エルトリアは走った。自分を引き止める宮の兵士を振り切り、一目散に駆け出した。久しぶりに見る空は鮮やかな青だ。さんさんと降り注ぐ太陽の光が連なる白い宮を照らして、眩い輝きを放つ。日光の温かさを全身に受け止め、陶磁の肌はより一層艶やかに輝いた。薄くも、肌触りの良い上質なドレスは駆けるたびにひらひらと身を踊らせ、その都度彼女の丸い膝を掠める。
彼女の飛び込んだ宮の最深部に、目的の人間はいた。身丈ほどある長い金髪を三つ編みに纏め垂らしている小柄な女性。彼女は見た目こそ幼いもの、エルトリアの10倍は生き永らえている。彼女こそ、この国の太陽というべき存在。
「シェヘラザード!」
足を止め、彼女の名前をしっとり柔らかなソプラノに載せる。
また、勉強を抜け出して来たのね。
シェヘラザードは翠色の丸い瞳を困ったように眇めた。
「だって、政治の話をするのです。わたくしには関係の無い話ですもの」
「関係あるでしょう…エルトリア、貴女はレーム帝国皇帝の息女なの。将来、民衆を率いてレームを守っていかなくてはいけないのよ」
穏やかなシェヘラザードの声はエルトリアの表情を曇らせる。
エルトリアの父親は西方に広大な領土を持つ大帝国・レーム帝国の皇帝である。エルトリアはその一人娘、しかし愛されたかというと一概に肯定は出来ない。エルトリアの母親は皇帝の正妻ではなかったのだ。
卑しい子供と周囲から遠巻きにされて育った彼女にレーム帝国皇女の名は嫌悪するに
値した。
「ねえ、シェヘラザード…わたくし、金属器が欲しいですわ」
このまま、自分はこの国にいたって図版を広げるための政略結婚にしか利用されない。それなら敷かれた運命を圧倒する力が欲しい。
近年世界各地に出現している迷宮の、至高の宝であるジンを従え、金属器を手にいれさえすればエルトリアを取り巻く環境も一変するだろう。
エルトリアは毎日のようにシェヘラザードに願った。このレームの最高司祭を全うする彼女は迷宮へ導く伝説の魔導師・マギでもあるからだ。
しかしどんなに願おうともシェヘラザードの返事は決まってノーだった。今日もまた、困った顔で首を横に振る。
「なんで、どうして?わたくしが金属器を持ったらいけないかしら」
「エルトリア…貴女は金属器をどうして手に入れたいの?」
「そんなの、理由なんてありませんわ。レームに金属器使いが増えるのは良い事でしょう」
義兄も、レームきっての貴族の当主もその子息も持ち合わせる金属器。彼らはそれを持って戦争へ行き、国に勝利をもたらせば英雄視され、崇められる。彼らは、卑しい皇女と煙たがられたエルトリアとは正反対だった。あの光り輝く場所へ行きたいと、彼女は強く願った。
誰にも負けない大きな力が欲しいのだ。
一方、シェヘラザードの翡翠色の瞳はエルトリアの心を見透かして、負の色を浮かべた。
複雑な色の感情には、同情も含まれれば呆れもほんの少し入り混じっている。
母と死別し、孤独に育ったエルトリアにとってシェヘラザードは母親そのものだ。時に怒り、時に愛情を注いで、彼女を育てたつもりだ。シェヘラザード自身もエルトリアは娘のように愛らしく思う。しかしながら、この気難しい性格は誰に似たのか検討もつかないのだ。
今年でもう19となるのに、身体だけが大きくなって、中身は幼子と変わらない。そんな娘がシェヘラザードは気掛かりで仕方ない。
「今の貴女は、王の器ではないわ」
温度なく言い放った言葉にエルトリアの顔は強張った。
そう、わたくしには、持たせたくないということね。
掠れる声を振り絞って、エルトリアはシェヘラザードを睨んだ。頭に血が登り、酷く侮辱された気分だった。
「もう…もう来ません!」
エルトリアは駆け出した。眉を下げたシェヘラザードの顔が一瞬視界を掠めたが、何も思わなかった。そういえば、最近彼女は自分に笑いかけなくなっていた。行事や勉強や、作法の講義を抜け出してやって来る自分を困り顔で宥めては将来の話をする。自分の未来なんて父親の言葉一つで決まってしまうというのに。
馬鹿にされていたの?それとも、シェヘラザードも、卑しい皇女と思っていたのかしら……。
憎悪の次に悲しみの波が押し寄せて、気付けばエルトリアの瞳から真珠のような涙がぼろぼろと零れていた。
「わたくしは、ただ」
貴女の愛した国を守りたいだけなのに。
届かない声は嗚咽と共に地面へ落ちて、少しずつ染み込んで行く。
エルトリアは本当の言葉を彼女に授けなかったことを、酷く後悔する。それが彼女の過ごした、シェヘラザードとの最期だった。