未来だけ見て笑ってみせる



聞き慣れない駅名が繰り返される。その度にひとつだけ覚えて来た駅名を心の中で復唱して、まだ着かない、まだ降りる駅じゃない、と確認する。

どうしてこんなところにいるんだろう。そんな疑問はなん度も繰り返した。何度考えても答えは出したくないから、考えることをやめた。答えはもう分かっている。でもそれに納得したら負けだから、考えない。腕にかかる重みは時間が経つにつれて、大きくなっているような気がしている。自分のものではない荷物がバッグの中に詰め込まれて酷く重いけれども、満員電車だから床に下ろすこともできない。あと何駅だろう。携帯を開いて確認することもままならない。塞がった両手。空いていても携帯を手にすることはなかっただろうけど。

揺れる電車の内側も、車窓から見える風景にも見慣れない。しかしどうしてかそこに新鮮さや目新しさは感じず、ただただ憂鬱ばかりが溜まっていく。
そのうち、暇を潰すためについ昨日の電話を思い出した。

荒北と話をしたのは久しぶりだった。もう1年近く会ってもいないが、高校生の時と変わらないまま話すことができた。思っていたよりはずっと、心の距離は遠くなかったらしい。気が緩んで、アレコレと話してしまったのが悪かった。愚痴のように吐き出してしまった言葉。
「都合のいい存在だって思われてるだけでしょ」
そう言った私に、電話口で荒北は「バカかよ」とだけ吐き捨てた。
その言葉の意味はわからなかったけれど、なにが?とは聞けなくて、結局有耶無耶になってその話は流れた。




東京に来た回数はそう多くない。行こうと思えばいつでも行ける距離だったが、結局片手で数える程度にしかこの大都市に足を踏み入れていない。
生まれも育ちも秦野で、県外に出る経験の少なかった私にとって、東京は少し遠い存在だった。

本当は東京になど行きたくなどなかった。仕方なしにここに来た。私の意思なんてなかった。
私はこの歳になってもここじゃない何処かに自分の意思でいくことができないままだった。幼い時から何も変わっていない。知らない世界へ旅立つ恐ろしさに身を竦めて、小さく膝を抱えて動けないままでいる。誰かに手を引いてもらえなければ何も出来ないやつなんだ。
だから固い意思で遠くへ行ってしまった彼に会うのが苦しかった。まっすぐに歩いて行ける人。自分の意思でいきていく人。成長できないまま大人になってしまった自分と彼を比べて、私が勝手に卑屈になってしまうのが目に見えていた。ほら、私のそんなところが大人じゃない。

ようやくひとつだけ知っている駅の名前が聞き取りづらい車掌の声で車内に響く。アラームの音に叩き起こされたように、反射的に顔を上げてバッグの持ち手を固く握りしめる。
たかが駅名ひとつ。安心してしまった自分に苦々しく思う。けれどもこれから私はこの駅名を聞くたびに彼のことを思い出してしまうのだろう。この駅に来てくれ、とそう言って私を呼んだ彼を。
たぶん、一生。これから、永遠。

人の流れに身を任せて、少し逆らって、やっぱり流されて、押し出されて。吐き出された先のホーム。どこへ行けばいいのかときょろきょろしているうちに、周りの人たちは足早に私を追い抜いて行く。中途半端な場所で立ち止まっていると邪魔になると気がついて、自動販売機のすぐそばで身を硬くして、名前も知らない人々が次々とそれぞれの行き先へ向かうのをぽつんと見送る。どこに向かえばいいのかわからないのは私だけだ。みんな目的地を持っている。
共に電車を降りた誰もが彼もが立ち去って、ホームには行くべき場所へ向かうために電車を待つ人々だけになった。
急に寒気に襲われるように不安になって、アウターのポケットに手を入れて携帯を掴む。東京に慣れていない田舎者だと思われたくなくて、決して出さなかった携帯。いつの間にかそんな些細なプライドすら守れなくなるほどになっていた。

もしもこれが普段の私だったら、意地でもこんな電話を取りはしなかっただろう。
不意にタイミング良く画面に表れた、福富寿一という文字。
神奈川からろくに出たことのない私をここまで呼んだ、憎々しい張本人。
しかしもはや東京で私が頼れるのはこの寿一くらいしかいないのだ。悔しいことに。
通話ボタンに人差し指でふれ、冷たい携帯を耳に当てる。わずかなタイムラグと、それから聞こえてくる聞き慣れた声。
「名前」
「……………………寿一」
返事をしないでいてやろうかとも思った。けれど彼の名前を呼んだ。声を聞いただけで、もう寿一の元へ辿り着いたような気持ちだった。
「今、どこにいる」
「駅だよ。寿一が言ってた駅に今さっき着いた」
「そうか」
電話の向こうで寿一が軽く息をついたのがわかった。安堵なのか、溜息なのか。知らないし、わからないし、どうでもいい。
「どこに行けばいいの」
「東口まで来れるか」
「どこそれ。わかんないよ」
「わからなくないだろう」
助けて、と言外に伝えたはずの言葉を、当然のようにそう否定するのに腹が立った。寿一はいつもそうだ。私が困ってるって言っても絶対に助けてくれない。私が自分で、自分の力でなんとかするのを待っている。大変だからって、怖いからって弱音を吐いても、お前なら大丈夫だと勝手に断言して手を貸してなどくれない。いつも、傍に立って言うだけだ。「大丈夫だ」と。

「……大丈夫じゃないよ。大丈夫なんかじゃない」
「いいや、大丈夫だ。東口で待っている」
プツリと、私が何か言う前に勝手に切れた電話。
むしゃくしゃする気持ちを抑えて、携帯をポケットに仕舞い込む。
わかっている。わかっているんだ。私はこれからどうやってでも東口に向かうし、向かった先には寿一がいて、やってきた私を見て言うのだ。当然のように、すべてが思い通りだったかのように。
「大丈夫だっただろう」と。
それが嫌なのに、そうすることしかできない。

寿一は私の甘えを許してくれない。
出来るのに出来ないと弱音を言うことを許してくれない。構内に取り付けられた様々な看板を睨みつけて、地面を踏みつけて、私は歩いたこともないこの広い駅を進む。
きらい。そんなところがきらい。
でも、助けられたら。寿一に助けられたらそれは最後だ。弱い私は自分で立つための足をなくしてしまう。だから歩いて来たのだ。弱音を吐いて、寿一が取ってくれるはずもない手を伸ばして、それでも。
階段を降りたり、角を曲がったり。東京だろうが、神奈川だろうが、歩けば道があって、進めばどこかには辿り着く。進めば案外東口なんてあっという間に見つかって、なんてことはなくて、改札の向こうにやけに目立つ金髪が見えた。
携帯の画面を見ることも、イヤホンを耳にはめることもせずに、背筋を伸ばしたまま、まっすぐに彼は立っていた。だから10メートル近い距離がありながら、すぐに目と目が合った。合ったのに、寿一は私の方へに歩み寄って迎えに来ることもせず、ただ変わらずに改札の向こう側で立っていた。
荷物を自動改札にぶつけながら、境界線を超える。結局、いつだって私は寿一の思い通りにここまで来てやる。寿一はそれを当然のように享受する。ずるい。なんだかそれは不公平だ。
あと5メートルほどの距離まで近づいた辺りで「寿一」と彼の名前を呼んでみる。ごちゃごちゃと、ついに邪魔臭くまで感じられてきた人混みに声はかき消されるかと思った。けれども少しだけ遠くにいる寿一が答えるようにちいさくうなづいた。でも、こっちに来てはくれない。結局、歩き続けたのは私だった。
すぐ傍に辿りついたのに、私も寿一もニコリともしなかった。せっかくの再開だと言うのに。

寿一は黙って私の手にあった荷物を掠めとるように受け取った。それから「ありがとう、助かった」と私には聞こえるくらいの声量で言った。
「別にいいよ。……いや、よくはないけどさ」
遠かったし、と不満を言えば平坦な声で悪かった、と返ってくる。
「荷物くらい送ったよ。住所だって前に教えてもらったからわかるしさ。ってかさ、実家に忘れたとかいう荷物、中身見せてもらったけど服とかぐらいだったじゃん。今の季節のものでもなかったし。急にそんな急ぐ必要もないでしょ。つーかそもそもさ、わざわざ私が神奈川から東京まで行ってこんな宅急便みたいなことする必要なんて全然なかっ」
「会いたかったんだ」
寿一の言葉が聞こえたのだろうか。すぐそばを通り抜けていったスーツ姿の女性が一瞬こちらに顔を向けて私たちをその目に写して、それからすぐにどうでも良さそうに歩き去っていく。
不意を打たれたのは私もだった。八つ当たりのような不平不満はたかが数秒にも満たない言葉で殺された。なんて言うつもりだったのか、私の言葉なのに私にすらわからなくなってしまった。

「だが、俺が会いたかったと言ったら、お前は来なかっただろう」
彼は私と言う人間をよく知っていた。
いつだって私は自分の行動を他人のせいにしていた。そうしていればその選択の責任を私が持つ必要はなくなるから。苦しくても辛くても、私のせいじゃないから。そうなってくると、行動は他人を基盤にしたものと、ルーチンを基盤にしたもののどちらかになってくる。変化を求めずに変わらない毎日を望み続ける。変化は大変で、苦しみを持ってくる。
今日だって私は外へ行く理由に寿一を使った。寿一がどうしてもって言うから、仕方がなく。そうやって言い聞かせて都合良く相手を使って。
変化は望まない。寿一との関係だって同じだ。私と彼はただの昔馴染みの友人でいい。それ以上を望むのは恐ろしい。望んでしまう自分自身のことも。
だから私は、寿一は私を一友人、あるいは非常に都合のいい存在だと思っていて、今回も荷物を届けさせるためだけに都合のいい私を呼んだのだということにしていた。私自身にそう思い込ませていた。
なのに寿一は「会いたかった」と言った。他の誰でもない私に。その言葉に含まれた意味はなんだ?

「俺は今までお前を傷つけようと思って行動したことはない。名前、いいか、聞こえているだろう。聞こえないふりは、見ないふりはもう辞めだ。俺もお前も」
これからやってくるものに怯えて、反射的に体が後ろに下がる。けれどそれを寿一は許さない。捕まえるように手を握られる。大きく固い掌。こんな手だっただろうか。知らない。

「お前は自分の足でどこにだって行けるし、なんだってできる。お前が見て見ぬ振りをしていただけだ。俺はずっとお前が見て見ぬ振りをしていることを見ないふりをしてきた。だが、それも終わりだ」
どうして、今日。どうして、今。突然こんな話をするのだろう。完全に怯んだ私に抵抗の術はなく、逃げることも、耳を塞ぐこともできない。
「俺がいなくても、お前は大丈夫だ」
……そんなの、そんなの当然だ。私は寿一がいなくたって生きていける。あたりまえだ。人は、そうでなきゃいけない。誰かがいなければ生きていけないなんて、そんなことがあっちゃいけない。
だけどどうだろう。これまでの私は。寿一は私を助けてくれない。守ってくれないし、弱音を吐いても何もしてくれない。だけど誰よりも私を信じてくれていた。私以上に私のことを信じてくれていた。
私はずっと、寿一に助けられたらもう最後だと思っていた。寿一に助けられることは、自分の足で立てないことだと思っていた。私は今まで寿一に助けられたことなんてない。だけど私が私を肯定するためには、寿一が必要だった。私がダメだと思っても、寿一が大丈夫だというだけで私は大丈夫だと思え続けてきた。振り返ればいつだって、私は寿一の「大丈夫だ」という言葉に生かされていた。
それはつまり、寿一がいなきゃ生きていられないということなんじゃないだろうか。
そこまで考えて、血の気が引くのを感じた。
大丈夫じゃない。私はいつだって大丈夫じゃなかった。

「大丈夫じゃない。大丈夫じゃないよ、寿一。私は大丈夫じゃない」
呻くような声は、いつものように否定された。
「そんなことはない」
私は俯いたまま、目を合わせることもできなかった。
「大丈夫だ、名前。お前は大丈夫だ」
それはいつもの言葉だった。いつもいつも、寿一はそう言っていた。それはいつもある、変わりないものだから、それが無くなったら、生きていくのは難しい。
けれど、きっと、私が思っていたようなものではないはずだ。生きていけないわけじゃない。

「俺も、お前も、互いがいなくてもきっと生きていける」
だが、と寿一は続けた。
「一緒にいたいと思う。お前と、共に」
なんで、そんな、急に。
そう呟くように言葉を漏らせば、逃したくなかったと珍しく彼が笑った。逃したくなかった。やけに間抜けに聞こえるその言葉に私まで笑ってしまいそうになった。私は寿一から逃げたことなんてなかった、つもりだ。少なくとも、私からしてみれば。けれども、寿一からしたら私はどんどんに逃げていっているように見えたらしい。
「いいと思う」
気が抜けて、バカみたいなことしか言えなかった。
けど、寿一がもう一度笑ったから、たぶん、正解だ。


(2017.1.21)
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