+2cm
※恋愛色


もう春だとはいえ、まだ少し肌寒い夜の道をお兄ちゃんと一緒に並んで歩いていた。スタジオへ出掛けていた私を、お兄ちゃんがわざわざ迎えに来てくれたのだ。

嬉しい反面「別に来なくっても良かったのに」なんて憎まれ口を叩いてしまう。ああ、何て可愛くないんだろう。

そうして後はのんびり帰るだけなのだけれど、ふと空を見上げれば、どんよりとした雲がそこを覆っていた。雨の匂いが、鼻をかすめる。――そう思った次の瞬間、パラパラとした小さな水滴が、私の頬に掛かった。

「降水確率30%、か」

隣で呟く声がする。

「残念。傘は、持って来なかったな」

お兄ちゃんが、仕方なさそうに微笑む。小降りだった雨はすぐに本降りに移り出し、私達も慌てて駆け出した。でも、こういう時に限って、雨風をしのげそうな場所がすぐには見当たらない。

「ミク、こっちだよ」

差し出されたその手を取って、お兄ちゃんと一緒に雨宿りの出来そうな場所に向かって走る。

「……だいぶ濡れちゃった」

私が言う。自慢のツインテールが、雨に濡れてへにょへにょだ。萎んだ気持ちで、その毛先をくるくると弄った。


「スタジオを出るまでは晴れてたのに」
「でも、この分ならすぐに止むだろうな」


ザーザーと音を立てて降る雨を、2人でぼんやりと見つめていた。突然の雨は、その勢いを増していく。


「ミク、寒くないかい?」


ふいに聞かれて見上げると、お兄ちゃんが自分のマフラーを外していた。


「少し濡れちゃってるけど、無いよりはましだろ?」


そう言って、その青いマフラーを私の首に巻いてくれる。……気持ちは嬉しい、嬉しいけど、こう見えてお兄ちゃんは不器用なのだ。マフラーでぐるぐる巻きにされて、ちょっと息苦しかった。


「……ありがとう」


でも、素直にお礼を言う。お兄ちゃんは、優しい。自分だって、寒いはずなのに。


「最近はこうして、2人きりになる時間も無かったね」


ぽつり、とお兄ちゃんが呟く。「……そうだね」と私は言葉を返した。最近の私は、マスターと一緒に居たり出掛けたりすることが多かったし、家には賑やかな家族達が居て、お兄ちゃんと2人きりになることなんて、以前に比べて少なくなっていたからだ。
……話に続きがあるのかと思って見上げると、お兄ちゃんは何か考え込むようして黙ったまま。そんな奇妙な空気がたまらなくて、私は口を開く。


「お兄ちゃんは、寒くない?」
「ああ、平気だよ」


そして何故だか寂しそうに笑って、私の頭に手を乗せる。


「ミクが、隣に居るからね」


青い瞳に真っ直ぐ見つめられて、私は急に恥ずかしくなった。……何だろう、その言い方。


「……私だって、いつまでも子供じゃないんだから」


と、再び可愛くないことを言ってしまう。こんなことが言いたかった訳じゃないはずが、とっさに出た言葉だった。


「ああ、わかってるよ。ミクはもう、俺が居なくても何でも出来るからね」


悲しいような切ないような、そんなお兄ちゃんの言葉に、私は胸が痛む。別に、そんなつもりで言ったんじゃなかった。

思い返せば、私はこれまでずっとお兄ちゃんに頼りっぱなしだった。幼かった頃、歌が上手に唄えなくて泣いてる私を、お兄ちゃんは優しく慰めてくれた。眠れない時には童謡を歌ってくれたり、得意でもないギャグを言って笑わせてくれたりもした。私はそんな風に甘やかしてくれるお兄ちゃんとずっと一緒に居たくて、無理を言って色んな場所に付いていったりしてたのだ。きっとたくさん、迷惑を掛けた。

本音を言ってしまえば、今だってあの頃のようにお兄ちゃんに甘えていたい。いつまでも、子供のままでいたい。

でも、そんなのは無理なんだよ。いつかは私も、大人にならないといけないんだから。


「……お兄ちゃんだって、私がいつまでもわがまま言ったり迷惑掛けたりしてたら、嫌でしょ?」
「どうして?」
「どうしてって……」


あまりにも不思議そうに返されたものだから、私は一瞬、言葉に詰まった。


「……そういうものだと思うから」


何とか、そんな言葉を口に出す。


「ミクも、大人になったね」
「そこは笑う所じゃないよ」


おかしそうに笑い出したお兄ちゃんを、私はすこしだけ睨む。そしたらお兄ちゃんは、急に真面目な顔で私を見て言った。


「……俺はてっきり、ミクに嫌われたのかと思ってたよ」


え?


「私が、どうしてお兄ちゃんを嫌うの?」


そんな理由、どこにも無いのに。


「……そうか。それなら、良いんだ」


お兄ちゃんのその声は、ザーザーと降る雨に消えそうなくらい小さかった。私は目を伏せる。


「嫌われるとしたら、甘えてばかりな、私の方だと思う」

「…そんなこと、無いよ」


お兄ちゃんが言う。


「ミクに、俺のことが必要無くなったらそれはそれで良いんだよ。でも、俺がミクのことを嫌いになんて、なるはずが無いんだから」


「……必要無くなる、って」


そんな言い方は悲しい、お兄ちゃんはものじゃないもの。それに、


「そんなこと、わからないよ?」


私達は、いつまでもずっと一緒に居られるとは限らない。
もしいつか離ればなれになる日が来たとして、今のままの私じゃ、寂しさで、情けなくお兄ちゃんにすがって泣いてしまうだろう。そんな姿、お兄ちゃんには見せたくない。きっと、幻滅されるだろうから。


「それにね、私だってお兄ちゃんに何かしてあげないと」


いつもはつい、お兄ちゃんに素直じゃない態度を取ってしまう私だけど、それは本音だった。だけど、


「もう、十分だよ」


お兄ちゃんが、にっこりと笑ってそう言う。でも、そんなのが気休めなことくらい知っている。私がお兄ちゃんに、何をしてきたというんだろう。


「私が、十分じゃないんだよ」
「じゃあ……、俺もミクにわがままを言っても良いかな?」
「えっ?……今?」
「そう、今」


それはちょっと予想外。


「いいけど、なぁに?」
「……手を、繋いでも良い?」


沈黙。……………手?

そんなことを随分と真剣な顔で聞くものだから、思わず顔が赤くなった。


「そ……、そんなの。改めて言わなくても、手くらい、いつだって握ってあげるのに」
「俺は今、ミクと手を繋ぎたいんだよ」
「………………、」


……何かを言い返そうとして止めてしまった。返事の代わりに、明後日の方を向きお兄ちゃんに手を差し出す。そうすればすぐに、お兄ちゃんの手が私の指に触れた。そして優しく、指を絡める。
……こ、これ。恋人繋ぎって、いうのかな。何か、変な気分だ。こんな手の繋ぎ方、お兄ちゃんとはしたことが無い。
……と、そんなことを思えば、私の心拍数が大変なことになり始めていた。…体が固まって、そっぽを向いた体勢のまま、まともにお兄ちゃんの顔が見れない。ちょ、ちょっと待って。落ち着いてよ私。相手はお兄ちゃんだよ?お兄ちゃんなんだよ?手なんて、今までだって何度も何度も握ってきた。
なのに、何で今さら?


「……って、お、お兄ちゃん?」


腕が引っ張られたので何かと思って見れば、お兄ちゃんが自分の顔の方に私の手を持っていっていた。


「……ミクの手は、綺麗だね」
「……お、お兄ちゃん?」


……お兄ちゃんが、変だ。そう呟いたお兄ちゃんの顔は、私の知っているお兄ちゃんじゃないみたいで。でも、その手を振り払うことも出来ずに、私はただ胸の高鳴りを感じながら成り行きを見守った。


「……でも、そうか。ミクは、お兄ちゃん離れするんだよね」
「え?そ、そこまでは言ってないけど……」


いつ、そんな話になったんだろう?首を傾げたのだが、それを問うよりも先に、お兄ちゃんが私の顔を覗き込んでいた。片方の手はお兄ちゃんの指で絡められ、もう片方の手で、そっと私の頬に触れる。

…え?何?これは、何?今、何が起きてるの?
頭の中が、真っ白になる。この距離は、何だろう。今までも、こんなに近い距離接したことは、ある。あるけれど、こんなに真剣な表情でお兄ちゃんに見つめられる距離を、私は知らない。
お兄ちゃんの髪が、雨に濡れて額に張り付いていた。そしてその、深く青い瞳に目が奪われる。ぎゅっと、手を繋がれ、切なくなるような表情で、私の名前を呟いた。


「……ミク、」



その距離が届くまで、あと少し。


2009/04/02

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