さよならの冬



皮膚の下、薄皮一枚剥がしたその下には血と肉と糞尿ばかりが詰まっているのだと、そんなことを知ったのはいつのことだったろうか。

死や孤独や狂気について、思えば幼い頃から見知っていた。あれは冷たい冬の記憶だ。こちらを見ない人。何度も何度も繰り返し差し出しても、手をとってはくれない。時が過ぎて、やがてこの手を取ってくれなかった人はいなくなった。誰かの掌の温かさを知らない。この身を凍えさせる冬風だけを知っている。

たった今殺したばかりの人間の血が熱いものだと知ったのは戦場で、突っ込んできた露助を我武者羅に銃剣で突いた時。どこの動脈を切ったのか、視界を塞ぐほどの血液が辺りに散って、浴びて、時を待たずして冷めていく熱を知った。

心と肉体、冷えていく熱ばかりを知っている。
この女もそうだろうか。
愛していると微笑むその慈愛の瞳すら、いつかは冷たい光で俺を見つめるのだろうか。


女の、柔らかな腿の上に頭を預けている。夢と現が曖昧な微睡みの中で、ただ女が壊れ物に触れるように自分を撫でていることだけが感覚としてあった。
崩れかけた前髪を元に戻すように撫で付ける度に、尾形の晒された額に女の指先が触れる。肌も、己の熱も、唇も、人より細い髪の毛の一本一本すら、女の愛撫を知ってしまった。知らなかった頃に戻れないことだけが今は恐ろしい。
額、頬、首筋。鉛の弾や鋭利な刃物を差し込まれれば容易く命を失う箇所に女が触れることを、他でもない尾形自身が許している。

一体いつの間に、自分はこんなに弱くなったのだろう。

この熱が無ければ生きていけないなどと、戯言でも思ってしまうようになったのはいつからだったろう。

「百乃助様」
囁く声が鼓膜を震わせる。井草に混じった女の髪の柔らかな甘い香り。下ろした長い髪が尾形の頬に降り注ぐ。もう一度、先程より近い距離で名前を呼んでから、女は唇で尾形の額に愛撫をした。すぐに離れていく感触がそよ風となってこの身に伝えて来る。
うすらと目を開けば、絶え間無い微笑みが確かにこちらを見つめていた。

日向の射し込む部屋の片隅に、風が吹きこむ。暖かい、草花の香り。
冬は終わっていた。
尾形が知らなかっただけで、いつしか春が来ていた。
雪は溶け、花は咲き、眠りから覚めた動物たちがゆっくりと山を歩き出す。冬は終わっていた。
すべては終わっていたのだ。
ひねもす、のたりのたり。長い一日一日をただむやみに生きていい。名もない、記憶にも残らない無益な日を過ごしていい。

「長い、冬だった」
呟くように、感慨深く尾形はそう口にした。
「はい。それももう終わりました。じきに雪もとけましょう」
穏やかな微笑みと共に自分より高い声音が降り注ぐのを静かに享受する。
幸福も愛もなにもかも知らないけれど、俺はしあわせになれるだろうか。

数多の人間を殺して来た。鼠のように母を殺した。打算の為に父を殺した。愛してくれたかも知れぬ弟を殺した。それでも、

しあわせになれるだろうか。
愛してくれるのだろうか。

女を見上げたまま、尾形は眠りから覚めたばかりの怠い腕を伸ばして、自分よりずっと細く白い首筋へ掌を当てる。その白さに似合わぬ熱が、ゆるりゆるりと自分の熱と混じってゆく。やがて境界線がほろほろと崩れて、同化していく感覚。
指先に絡まった女の後ろ髪を弄べば、彼女は擽ったそうに喉を鳴らして笑った。つられてつりあがった自分自身の口の端に尾形はちゃんと気がついている。

その細い首を絞めたとして、その柔い骨を砕いたとして、それでも笑っていてくれるだろうか。やってこないであろう未来を夢想して、尾形は目を閉じる。
いつかこの人を殺せないと思う日が来る。そう確信した。

首筋へ伸ばしていた手を頬まで這わせて、わずかに染まった柔らかさを、その温度を愉しむ。
雪解けの中、泣きじゃくることもできないまま立ち竦んでいたいつかの自分の手を彼女は握って共に帰路についてくれるだろう。

夏が来たら彼女が用意した薄い藍の浴衣で蚊帳に眠ろう。
秋が来たら乾いた風の吹く町を2人で歩こう。
また冬が来たら、そのときは鍋を。もうきっと大丈夫だから。鮟鱇の鍋を。
やがて歳を取り、皺を刻み、筋肉は衰えて、山を越えることができなくなってもいい。落ちた視力のために捉えた照準がぶれてしまってもいい。
傷跡が残ったとしても怪我は治っていくように、過去は消えないとしても未来はまだ残っているのだと、信じさせてくれたから。

「名前」
「はい、百乃助様」
この体がただの血と肉と糞尿の詰まった袋ではないと、他でもないお前が証明したから。
意味はなくとも、価値はなくとも、生きていける。


(2017.10.1)
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