心に垣をせよ #09 「…その人から離れろ」 体が熱い。頭がぐらぐらする。こんなに怒りを覚えたのは生まれて初めてだ。何かが体の中でぐずぐずと鈍く蠢いている感じがする。 「…俺の元カノがさぁ、お前のこと好きになっちゃってね。アイツ俺のこと振ってその後お前に振られたんだ。まったくお前のおかげで散々だよ。」 「…離れろ」 「お前さぁ、俺の気持ちわかんないだろ?だから、わからせてやろうと思って。どう?取られる気持ちってやつは。」 あぁ、だめだこいつ。 俺の中の何かが切れた。勝手に体が動いて、べらべらと喋るこいつを突き飛ばす。 もう、殺しちゃってもいいんじゃないか。 「…殴るなら殴れよ」 「っ!!」 拳を思い切り振り上げる。 『黄瀬っ!!』 「っ」 『黄瀬、だめ、だよ…』 「……………」 なまえ先輩の叫び声が、俺の拳を殴る直前で止めた。 『黄瀬、その人から離れて…』 「………でも、」 『黄瀬、お願いだから…』 「……………」 渋々、馬乗りになっていた体制を解く。 『あの、今日のこと誰にも言わないからさ、もう帰ってほしいかなーみたいな?』 「……………またね、みょうじさん」 アイツは立ち上がって体の埃を払うと、そう言い残して俺の横を通り過ぎていった。 目は、合わなかった。 『…雨降ってきたの?びしょびしょじゃん。』 なまえ先輩の手首には赤い跡が残っていて、いつもはとめてあるシャツの第二ボタンはあいていた。目にはうっすらと涙が滲んでいる。 『折りたたみ傘持ってきといて良かったー』 「なまえ、先輩、」 『…なーに?』 「………俺、」 あぁ情けない。言葉が見つからない。まるでいつかの昼休みみたいだ。 『…とりあえず、帰ろう?』 「……………」 『そうだ笠松に連絡しなきゃね、』 「……………」 『うっわ着信履歴すごっ!全部黄瀬と笠松だ』 「……………」 『…心配かけちゃったね、』 「……………」 『あ、もしもし笠松? …っ!! そんなにおっきい声出さないでよ。…うん、うん。黄瀬が見つけてくれた。…うん。今からふたりで帰るから。…うん、またね。』 「……………」 『あはは笠松に超怒られちゃったー』 「……先輩なんでそんななんスか」 『…え?』 「…無理して、笑わないでほしいッス…」 『……………』 「……………」 『…………今だけ無理させてよ』 「……………」 『…ね、一つだけお願いしていい?』 「…なんス、か、」 『うちの角曲がる前まで…手、繋いでて、』 「…もちろんスよ」 繋いだ先輩の手は、小さくて、冷たくて。それから、少し震えていた。先輩と手を繋ぐだなんて、本当だったら嬉しくて仕方ないはずなのに。 胸が、痛む。 一緒に入ろう、と言ってくれた折りたたみの傘も、俺がどんなに先輩側に寄せてもあまり意味をなさなくて。先輩の手はどんどん冷たくなっていった。 家に着く頃には、俺は元々だけど先輩もかなり濡れてしまっていた。 「…なまえ!!黄瀬!!」 『…笠松、外で待ってたの…』 「お前本当バカだな!!あんま心配かけんじゃねぇよバカ!!」 『…すいません』 「ってかお前らぐしょ濡れじゃねぇかよ」 『「…すいません」』 「おらタオルと傘」 『「…すいません」』 「とりあえず黄瀬、もう遅いから今日んとこは帰れ」 『うん、そう、だね』 「…はい」 「なまえはもう家入ってろ」 『うん…ねぇ笠松、今日泊まってってよ』 「……………あぁ、後から行くから早く家入れ」 『…うん、』 パタン 「……先輩、俺のこと殴ってほしいッス」 「…………」 「…俺、なまえ先輩泣かしたんスよ」 「…………」 バチン! 「い゛っ」 背中を思い切り叩かれた。え、なんで背中? 「バカ言ってんじゃねぇよ。何があったか知らねぇけどな、ありゃお前が泣かしたんじゃねぇだろ。そんぐらい見たらすぐわかるっつの。何年一緒にいると思ってんだ。」 「…でも、」 「なまえの所にはお前が行け」 「…え?」 「俺は今日は帰る。なまえの所にはお前が泊まれ」 「……………」 「…あれは、俺じゃ駄目だ。」 「……………」 「着替えぐらい鞄ん中まだ入ってんだろ」 「……はい」 「…黄瀬、」 「…はい」 「なまえを頼んだぞ」 「…はい」 「じゃあな」 「ッス…!!」 そうだ。落ち込んでる場合じゃない。今は、なまえ先輩を一人にしちゃいけない。 ドアを開けると、玄関でなまえ先輩がうずくまっていた。 『…か、さま、つ…』 「…すいません俺ッス…」 『…え、』 先輩が顔を上げてこちらを見る。目から大粒の涙を流していた。 『き、せ…』 * * * 2012.9.22 |