝貝で、名前の心臓は彼女が死んだ日に止まったままだ。果たしてそれでも2人は生きていると言えるのか。
生きながら死んでいるのか、死んでいるのに生きているのか。証明するものはない。それではここにいるオレたちはあの湖に映る月のようなものなのではないか。
……わからない。ナタクは首を振った。
それでも、いま此処にいることだけは確かだ。それだけはまだ、誰にも否定できない事実だ。

ナタクは名前の腕を掴んだ。きょとりとナタクの顔を見つめる名前を、引き寄せるようにして立ち上がらせた。
そして真正面から抱き上げるように彼女を抱えて空へ飛び上がった。
「帰るぞ」
「なぜ」
「もう寝ろ」
「う、うう、こわい」
「怖くない」
「こわい、!」
バタバタと手足を振って暴れる名前をナタクは腕の中に閉じ込めた。力強く、けれど彼女を傷つけないように。
「オレが起こしてやる」
「あ、ああ、?」
「だから怖がる必要がない」
そう言ってやれば、名前はすとんと大人しくなった。いつか母が自分にそうしてくれたように、彼女の背中を優しく撫でてみる。名前は小さく唸ってから、応えるようにナタクの背中に手を回して抱きついた。

恐怖の共有が傷の舐め合いだとして、それで救われるのなら今はそれでいいと思えた。
傍にいて、安堵できる。それが得難いものだと知っている。長い旅の中で、知ってしまったから。

「なたく」
「なんだ」
「やくそく」
「ああ」
「ありがとう」
「…………ああ」


(2018.1.14)
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テーマ「人外ファンタジー」
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