上手い泣き方を教えて頂戴
「――“蘭ちゃん”ってさ」
元々は僕がつけた君のニックネームだったよね。何処か楽しそうに微笑む水衣に霧野は不快感しか抱かなかった。背丈は伸び、声も年頃の少年らしく低い響きに変わり、お互い成長した姿で出会うのは初めてだというのに、長年抱き続けていた感情には一つの変化もない。
二人が抱きし感情とは単純な憎悪、である。
「ここで何してるんだ、水衣」
「別に。ただちょっと、しくじった後輩の説教ってところかな」
「……フィフスセクターの人間だっていうのは、本当なんだな」
「ふうん、知ってるんだ。誰から聞いた?剣城くん?それとも…るち?」
戯けた口調で紡がれた彼女の名前が霧野の感情を燃えたぎらせた。怒りのままに水衣の胸倉を掴み、壁に叩きつける。爆発した感情によって震える手に嘲笑を送りながら水衣は鬼のような形相の霧野を見た。
「お前がっ、あいつの名前を口にするな…っ!」
「なんで?“大事”な妹なのに?」
「…っよくそんなことが!!お前も分かってるだろ!お前のせいで…!」
「――わかってないのは君達の方だ」
冷水のような声が霧野の鼓膜を震わせる。激昂する霧野に水衣の冷ややかな翡翠の視線が突き刺さり、一歩動けば途端に爆ぜてしまいそうな緊張感が二人の間を漂っていた。
「あいつは僕から全部奪っていったんだ。報復するのは当然の事だろ」
「水衣、お前は間違ってる!いい加減、るちのせいにするのはやめろ!」
「…はあ…いつから君はあいつの味方になったんだい?全部るちのしたい通りに揃えて、君の意思がまるでないじゃないか。どうしてるちの言う事を聞くの?るちが全て正しくて、僕が全部間違っているとでも?それは君の勝手な妄想だ。――いつだって正しいのは、強い方なんだ」
自身を押さえる手を振り払い、皺の寄ってしまった首元を正しながら水衣は吐き捨てた。
「まあ、いいさ。そうやって二人でいつまでも傷の舐め合いでもしてれば?弱い奴らがつるむのは自然の摂理だしね」
「…るちも俺も弱くなんかない。弱いのはお前だ、水衣」
「――勝手にほざいていれば良い。近い未来、お前らを潰しにいくよ。僕が此の手で…必ず」
真っ直ぐ伸びる廊下に吸い込まれるように消える白い背中を霧野はアクアマリンの瞳に焼き付ける。 ――あの頃の水衣はもういない。純粋にサッカーと妹を愛していた、幼い頃の水衣は。
フィフスセクターの傘下に降ったかつての幼馴染を霧野は憐れんだ。
「蘭ちゃーん?タオル見つかった?」
「あ、ああ…悪い」
「あれ…ねえ、さっき人と話してなかった?」
自分を覗き込むるちの純粋な眼差しに霧野は視線を泳がせた。…蘭ちゃん?幼馴染の様子に違和感を覚えるるちは疑問符を浮かべる。霧野は困ったように笑った。
「いや…何でもない」
*
傍らの椅子を思い切り蹴り上げれば大きな破壊音が木霊した。八つ当たりなど水衣らしい行動ではなかったが、それほどまでに彼は激昂していた。
先程万能坂のシード達に会うべく万能坂中の校舎を進んでいた際、ばったりとかつての友人に出会ってしまったのもその要因の一つである。しかし水衣をここまで昂らせたのは万能坂に送り込んだシード達との会話であった。
――申し訳ありません、水衣さん。
「まさか剣城が…」
「いや僕にも予想外だった事だ。気にしなくて良い」
「剣城に加え、あの水衣さんにそっくりなマネージャーの声で雷門が変わるなんて…」
「…僕に、そっくり?」
「ええ。確か名前は…」
磯崎が雷門のデータを集めたバインダーをぱらぱらとめくりながら指を差す。
――悦田るちとかいう。
棚の白い花瓶を力任せに粉砕した。ガシャン、と飛び散る真白の破片と冷たい水が同じく雪色の床へと広がっていく。この部屋で唯一色のあった桃色の花を踏みつけ、花弁が濁るほどに潰してみせた。
どうして。どうしてまたあいつなんだ。何故あいつはこうも周りを変えて行く――!?
飛散した硝子片が踏み潰され、粉々に砕けていく。足を振り上げた勢いで一つの破片が水衣の滑らかな頬を掠めた。鋭い痛みが滲む。しかしそんなものに今は構っていられるほど、彼に余裕はなかった。
「水衣、入るぞ」
「…何の御用でしょう、イシドさん」
「……お前、何をして…!」
部屋を訪れたイシドは驚いた表情で水衣を見た。あなたも、そんな顔をするんですね。抑揚のないボーイソプラノがイシドの鼓膜を震わせる。部屋に撒かれた硝子片の雑音がイシドが足を進める度に響いて、水衣は不快感を感じた。
「イシドさん。僕がフィフスセクターに入った理由はご存知でしょう」
「……」
「フィフスセクターは、最強じゃなきゃ困るんです。すべてを支配下に置く組織じゃなければ…僕は失ったものを取り戻せない」
――全て取り戻すのだ。全てを再びこの手におさめるために。水衣にはもう、その道しか残っていないのだから。
「良い事を考えついたんです。少し、耳を貸して頂けませんかイシドさん」
きっとあなたにとって悪い話ではありませんから。ふわり、と羽毛が舞うかのような笑顔を見せ水衣はイシドに言葉を授ける。
フィフスセクターに縛られた者、それはイシドも水衣も同じであった。
水衣は賢い子供だとイシドは思う。故に苦悩し、サッカーの頂点に立つこの組織にすがりついている。
これも自分たちの世代が生み出してしまった不幸、助けなければならない対象なのだ。イシドは目前の哀れな子供の言葉を静かに受け入れる。
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