ルチ、どうか元気で。
今にも決壊しそうな水膜の、奥に潜む翡翠色はとても綺麗だ。ルチにとってそのふたつの瞳は宝石や夜空の星よりも尊く、輝きを纏うものだと思う。触れてしまえばきっと元には戻らないだろう。目前の煌めきは何にも代えられず、何の役にも立たないけれど、そんな、脆さ故の価値があった。どうして彼はそんな言葉と表情を自分に投げ掛けるのか白いベットの上でしか生を得られない少女は分からないままだ。彼の頬を伝った雫の意味は、未だルチに訪れない。
*
人々がごった返す大通りをルチは歩いている。話し声や食べ物の匂いが充満して、鼓膜と鼻腔に纏わりつくのは耐え難い不快感があるが、手足は自由で軽やかに動かすことができる。清潔な空気に満ちた狭い病室は、もうルチを囲う檻ではなくなった。
数年のうちに病魔は彼女の身体から抜け落ち、普通の子供の営む生活を手に入れた。
当たり前のように学校に行き、友達と過ごすことに今のルチは幸せを感じている。父は仕事一筋で家にはあまり寄り付かないけれど、愛情は感じ取れるし、不自由はしていない。ただ、ふと兄はどうしているのか考えることがあったが、母は再婚したと聞くし、器量の良い兄ならどんな環境でも難なくやっていける筈だから、きっと彼も自分のように笑って過ごしていると思う。あの頃の小さな少年が、自分の知らぬ姿に成長を遂げてしまった事実は少し寂しいとは思うが。
広告塔のあちこちにLBXの文字が目立つ。ここ数年のうちにLBXの市場は大きな規模となり、ただのホビーではなく、世間一般に浸透するれっきとしたスポーツとしての顔があった。
小学校でも男女問わず人気を博していて、ルチも大会出場経験を持つ。小規模ではあったが、公式大会で2回ほど優勝を勝ち取っていてクラスでは1番のプレイヤーとして名高かった。
一際背の高いビルの、巨大なモニターに目を引かれる。先日から催されている大きなLBXの大会の、その決勝の中継だ。
「さあ嬉原選手!果敢に攻めて行きます!」
嬉原と呼ばれる少年にカメラは寄る。CCMを器用に操作して、まるでバレエの、しなやかな躍動を思わせるLBXの動きは戦いという荒々しい行為を清浄する何かに錯覚した。
この動きを何処かで見たと、ふと思ったその瞬間。ルチは、思わず手に提げた鞄をコンクリートに落とした。
「スイ……」
求めていた兄が今、ルチの目の前に映し出されていた。
*
物心ついた頃には、ルチは病院にいた。
世間一般ではあまり知られない病だった。ルチの小さな身体には日夜問わず薬剤が投与され経過は順調と言われていたものの薬の副作用による発熱と、それに伴う意識が朦朧とする日々が続く。
ルチにとって世界とは白く清潔な病室であり、壁の時計が2周すれば彼女の1日は終わりを告げる。
毎日を繰り返すことが最早作業として組み込まれるルチの生は酷く曖昧で不確かだったが、彼女に不満は無かった。
からりと引戸が開く。其処から覗く自分と良く似た少年の顔を見つけてルチの顔に表情が咲く。
少年はルチと視線を交えると、顔を一層綻ばせた。
「おはよう、ルチ」
一つ上の兄、スイは恐ろしく器量の良い子供で、何をやらせても並以上にこなしては周囲を圧倒していた。賢く、心優しい兄をルチは誇っていたし、何より心の拠り所でもあった。週に何度かの、スイが病室を訪れる日がルチにとっての至福のひと時と言えた。
「見てルチ。今日はこれ持ってきたんだ」
「なあに、それ?ロボット?」
「そうだよ。LBXっていうんだ」
手のひらに収まる小型のロボットをスイは白いシーツの海に放つ。
もう一方の手には操作機器のCCMがあり、ボタンを器用に打ちながらLBXに運動命令を下した。
するとLBXはシーツの上を縦横無尽に駆け回ったではないか。ルチは驚きと歓喜の声をあげる。精密な四肢の動きは感動を起こしたし、波に逆らって駆けるロボットは本当に生きているかのようだ。スイが命を吹き込んだのかもしれない。ルチの瞳は光色を含んで動き回るLBXを追った。
「すごい!いいなあ、ルチもやりたい」
「ルチの病気がちゃんと治ったら、一緒にやろうね」
「うん!約束ね!」
小枝よりも細い小指を絡めてルチは兄と約束を取り付けた。木漏れ日が優しく窓に落ちる初夏のことだ。
「――嬉原選手、優勝おめでとうございます。今年通算6度目の優勝ということですが、お気持ちは如何ですか?」
「今回は辛勝でした。課題も見えたので、良い経験になったと思います」
インタビュアにマイクを向けられ、微笑むスイは今年13である。あれからもう4年も経つのに彼の顔には鮮明に面影が残っていた。
初夏の病室で交わした約束が叶うことはなかった。あれからすぐに二人の密やかでしあわせな日々は簡単に崩れ去ってしまった。
元々不仲だった両親が遂に別れを決め、ルチは治療費の関係で稼ぎのある父親の元に残り、母はスイを連れて家を出て行ったのだ。スイが9、ルチが8のことである。
以来、兄妹が連絡はおろか、顔を合わせることなどなかった。母の方にはすぐに新たな家庭ができ、ルチは連絡することを躊躇っていたのだ。
しかし、偶然とはいえ顔を見てしまうと、今まで押さえ込んでいた気持ちが封を解いて溢れ出してしまう。優しくて大好きだった兄が、手を伸ばせば届く場所にいるのだ。
スイに、お兄ちゃんに会いたい。
ルチは一瞬にして、その心に満ちていた。
「来年度からLBXの名門と名高い神威大門統合学園に編入されるとのことですが…」
「はい。2年生からの編入です。レベルの高いプレイヤーと勝負出来るのが今から楽しみです」
「それではファンの皆様に向けて何か――」
インタビュアの台詞を遮るようにルチは一目散に走り出した。雑踏を強引に掻き分け、尚も駆けながら帰路へと着く。
灯りのない自宅に滑り込み、共用のパソコンの電源を付け、検索画面にワードを打ち込んだ。
――神威大門統合学園。
溢れ出る情報と文字の羅列をふたつの瞳で追い掛けて、片っ端から脳に叩き込んだ。
神威大門統合学園。プロプレイヤー養成学校、LBXプレイヤーの聖地、通称神の門。フェリーでのみ本土と行き来可能な人工島に校舎を構える。全寮制。入学条件は――
「公式大会3回以上の、優勝……」
急いで受話器を手に取り、ルチはダイヤルを押した。何かあった時に連絡するようにと渡された父の職場に直通する番号だ。数回の呼び出し音のあと、父親が出た。何かあったのかと問う声にルチは答える。
「パパ!あのね、私中学は地元の学校じゃなくて違うところに行きたい。ええと、あの――神威大門統合学園に!」