見るなのタブー



「共に脱ぎまショウ?」
そう名前の耳元で囁いたのは村正にとってただの戯れであった。
強いていうのなら、普段から能面のような表情を保つ彼女の鉄仮面が少しでも崩れたのならそれだけで満足できると、そう思ったからだ。

執務室で事務業務に勤しむ彼女の仕事がひと段落したことも彼女の様子から把握できたのだ。少しくらい戯れても許されるだろうと村正は名前の肩にしなだれかかりながら微笑んだ。
さて、名前の方はといえば、ぴたりと体を密着させてくる村正を見て小さく溜息をつく。村正としても呆れられるか、驚かれるか、照れられるかのどれかだろうと思っていたからその反応は予想の範囲内だ。
惜しむらくは彼女が村正の予想の範囲内に収まってしまったことか。彼女なら自分が想像もつかない面白い反応を見せてくれるのでないかと勝手に期待していたものだから、それだけが少し残念である。態度や表情には出さないが、村正はこの冷徹な主のことを酷く気に入っていたのだ。
彼女の薄い肩に頭をぐりぐりと押し付けながら村正は名前に抱きつく。ここに長谷部や、初期刀である蜂須賀がいたのなら容赦無く引き剥がされていただろうが、彼女は案外村正のスキンシップを容易く許してくれる。おそらく犬にじゃれつかれているのと同じように思っているのだろう。間違いではない。

「村正」
不意に彼女が体の向きを変えて、村正に向き合った。じゃれついていた村正は素直に彼女から体を離して、主へ向き合う。名前を呼ばれることが好き。見つめられることが好き。それが彼女からのものなら、尚更。
「主、どうしました?」
「……貴方が根も葉もない噂や評価などではなく、ありのままの自分自身を見てもらいたいと願うのは当然のことです。正しい評価を求めるのは人も刀も同じですから」
ですが、その物言いには誤解が生じる可能性が考えられます。貴方はそれを自覚し、改める必要がありますね。

と、名前がそんなことを言って、この瞬間村正は自分の予想が外れていたことに気がつく。
予想だにしない彼女の言葉に、はしたなく釣り上がりそうになる口の端を必死に抑えた。彼女が自分を正しく見ようとしている、その事実が酷く心踊らせ、喚きたいほど愉快なことであったから、気を抜けば感情のままに桜を撒いてしまいそうだった。彼女が自分に対して真正面から向き合っている。それが、それだけのことが酷く心地よい。

「……人も刀も、といいましたね。それは主、アナタもなのデスか?」
はち切れそうな感情を胸の内に隠し、穏やかな微笑みを絶やさずにじっと見つめ返すと、僅かに、ほんの僅かに彼女がたじろいだ。弱みのような感情を見せない彼女にしては珍しい反応だ。
だから畳み掛けるなら、今だと確信した。
「もしもアナタもそうであるのなら、脱ぐべきデス、ワタシと共に。ワタシもアナタも、ただの肉の器だけであればなにも苦しむことなどなかったのでショウ。けれどもそうは在れない。ならば、解放を願うのみデス。そうでショウ?」
ゆっくりと、手を伸ばす。逃げる余地ならいくらでも用意している。逃げないのなら、それは彼女の意思だ。
伸ばした手は村正が思っていたよりずっと簡単に彼女の頬まで辿り着いてしまった。その白く、柔らかい頬に掌を寄せる。親指で目尻を撫でても彼女は瞬き一つしなかった。

「違います」
強く、彼女は断言した。言葉に反して、彼女の肉体は何の拒絶も示さない。黒い瞳がまっすぐに村正の瞳を貫く。暖かい熱を受け入れながら、彼女は1人で立ち続けられる人だった。

少なくとも今の今まではそう思っていた。

彼女の瞳が揺らぐ。

「私は……、私は、貴方とは違う……。貴方のようにはなれない。晒け出せる美しい本当の自分なんていない。着飾らなくては。飾り立て、それらしいもので繕わないと、私は、私でいられない」

聞いたことのない、彼女の掠れた声。
見つめ続けた瞳が初めて揺れるのを見た。不意に彼女が手を伸ばす。村正へ向かって伸ばされたその白く細い手が、彼の両目を優しく覆う。熱を持った掌が震えながら村正の視界を暗くした。

「私を見ないで」

指と指の間から見えた彼女は、それでも村正を見つめ続けていた。


名前の失態は二つ。
一つは村正の戯れを本気にしてしまったこと。
そしてもう一つは村正に自分の本心を語ってしまったこと。

それは転じて、村正にとってはとても喜ばしいことであったのだけれど。


わかりやすい名前からの拒絶など村正にとっては無いも同然だった。離れてほしい、見ないでほしいと願う主に対し、それどころかもっと近づきたい、もっと見たいと、そんな欲を持った。

「おはようございマス」
「……おはようございます」
朝、名前が目がさめすと同じ布団の中に村正がいた。脱いでいた。全裸だった。
名前は冷静に起き上がると、枕元に置いてあった防犯ブザーを躊躇いなく鳴らした。おそらく10秒しないうちに長谷部が来るだろう。つまり村正に残された時間は10秒も無い。
「huhuhu……驚きましたか?」
「はい、とても目が覚めました。それからこれは忠告なのですが、貴方は下着を履くべきです。下着の有無で長谷部が中傷で止めるか、重傷までいくかが変わると思うので」
「心配してくれるのデスね」
「資材も有限ですから」
などと話しているうちに長谷部が来た。
村正は重傷のうえに、一週間の厠掃除が命じられた。
なのにどうしてか嬉しそうだった。



ある日、名前が自室に設置されている個人用の風呂に入っているとガラリと中折りの扉が開いた。
「ご一緒してもいいデスか?」
村正だった。脱いでいた。全裸だった。
「……村正、何故脱いでいるのですか?」
「? 風呂場では脱ぐものでショウ?」
それは正しい。それは正しいのだが、何かが違う。
湯船に浸かったまま名前はどうするべきか迷った。防犯ブザーを鳴らせば長谷部か誰かが来るだろう。
だが恐らく誤解される。端から見たら、女性の風呂場に侵入する男である。いくら彼が刀剣であるとはいえ、外見は成人男性だ。最悪手討ちにされる。それは名前の本意ではない。
「とりあえず服を着ていただけますか?」
「ここは風呂場デスよ?」
「では、他の刀剣たちが入っている風呂と同じ風呂を使っていただけますか?」
「ふむ、主と共に入るのはいけないことデスか?」
「体裁が悪いですから」
そう返すと、村正は静かに口を閉じた。頑なな名前の態度についに根負けしたのだろうか、とも思ったがどうやらそういうわけではなさそうだ。
村正は黙り込んだままいっそ妖艶に思えるほど意味深に微笑む。ここが風呂場でなく、そして彼が全裸でなかったらもっと映えたのだろうが。
何か言いたげでありながら、口を開かない村正に痺れを切らした名前が思わず口を開く。
「……村正、何か言いたいことでもあるのですか」
そう問いかければ村正は静かに笑みを深める。
「いえ、アナタにとってはその『体裁』というものがとても大切なのだな、と思いまして」
「…………」
名前は己の裸体が晒されることすら気にせず、水音を立てて湯船から立ち上がり腕を振って外を指差した。
「村正、今すぐ出て行きなさい」
「おや」
「ここにいたことは内密にします。貴方も無用な騒ぎを起こしたくなければ今すぐここを去りなさい」
「それは主命デスか?」
「私に貴方を命じさせないでください」
強い口調でそう言えば、彼はいつものように笑って「主のお願いとあらば従うほかありませんね」と立ち去っていった。
それを湯船の中で立ったまま見つめ続けた。……彼は少し、本質を突きすぎるきらいがある。



「随分と懐かれたねぇ」
何かしたのかい?と、目を細めて青江が笑う。
一体何の話?などと惚けるのは簡単だったが、本題に入るまでに彼と行われるであろう意味のない問答を思うとそちらの方が余程億劫に思えたので、諦め半分に溜息をつく。
「……村正のことですね」
「うんうん、彼、随分積極的だよねぇ」
今のような青江の目を知っている。学生時代、ちょっと男子と話しただけで「なになに?なんか仲良いじゃん?付き合ってんの?」と恋話をせがんで来た友人のそれによく似ているからだ。勘弁して頂きたい。
「それで?一体何があったんだい?」
「別に。大したことなんてありませんよ」
「ふぅん、大したことではなくとも何かはあったんだね」
何も言えず、言葉を失くして口を噤む。青江の言葉が図星だったからだ。
あの日、彼の戯れに本音で返してしまったのがそもそもの間違いだった。本心を曝け出した時点で私の負け。弱みだけを知られ、こちらが得たものはほとんど何もない。
元来の性分だった。嘘をつきたくないあまりに誤魔化すこともできなくなっていた。上に立つ者として、あまりにお粗末。
苦虫を噛み潰したような表情をした私を見て、青江は珍しく声を上げて笑った。
「大丈夫、君が心配するようなことなんてそう起きやしないよ。犬猫に懐かれたと思って可愛がってやればいいのさ」
「犬猫……というかミドリホソカロテスに懐かれたような気分です……」
「みどり……?えっ?なんて?」





夜更け。人の気配を感じて、村正は静かに起き上がった。そっと襖を開ければ縁側の方から月明かりが入り込んで来る。
庭池のすぐそばに細く小さな人影を見つけた。

縁側の下に置きっ放しにしておいた下駄を履き、わざと音を立ててその人影へ近づく。
くるりと警戒心のまま振り返るその人影が、月明かりで逆光になる。
それは村正が主を見間違える理由にはならないけれど。
「眠れないのデスか?」
目の前に立つものが村正だと気がついた名前は、安心したのだろう、僅かに肩を落とす。それから猫背になっていた背をまっすぐに伸ばしてから「少し散歩をしたい気分だっただけです」と澄まし顔で答えた。本当かどうかは然程意味がない。彼女が1人でいるということが、村正にとって酷く都合がいいという、ただそれだけのこと。

「アナタはワタシを拒絶しますか?」
村正の言葉に、名前は僅かに目を見開いた。うまく、逃げていたつもりだったのだろう。村正からの視線にも、執着にも、欲望にも。けれども彼女は理解しきれていなかった。
拒絶されればされるほど、手を伸ばしたくなる輩がいるということを。

「見るな、などと言わなければ彼の妻が塩の柱になることもなかったのでショウ」
村正はゆっくりと彼女へと手を伸ばす。振り払われるのならそれでもいい。叩き落されるならそれすら本望だ。

「見るな、なんて言わなければ、伊邪那美は蛆に集れた醜い己の姿を見られずに済んだのでショウ」
彼女は僅かに身を引いた。けれどもそれだけだった。逃げなかった。今、この時にこそ、拒絶しなかった。その事実だけがここに横たわる。

「見るな、と言われなければ、翁は美しい娘が助けた鶴であることを知らずにいられたのでショウ」
村正はついに名前の細く折れてしまいそうな体に触れた。僅かに震える肩を、そのまま引き寄せて抱きしめる。硬直したままの彼女の耳元へ吐息混じりの声で語りかける。

「アナタの過ちはただ一つ。見るな、とワタシに言ったことデスよ」
背中に手を回し、無意識にか震えている体を優しく撫でる。堪らなくなっていつもの笑い声が溢れた。
追いかけたのは村正だ。けれども逃げなかったのは名前のほうだ。

「脱ぎきったアナタの、そのあるがままの柔肌を見たいのデス」

許す、とただ言っていただけますか?
ああ、勿論「見るな」と言っても構いませんよ。

そう言って、村正は微笑んだ。

(2017.8.30)
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