鍵となり得るは
霧野の脳裏には先日の試合が再生されていた。秋空チャレンジャーズとの一戦で突如接触してきた狩屋の行動や言動が黒い渦となってもやもやと思考をかき乱している。狩屋はフィフスセクターのシードではないのか。
靄はやがて一つの答えを導き出し、脳いっぱいに占めた。それなら試合中の行動もチームの内部崩壊を狙って…?いや、その計画なら水衣が直々にるちを使って既に遂行済みだ。彼の思惑とは裏腹にるちを一選手として鍛えようと円堂が動いているため野望の実現は徐々に薄くはなっているが。
もしかして、それだけでは飽き足らず、るちを狙うために水衣が送り込んできたのだとしたら。
妹を憎み、彼女を貶めたい彼ならやりかねない。フィフスセクターの中でも大きな発言権を持つ水衣にはシードを送り込むなど容易に出来ることだ。
それに狩屋は何かとるちに構っている。自分と彼女の間に割り込んで会話したことも、試合終了後に1人ベンチに座るるちの元に足を運んだ姿も、霧野は視界に収めていた。
もしそうだとしたら、一番危ないのはるちではないのか――
「おっはよー蘭ちゃん」
欠伸を抑えながら呑気な声を上げるるちは何も知らない。狩屋の思惑も霧野が今、何を考えていたかも。
神妙な面持ちの幼馴染にるちは首を傾げる。どうしたの?と問えば何でもないと顔を逸らされた。
「なあ、るち…狩屋――」
「ひぇっ!?」
「ど…どうした?」
「べっ、べべ別に!何でもないわ、か、狩屋くんね、うん狩屋…くん…」
るちの顔は熟れた果実と見違えるほど、鮮やかな紅である。次は霧野が首を傾げる番だった。
両頬を手のひらで押さえてるちは霧野から背を向ける。血液の集まったこの顔面を早くどうにかしなければと思ったのだ。
好きです、先輩。
茜色がいっぱいに照らされる夕暮れの中を漂う言葉は酷く甘い何かを孕んでいた。
三秒間の沈黙の後、るちは素っ頓狂な声を上げ、表情は赤くなったり青くなったり忙しない。そんなるちの様子を狩屋はクスリと笑い、「そういう可愛いところが好きですよ」と再び爆弾を投下するものだからるちは深い混乱から抜け出す術はなかった。
「あ…ああ、あのねえ!狩屋くん」
「だから先輩。霧野先輩だけじゃなくて、少し俺の事も考えてもらえませんか」
「な、なんでそこで蘭ちゃんが……」
「…さあ?」
とにかく、よろしくお願いしますね。狩屋は再び微笑んでるちの元から去る。るちは酷く気の抜けた面持ちでぼんやりと落ちゆく太陽を眺めていた。
「るち、どうしたんだ?」
霧野の声にるちはハッと我に返る。るちは大袈裟に首を振って何もないと示せば逃げるように自分の席へついた。
*
今日の練習は2チームに分かれての練習試合であった。本日の練習から合流することとなったるちはディフェンダーを任され、指定の場所に陣取っている。グラウンドの真ん中で展開されるボールの奪い合いを遠目で見ていれば、ボールを奪取した神童がこちらに走り込んできたではないか。
「え、ちょ!タンマタンマ!」
「あっコラ逃げるな!」
「逃げるな、って言われても…!」
「悦田!ディフェンダーだろ!神童から陣地を守れ!」
三国の呼び掛けに意を決し、るちは神童の前に立つ。神童の赤茶の目はきりりと目尻を吊り上げるちを睨みつけていた。抜き去る順路を見極めているのだろう。いつにも増して真面目な面持ちの神童に息苦しいほどの圧力を感じる。
神童くんに圧倒されられちゃダメだ。大事なのはボール。集中して、ボールの動きを見ること。
神童の爪先で弄ばれるボールの動きはるちの目には断片的な画像と処理されて脳に送り込まれる。ふわりと弾んで空中に浮かび上がったその時、るちの足は高くボールを蹴り上げていた。
「なっ…!?」
「やった!」
しかしボールは大きく弧を描いて白線の向こうへ飛んで行ってしまう。短いホイッスルが響いた。
「どこに蹴ってるんだ馬鹿!」
「ば、馬鹿って何よ倉間くん!受け止めるのはアンタの仕事でしょ!」
「パスならパスらしく距離を測って出せ!適当に蹴ってフォワードに取りに行かせるんじゃねえ!」
「ああもう!そんなのすぐ出来るわけないでしょー!このっ、鬼太郎!」
「誰が鬼太郎だ!」
倉間とるちが今にも掴み合いそうな勢いで言い争う中、神童は唖然としていた。まさか素人同然のるちにボールを取られるなど、思いもしなかったからだ。それは三国とても同じだったらしく、神童の側に駆け寄ると真剣な顔つきになった。
「三国さん、あいつまさか…」
「円堂監督の言った事は本当だったのか…」
グラウンドの真ん中でぎゃあぎゃあ騒ぐるちの横顔を二人は見据えた。
――成長すれば即戦力になる。
円堂の放った言葉は姿を崩し、空中を漂う細かな粒子となり、神童達の前に新たな「答え」を形成していく。
るちは神童の爪先と、連動するボールの動きを読み取り、ボールが空中に浮かぶまさにその一瞬を狙って神童から奪い去った。彼自身、雷門のゲームメーカーとし並以上の洞察力を持ち合わせているが、るちは数秒間であるがそれを上回る力をみせたのだ。もしかしたら、るちは、「天性の観察眼」なるものを持っているというのだろうか。
末恐ろしい奴だ、と神童は一つ息を吐いて未だ騒がしく口論する倉間とるちに試合続行を促した。
*
「僕の実妹、悦田るちは物心が着く前から病気を患い、病院で閉鎖的な日常を過ごしていました。世間一般ではあまり知られていない眼球の病です。それを片目に患った彼女は患部に常に眼帯を取り付ける事を義務付けられた…ようは小さい頃からほぼ片目の視力で過ごしてきた訳です」
水衣の口調はまるで昔の御伽噺を語るように嫋やかだった。彼のボーイソプラノは心地よい響きでイシドの鼓膜をくすぐっている。仄暗い闇に閉ざされた空間で、水衣の声色だけが色を持ち、彼にはより鮮やかに感じられた。
こつこつ、と水衣が窓辺へと歩を進める。道化に粉した役者が壇上で一人、プロローグを語っている。そんな舞台を鑑賞したことがあると、イシドは不意に思い出す。道化は独り燦々とスポットライトに照らされながら、時に戯け、時に落ち着いた声音で物語の序章を語るのだ。その劇の内容はうろ覚えだが、道化の印象が色濃く残っているのはきっと目前の少年が原因だろう。
すると不意に水衣の足音が止んだ。
「そんな幼い頃の境遇から、必然的に彼女は人が二つの目で対処するものを、片目で処理出来るようになった…予兆は昔からありました。彼女の片目は眼帯は取れたものの、今も視力が低下しているけれど、もう一方の健康な目は著しく発達しているんです。気味が悪いほどに」
天性の観察眼、というんでしょうか。彼女は境遇から持ち合わせてしまったんです。その可能性を。
外から漏れるライトの光が水衣の横顔を照らす。その顔は何故か楽しそうに和らげており、イシドは疑問を抱く。いつも実妹を目の敵にしてきた彼らしからぬ表情だった。
「それで…悦田るちを特例選手に起用したのに何の意味がある?まさかその観察眼を覚醒させたいなどと言うのではあるまいな」
「半分当たりです。僕自身、あの目に相当興味がありまして。最後に――覚醒したところを、潰してやりたいんですよ」
カーテンの隙間から溢れるネオンが彼の顔や詰襟を白く輝かせる。ひかめく頬は滑らかであり、非常に優美だ。それと裏腹に彼の張り詰めた危うい思想は何ら変わりなく、クスリと笑みが零れる。
酷い兄だな。本当に。 兄妹には様々な形があるんです。そんなことより、ほら。時間ですよ。
水衣は微笑み、ひらめくカーテンの端を掴んだ。目下には何色もの照明がスタジアムを彩り、何千人規模の観客と選手が今か今かと王を待っている。無機質な制服に身を包んだシード達の、フィフスセクターを讃える掛け声が木霊し、選手を統率している。そこは、一つの王国の形をしていた。水衣の理想の形だった。
「ホーリーロード全国大会、はじまりです」
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