しなやかな腕の祈り



前日譚(どちらから読んでも支障ありません)


木の葉の落ちる音さえ聞こえそうな程静かだった。
誰もいない屋敷は空っぽで、色もなければ声もない。ただ、静寂だけが支配していた。
それがあまりにも、あまりにも静かすぎるものだから、蜻蛉切はその静けさに目を覚ました。
耳鳴りの音すら聞こえない、静かで暗い夜。
眠りに落ちる直前まで腕の中にあった熱がどこにもないことに気がついて、表情に出るより先に心臓が驚愕に跳ねた。起き上がって、周りを見渡す。月光が照らす縁側に一つの影を見つけて、いからせつつあった肩がゆっくりと沈んでいく。
揺蕩うのは白煙。
そんなものより、と思わなくはない。思わなくはないが、言えるはずもなかった。
ゆっくりと音を立てぬように布団から抜け出て、数少ない私物の置かれた棚の上から一番の新参者を手に取ってその影に近づく。イグサを越え、木板を踏みしめたところで影がゆっくりこちらを見る。

「起こしたか」
「いえ、自然と目が覚めました」
こちらに気を使ってか、煙草を消そうと庭石に火の先を当てようとする彼女を制して、手に持っていた灰皿を差し出す。受け取る彼女はそれをじっと眺めてからこちらを見た。
「私のものではないな」
「はい、先日自分が購入したものです」
「お前も吸うようになったのか?」
「いえ、自分は」
煙草はあまり得意ではありませんから。
そこまで言って、察したのか彼女は口元に笑みを浮かべて、そうか、と呟いた。
あまり貴女に吸ってほしくはない、などと今言っても彼女は微笑むだけだろう。

「しかし庭石を灰皿にするのは感心しませんな」
「それは悪かった。火の始末を考えずに吸ってしまってな」
黒い灰皿に灰が落ちる。ちらつく赤い火は途絶え、彼女が深く息を吐いて、それきり白煙は生まれなくなった。

生まれたままの姿に一枚羽織を着ただけの彼女をあまち直視できず、縁側に膝をついて庭先を見つめる。
さきほどまで彼女を抱いていたことは、今の彼女を見つめられる理由にはならない。少なくとも、蜻蛉切にとっては。

「寒くはありませぬか」
そう訊ねれば、寒いと返ってくる。それはそうだろうと蜻蛉切も思った。夜は更け、冷たい風ががらんとした屋敷を、庭を吹き抜ける。ほとんど裸体のような格好のまま、風にあたればそうだろう、寒いだろう。彼女を中へ向かわせようと声をかける。

「主」
彼女は答えない。
つんとした横顔はどうしてか拗ねているようにすら見えた。
「主、ここは冷えます。御身体に、」
「今宵ここにはお前と私しかいないというのに、それでもなお主と呼ぶのか」
言葉をを遮るようにして彼女はそう言った。
どうやら本当に拗ねていたらしい。
こちらを見た唇はつんと尖っていた。何度も吸い付いた桃色。その柔らかさを自分は知っている。自分だけが知っている。もしも蜻蛉切に一切の自制心がなかったのなら、ためらわずに彼女の唇に己のものを重ねていただろうが、彼はそういう男ではなかった。名前はそれをよく知っていたから、蜻蛉切のそこが好ましかったし、今はそれが疎ましかった。

何も言えずにいた蜻蛉切に名前は「酷い男だ」と芝居がかった口調で言葉を紡ぐ。
「先ほどの最中もそうだ、一度として私の名を呼ばなかった。かわりに私は何度お前の名を呼んだだろうな。蜻蛉切、蜻蛉切、と。ああ、なんて寂しい。寒いのは身だけではないぞ、心も寒い。よほど一人寝のほうがマシではないか。ああ、ああ、名前の一つでも呼んで、寒い私を温めてくれる奴はいないものか」
蜻蛉切の顔をまっすぐに見ながらそんな文句を言う名前に、困ったように苦笑する。
本気で怒っているわけではない、が、本音ではあるらしい。
灰皿を放って、四つん這いでこちらの膝元までやってきた彼女は、どこか甘えるような仕草で蜻蛉切の膝の上に頭を置いた。
彼女は一人で立てる人だった。凛として、背筋を伸ばして、ひとりで歩いてゆける人だった。
故にその行為に内心酷く驚いて、それからこれは自分にだから見せる姿なのだと蜻蛉切は己惚れることにした。それを口にしたのなら、きっと彼女は間髪入れず「己惚れではない」と言うだろうが。

「我儘の多い方だ」
自分が思っていたよりずっと穏やかな声が出た。それは正しく己の内心を表していた。意識するよりも先に延びていた手で膝の上の彼女の髪を梳く。
「お前だって言えばいいさ」
彼女はそう言った。
「聞いてやるとも、お前の我儘の一つや二つや三つ、四つ、五つ」
「はは、際限なく許されそうですな」
「許すさ」
蜻蛉切の膝頭を指でなぞっていた彼女は、下から顔をこちらにまっすぐ向けて手を伸ばした。
許すさ。
彼女はもう一度繰り返した。

「私の名前を呼んでくれ」
「……名前、殿」
「敬称などいらないよ」
「…………」
黙り込む。彼の頬を彼女は静かに撫でる。その掌の体温に急かされるような、ゆっくりでいいと、諭されるような。結び合った視線を振り切りたかったが、きっと彼女はそれを許しはしないだろう。
他人には容易いことが自分にはとても難しいことであったりする。今の蜻蛉切にとってのそれのように。

だって、とにかく、照れてしまって仕方ないのだ。
彼女の名を呼ぶことも、恋人として触れ合うことそのすべてに照れてしまって仕方ない。嫌なのではない、容易く出来るのなら名だってなんだって呼んでいる。

けれどそろそろ腹を括るべきなのだろう。求めるような、期待するような瞳で見つめられる。
そうだ、自分は彼女に名を呼ばれることが好きだ。
その喜びをただ、くれた彼女へ返すだけ。

「…………」
「…………」
「………………っ、名前」
か細い声だった。風が吹けば掻き消されそうなほどの。けれども彼女の耳には確かに届いたらしい。届いてしまったらしい。
「ふ、ふふ」
「…………」
「ふふ、ふ、ははは」
「…………」
「わっはははっはは!」
「……夜更けです、静かにしてくだされ」
「これが静かにしていられるか!」
膝の上でばたばたと飛び跳ねては蜻蛉切の首にその腕を回す。蜻蛉切の胸板に彼女の柔らかい胸が当たるのが気になって仕方がないがそんなこと言える雰囲気ではなさそうだ。

「なあ、蜻蛉切!」
「……なんでしょう」
「もう一度だ」
「名前を、でしょうか?」
「名前も、だ」
唇を押しつけるように重ねられる。児戯のようなものだ。けれど彼女の言葉の意味を理解した今、その児戯すら蜻蛉切を強く煽った。

「……っ、自分の我儘を聞いてくださいますか?」
「ああ、勿論だ」
そうやって嬉しそうに微笑む彼女が傍にいる。それだけで十分幸福だった。だというのにそれでは物足りないほどに自分は強欲になってしまった。ああ、けれどこの恋心を捨てなくて、本当に良かったと思っているのだ。

「どうか、もう一度」
彼女を、名前を腕の中に引き寄せる。逃す気は無かった。正誤や善悪の境界などもうとうの昔に飛び越えていた。戻ることなどできない。戻る気も当然無い。
この恋慕の果てが辺獄であるならそれでもいい。

貴女が、いてくれるなら。

「もう一度、貴女を抱きたい」

風の音が聞こえる。
冷たいこの屋敷で、重ねた唇だけが酷く熱い。触れるだけだったものが段々と深くなっていく。
彼女の顎を抑えつけ、小さな口に厚い舌を差し入れて蹂躙する。
応えるような舌に自分のものを絡ませて溢れる唾液を啜り、その吐息ごと唇を奪い尽くす。
「………ふ、くぅ、……、」
「ぁ、……んん……」
僅かに漏れ出した彼女の甘い息が脳髄を溶かす。はしたなくいきり勃った自分のものが彼女の中を求めて止まない。
あの熱に包まれたい。蕩け切ったあの中を他でもない自分で満たしてしまいたい。
ようやく唇を離すと、堪らず微笑んだ彼女が荒い息のままうっとりと蜻蛉切の耳元に口を寄せた。
「一度だけで、いいのか?」
瞬間、カッと脳の裏が白く染まって、酷く乱暴に彼女を畳の上に押し倒し、細く白い手首をイグサの上に縫い止める。
数歩先の布団に向かう余裕すら、今の彼には無かった。

(2017.7.11)
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