融けたらお花になるのでしょう
父との記憶はあまりにも少ない。
出張が多い仕事柄、父は家に寄り付かず、帰ってきたとしてもメルカが寝静まった真夜中が殆どであった。父親の存在はメルカの中で濃いものではなかったが、それでもメルカは父を慕っていたし、父も一人娘を大層愛でていた。稀に訪れる休みに父は彼女の好きなところへ連れて行ってくれる。お菓子や玩具も何でも買い与えてはメルカを喜ばせた。父と一緒に過ごせる、そんな休日が好きだった。
その日も丁度、父の休みだった。
メルカが甘いものが食べたいと言うので彼は駅前にある喫茶店に娘を連れて行った。フルーツとチョコレートソースがたっぷり掛かった大きなパフェが売りの、三門市では有名な店である。
運ばれてきたスイーツに目を輝かせ、小さな口いっぱいにフルーツを頬張る姿は何よりも愛らしかった。つやつやと光る銀色のスプーンで新雪のようなクリームを掬う、その動作ひとつひとつが幼くて思わず笑みが零れる。
蜂蜜色をした午後の日差しが硝子の向こうから降り注ぎ、パフェのガラス容器や、黒いコーヒーの水面や、青いギンガムチェックのテーブルクロスを照らす。その時、親子は確かに、当たり前の幸福に包まれていた。
爆撃の轟音さえ聞こえなければ。
鼓膜を激しく叩くのは崩れ落ちる瓦礫の音だった。突如として砕け散った細片はまるで雨のように降り注ぐ。ゆっくり、ゆっくりと身を重力に従わせてこちらに向かって零れ落ち、保っていた形状が張り裂け、また新たな粒子となる様は何処か神秘的だと、メルカにはそう視えた。
ガラスの砕ける音、女性の絶叫や断末魔が全て倒壊した建物の一部であるコンクリートの破片の中へ埋まり、やがて奇妙な静寂が訪れる。
しいん、と静まり返る世界で、メルカは父に抱きかかえられる形で生を保っていた。
メルカ、怪我はないか?
父の問いにメルカは頷く。服はところどころ破け、埃を被って汚れてはいたが、肌に傷はなかった。
目が闇に慣れてきたところで辺りを見回す。あれほど黄金色だった店内は気づけば薄闇に閉ざされており、店の至る所に落下してきたコンクリートの塊や硝子片が散乱していて美しかった空間は見る影もない。
なんで、どうしてこんな事になったの?
メルカは父の裾を強く掴んで尋ねるが、それは彼自身にも検討など付かなかった。
突如として爆撃に襲われ、他方を瓦礫に囲まれた父とメルカに脱出など叶わない。厚いコンクリートの向こうではサイレンの音がやんわりと響いていて、外もこの爆撃以外に何かしらの被害を受けているようであった。
「お父さん…わたしたち、死んじゃうの…?」
涙ぐむ娘を父は励ました。そんな事はない、必ず誰かが助けに来てくれる。それまでお父さんと一緒に頑張ろう。
そう微笑む父の額は硝子の砕片で血を流し、傷付いている。メルカは父の顔を見返してただただ頷くことしか出来なかった。
それから何時間も父とメルカは暗闇の中で助けを待った。
だが内はおろか外でさえ完全な静寂に包まれ、厚いコンクリートに埋れた状況では人の気配も感じることなど出来なかった。
空腹と気温の低下、そして高度なストレス下に置かれたメルカの身体はガタガタと震え始める。呼吸も荒く、顔も病人のような蒼白に染まった。
メルカ、大丈夫だ。後少しの辛抱だ。
父は絶え間無く娘を勇気付ける。メルカに触れる彼の手も氷のようだった。
父の言葉を受け入れようと涙をぬぐい、メルカは彼を仰ぐ。ほんの少し安心したと同時に、気づいてしまった。父の、その背後で天井の一部がぐらりと身を揺らしていたのだ。
「あ、お、お父さん、うしろ」
メルカの声を合図とするかの如く、天井の瓦礫が二人を目掛け崩れ落ちる。
その運動は嫌にスローモーションでメルカの網膜に映った。天井を形作っていたコンクリートの大部分に徐々に刻まれる亀裂、そして重力に従って此方へ落ち行く様は空気の抜けた風船のように頼りない。
のろのろと落下を続ける瓦礫をメルカはいとも簡単に避けた。赤子でも容易く出来る芸当であると彼女は思った。少なくともメルカの双眸は瓦礫の落つ速度を最早勘定することさえ放棄していた。それ程までにメルカの目には止まって見えていた。
ほらお父さんもはやく。
父に向かってメルカは手を伸ばすが、彼は何故か反応しない。彼の動作ひとつひとつも落下する瓦礫と同じ時を刻んでいる。
目前で繰り広げられる状況に疑問を抱いた時、既に瓦礫は父の頭を潰していた。
人の形が緩やかに崩れ行くのは何にも形容し難いものだった。接触した肌が布切れのように呆気なく裂け、亀裂から飴色の液体が溢れる。紅の雫は無数に飛び散り、メルカの頬を穢した。目の前で砕ける肉塊は父の顔を持った人形なのかもしれないと思った。そう思わずには、いられなかった。
「……お父さん……?」
メルカは膝を着き、体の何倍もある瓦礫に縋った。触れれば指先に粘り気を感じ、手を引っ込める。再び、恐る恐るコンクリートの表面をなぞり、父の存在を確かめようと試みた。すると液体に塗れた、ぐにぐにと弾力のある何かを指先が掠め、メルカの背が粟立つ。
――嘘、だ。
メルカは勢い良く瓦礫に手を掛けた。大人の男数人掛かりでしか持ち上げられないであろう巨大なセメントの塊を退けようと目一杯力を込めた。指の皮が裂け、爪が割れようとも構わない。ただ父の生を確かめたいが一心だった。
父は生きている。この下で息をしているに決まっている。さっき触れた弾力は父ではない、この店にいた知らない誰かの筈だ。
瓦礫の向こうから私を呼んでいる。助けてくれ、これを押し退けてくれ。だから私も反応を示さなければ。分厚いコンクリートに隔たれていても、お父さんを呼び続けなければ、ならない。
「お父さん、お父さん、お父さん……お父さん……」
壊れたオルゴールのように、メルカは掠れた喉を鳴らし続けた。
ここは地獄なんだと、思った。
prev next