鱗片
水衣とるちの両親は彼らが物心ついた時から仲が良いとは言い難かった。父は大手企業で出世コースを進み、生真面目だったが、仕事しか見えない男でもあり、一つの大きなヤマを越えるまで家に全く近寄らない人物だった。
母はそんな夫に愛想をつかせたのか頻繁に家を開けるようになる。息子も、病気の娘までも放ったらかし、水衣も知らない場所へ夜まで出掛けて行くのである。そんな母の状況を病院に閉じこもるるちは知らなかった。伝えなくても良いと、水衣が判断したのだ。
こんな家の状況を打破したいと、父に何度も連絡をつけるが、しかし彼は仕事が忙しいの一点張りで息子の話など聞きさえもしなかった。
るちが水衣を頼るように、水衣もるちのいる場所が唯一の心の拠り所だったのである。
だから両親が別れを決めたと聞いても水衣の幼心は特に揺らぐ事はなく、むしろそれを待ち望んでいたように穏やかに保つことが出来た。
唯一の気掛かりはるちだった。薄々勘付いているようだったが、家の深刻な状況を知れば治りかけの病もまた悪化の意図を辿るかもしれない。それだけはどうしても避けたかった。
「るちちゃん退院おめでとう」
看護婦から小さな花束を渡され、るちは満面の笑みを浮かべる。
るちは自宅療養に入ることとなった。完治はしていないもの、数値も安定し、発作も
殆どなくなったため病院を離れても良いと主治医が結論を下したのだ。今は夏休み期間だが、善い状態が続けば二学期から小学校に復学出来る。
はやく学校に行きたいとはしゃぐ妹の横顔を尻目に水衣は憂い顔だった。
るちが退院して、二学期が始まる前に水衣と母親は家から出て行く事が決まっている。しかし、るちの引き取り先が未だ定かではなかったのだ。
*
「…い、水衣ってば。水衣!」
「うわ…っ、何?蘭ちゃん」
「何だ?はこっちの台詞。ボーッとして、具合でも悪いの?」
いつもの公園のブランコに跨る水衣の前にサッカーボールをずいと出して蘭丸が笑う。
「じゃあ今日もサッカーやろうぜ。あ、そうだ。退院したし、折角だからるちも一緒に」
「え…るちには、無理じゃないかな。病み上がりだし、女の子だし」
「そんな事ないと思うけど。ほら」
顔を上げると花壇の向こうで元気に駆け回る、るちの姿があった。こちらに気付けば大きく手を振って兄の名前を呼ぶ。片目を覆う眼帯さえなければ、至って健康的な、普通の小学生だ。
るちもサッカーやりたいよな?と蘭丸が投げかければやりたい!と大きな声で返事が返ってきた。水衣はやれやれ、と重い腰を上げる。
「じゃあやろっか。蘭ちゃんとるちのパスに、僕がカットしに入る形で」
「えー!?私がやる!かっと!」
「もう、るちには無理だってば」
「本人がやりたいって言ってるんだし、やらせてあげろよお兄ちゃん」
きらきらと目を輝かせて期待を寄せるるちに水衣はぐっと唇を噛んだ。
「……じゃあ一回だけね」
ころり、とボールを足で弄ぶ。目前にるち、その向こうに蘭丸。るちの足の隙間を狙いながら確実に、しかし丁寧に水衣はボールを蹴った。るちがきちんとボールを追えるように配慮しながら。
水衣と蘭丸は小学生では飛び抜けてサッカーが上手かった。多方向に力一杯蹴り上げるより、テクニックを重視するプレーが、幼いながらも二人には出来ていた。だからこそ、力加減をよく理解していた。
「あっ、わっ…あれ?」
「ナイスパス水衣!」
いとも簡単にボールはるちの間を擦り抜け蘭丸へと渡る。当たり前だ、相手は今まで病院に閉じこもっていたひ弱な少女で視界も片目しか広がってないのだから。次はもう少し遅い球にしよう、そう蘭丸に目配せするも、楽しさに身を委ねていた蘭丸はボールを高く蹴り上げてしまった。
危ない!水衣は叫ぶ。ボールはるちの頭上すれすれを飛んでいった。
「…えい!」
しかし水衣の心配も束の間、るちは軽くボールをあしらって自分の足に収めてしまった。それをみた蘭丸はオーシャンブルーの目を見開いて大きく手を叩く。
「すごいるち!お前、サッカー初めてだろ!?」
「…? うん。でも見てたらわかるわ。さっきは、ちょっと油断しちゃったけど。ちゃんと見てたら分かる」
この時思えば、るちの健全な片目に見たことない光が炯炯と輝いていた気がする。
そうなればもっと難しい球を、と小さな対抗心を抱いた蘭丸がボールを水衣へとパスする。しかしどんな球もるちが摘むように自分のものにしていった。そのうち蘭丸も本気に近い力を出し始め、強くボールを蹴り上げるが、力をうまく相殺されて見事なまでにボールはるちの元に収まった。まるで、ボールがるちの足元に吸い込まれるような。水衣の目は錯覚を起こす。
「嘘だろ…水衣、るちにちょっと教えてただろ!」
「まさか!」
るちは退院してから、今日初めて外に出たというのに。
ぽんぽん、とボールを爪先で蹴り上げてるちは微笑む。――リフティング。一見軽い力で行っているように見えるこの技だが、ボールのバランス感覚を掴む事が難しく、これも病み上がりでスポーツ経験のない女の子に早々出来るものではない。
「見てたら分かるのよ。だって水衣と蘭丸くんのプレー、沢山見てきたもの」
ボールを抱えてにこりと笑う。るちって、もしかしてサッカーの天才なのかな?息を切らした蘭丸が少し悔しそうに呟いた。
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