鶯丸が電話を取る話



淹れたばかりのお茶が湯気を立て、その湯気が風に流れて執務室の中を心地の良い香りで包む。井草とお茶の香り。慣れ親しんだものだ。戦の最前線の本丸でありながら、和やかな日々を送っている。
鶯丸は主がいないのをいいことに、勝手に執務室へ入り込んでは温かい茶に舌鼓を打つ。どこで飲んだって味は変わらないかもしれないが、今日はここで飲みたい気分だった。普段は大抵主がこの部屋にいて、近侍も近侍ではない刀たちも好き勝手にこの部屋にやってくる。主はそれを笑って迎え入れる。今日はその限りではないけれど。

細く開いた障子の隙間から静かな部屋に、とす、とすと、小さな来客がやってくる。それはいつしかこの本丸に住み着いた猫だった。目つきが悪く、勝手に住み着いておきながらこちらには滅多に寄り付かない。時折厨の残り物を掻っ攫っていく野性味のあるこの猫は、それでも屋敷の主人を始め、多くの刀剣たちから愛されている。

「何もないが、ゆっくりしていけ」
鶯丸がそう声をかければ、猫は一瞬だけこちらを見て、それからすぐにそばの臙脂色の座布団の上に寝転がった。それは主の座布団だった。例えばここにいたのが長谷部であったのなら、猫畜生が主の座布団に寝転ぶなど許さなかったかもしれないが、ここにいるのは鶯丸一振だけ。きっと主がここにいても、猫の行いを許しただろうから、彼は何も言わない。猫は俺の握り飯を食うだろうか、とそんなことを徒然ぼんやりと考える。

開け放たれた窓からは涼しい風が流れ込んでくる。遠くからは短刀たちの遊ぶ声や鳥たちの鳴き声が届いた。
にゃああん。
媚びへつらうことを嫌い、口を開いたかと思えば唸り声を上げるか飯を食うかのどちらかである猫が不意に猫らしく鳴いた。鶯丸はそれを聞いて、同意するかのようにうなづく。
「ああ、まだ主は帰らないらしい」
留守は任せた、と笑顔で現世に戻った彼女を思い出す。あれは何日前のことだったか。
(いやあ、私は優秀な審神者だからね!たまには現世に戻って後輩の指導やら講演やら、あと政府の役人たちにいろいろ説明したりして周囲にも貢献しないといけないわけですよ!人気者すぎて困ったね!まったくもう!)
いつも笑っているが、出かけるあの日は特によく笑っていた。本当は行きたくなんてなかったのだろう。無理して笑っていた。主は笑うのが好きで得意だ。その代わり嘘が下手だ。強がりの仮面なんか、そんなもの要らないのに。

ジーーン、ジーーン。
猫が音に驚いて飛び起きた。座布団の上に爪を立てて、身を低くして音の鳴る方へ耳を向ける。鶯丸も少しだけ驚いて肩を揺らしたが、すぐに音の元に気がつく。
「電話だ。そう怯えるな」
机の端に置かれた黒電話が鳴り響く。滅多に鳴らないこれを取ったことはないが、見たことはある。見よう見まねでくるくると螺旋するコードに繋がった受話器を取って、耳に当ててじっと待つ。何か言った方がいいのかと、口を開く前に電話口から声が届く。

『申す申す、ヘイヘイ俺だよ俺』
「主か」
『そうそう主だよ主。ところでさっき事故っちゃって、今から言う口座に100万振り込んでくれない?』
「ひゃくまん、か。換算すると何両だ?」
『えーっと、100万だから…………、うん、よくわかんないや』
「そうか」
『鶯丸はわかる?』
「わからないな」
『なんだ一緒じゃーん、いえーいおそろ〜』
「そうだな、おそろだな」
電話口の向こうで彼女が笑う声が聞こえた。いつもの気の抜けるような笑い声に、無意識に安心する。
『みんな元気?怪我とか風邪とか大丈夫?』
「ああ、昨晩厨の手伝いをした愛染が少し指を切ったくらいだ」
『えっ、包丁で?』
「いや、レシピの紙で指先を切ったとかなんとか。大事には至らなかったらしい」
『うん、まず至らないと思うけど……大きい怪我じゃなくてよかったよ』
「そうだな」
そこで一旦、会話が途切れる。気を使う必要のない、心地の良い沈黙。いつしか猫は座布団の上で腹を出して転がっている。あの野性味や警戒心は一体どこに置いてきたのだろう。
一度茶を啜る。猫舌の彼女は少し冷めたくらいの温度の茶を好んでいた。ちょうど今くらいのお茶の温度。
「…………梅ジュース」
『梅ジュース?』
「粟田口たちが作っていた。お前に飲ませたいと」
『なんていじらしいのあの子たちは……』
「それから歌仙がお前に合う髪飾りを見つけたと言っていた」
『嬉しい。歌仙の花瓶割ったの私と和泉守なのに』
「もうバレているから早めに謝れ。金継ぎでもして直してやるといいさ」
『うん、はい。もう部屋の中で野球するのはやめておくよ』
それから何振かの様子を伝えた。同田貫が出陣できない間の手慰めに木彫刻を始めたとか、油画にハマっている蜂須賀が一つ作品を完成させただとか、御手杵が蔵で見つけた古いカメラの使い方を知りたいと言っていたことだとか。
彼女は笑った。楽しみだねぇ、はやく帰りたいよと笑った。

「こっちは晴れている。そっちはどうだ」
『さっきまで夕立が降ってた。今は止んで、風が涼しいよ』
まだ日が長いね、と独り言のような声が聞こえた。あちらは夏らしい。夏至は過ぎたのだろうか。鶯丸は目を瞑り、蝉の鳴き声を思い出してみる。こちらはもうヒグラシもいなくなってしまった。もうすぐやってくる夜がこの屋敷をあっという間に暗く包むだろう。冷たい風が吹く。昨日ように、明日のように。

『もうすぐで帰れると思うから』
「そうか」
『お土産いろいろ買ってくね』
「ああ」
風鈴は仕舞い込んだ。夜になったら窓を閉める。掛け布団を一枚増やして、細やかな約束を守ろうとする。
『私が帰るまで、風邪とか怪我とか気をつけてね』
もう何遍も交わした約束をもう一度重ねた。俺はまだ、破らずにいられる。

「主」
『はい』
「君がいないとさびしい」
面と向かって目と目を合わせなければ言えないことがあるように、電話越しでなければ言えないことだってたくさんある。電話を取ったのが自分でよかった。核心を突く必要なんてなくて、猫の喉元を撫でるように伺い恐れながら触れる必要なんて、どこにもないから。
どうして笑っていたのか、どうして泣いていたのか、尋ねることだってできたけど。
『今日の晩御飯は?』
「堀川派たちがなにやら仕込んでいたな」
『そっか、美味しいだろうね』
「堀川の淹れる食後の茶も美味いしな」
美味しいよねぇ、と遠くで彼女は笑った。走っているのか、少し息が荒れている。かしゃかしゃと何かが受話器に擦れるような音に耳が少しくすぐったい。
『ご飯にまだ間に合う?』
「どうだろうな、早くしないとみんな食べてしまうさ」
『帰る、帰るよ。急いで帰るから』
「待ってる」
『待ってて』
千切れるように通話は終わった。ツー、ツーと無機質な音だけがそこに残る。走っているのだろうか、帰るために。慣れない黒いスーツとタイトスカート、高いヒールで硬いアスファルトを蹴っているのだろうか。何かを振り払うようにして、ここに帰るのだろうか。
「待っている」
カチン、と受話器を戻して畳の上に寝転がる。座布団の上の猫は閉じていた目を開いて、井草の上に崩れた鶯丸を見た。
なぁああ。
慰めるような声に口角を上げる。
「にゃぁあ」
大丈夫だと返事を返してみる。伝わったどうかはわからないけれど、猫は静かに目を閉じた。本当は大丈夫じゃないこともたくさんあって、吐き出した弱音のようなものが胸の内にストンと収まる。
そうか、寂しかったんだな俺は。君がいないと、寂しいのか。
「そうか、そういうものか」
1人で背中を丸めて笑う鶯丸を、猫は妙なものを見る目で見つめた。それからごろりと寝返りを打って、今度こそ眠ることにした。

君は間に合うだろうか。
宵が深まるのが先か、君が帰るのが先か。
「待っている」
ここで待っているから。

(2017.7.30)
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