狂犬少女
三門市。人口28万人。何処にでもありそうなごく普通の地方都市。土地とその住民に見合った当たり前の生活は四年前を境に脆く崩れ去った、矛盾した街。
「みてみて、この前の嵐山さんの特集動画にアップしてるよ」
「うそ!わっ、やっぱかっこいい〜」
薄い夕陽の差し込む放課後の教室で少女達が携帯の画面を見ながら黄色い声を上げている。先日のテレビ動画が動画サイトにアップされたらしく、彼女達はお目当ての人物に釘付けであった。嵐山、と呼ばれる男は少女達より丁度4つ上の、この街のヒーロー的存在だ。爽やかなルックスと正義感溢れる性格で若い女性に人気がある。都会で華々しく活躍する芸能人よりこの街ではその男の方が好まれた。
嵐山さんとお近付きになりたい。ボーダー入りたいな。
一人が恍惚とした表情で語る。ボーダーに入隊した自分と嵐山を思い浮かべて頬を赤らめる彼女は大きな憧れと淡い恋に身を焦がす、年頃の無垢な少女である。
「そういえばこの学校にボーダーの人いるのかな?」
「さあ…聞いたことないけど」
「女の子でボーダーってやっぱ少ないよね、嵐山隊の木虎さんくらいじゃない?」
少女達が話に花を咲かせている中、4時を告げるチャイムが学校の隅々まで響き渡った。
4時だ、ごめん帰らなきゃ。
少女の輪から一人が立ち上がり、鞄を手に持つ。黒のプリーツがひらりと揺れ、小さな丸い膝が覗いた。黒字に白いラインと光沢ある雪色のスカーフが映えるセーラー服はこの学校の指定制服であり、彼女の密かなお気に入りでもある。無難な形だが、三門では珍しい女子校のものという事もあり、女性らしさを前面に出した清楚なデザインが施してある。
「またお迎えに来てるの?あの人」
「あっ例の歳上の彼氏か」
「だから彼氏じゃないって」
「またまた。大人しいくせに隅に置けないんだから、メルカ」
メルカ。少女の名前だ。
級友達のにやりとした笑みが一斉に向けられ、メルカは何とか上手く言いくるめてその場を後にしたが、きっと明日質問責めに遭うんだろうな、と少し憂い顔だった。
決まって放課後になると校門前に現れる男と、自分の関係性を問う輩は彼女だけではない。
上履きからローファーに履き替え、生徒玄関を歩けば、満ちる冷たい空気に身を震わせた。
季節は冬。中学生であるのもあと数ヶ月といったところだ。もうすぐ慣れ親しんだ友人達とも、校舎とも、別れを告げなければならない、肌寒い季節。
ふと目線を上げればメルカは探していたものを見つけた。噂のあの背中だ。
「――迅さん!」
いつもと同じく、サングラスに青い上着姿で迅はメルカを見るなりへラリと笑った。
「ようメルカ」
「よう、じゃないですよ。私また友達に冷やかされたじゃないですか」
「「歳上の彼氏」だって?大人しいくせによくやるな〜」
「ふざけないで下さい」
「大丈夫。世間じゃ4歳差なんて特に問題じゃないよ」
「私の世代じゃ大問題です!」
「はは、相変わらず手厳しいなあ、おれの弟子は」
それなら既成事実にしちゃおうよ、と親指立て冗談をかます迅にメルカは顔を真っ赤に染めて吠えた。
男、迅悠一はメルカにとって上司であり師匠である。級友の期待虚しく男女の仲ではない。歳は19。好物のぼんち揚を手にふらりと現れたと思えば突然いなくなる雲のような人だ。実力は確かで尊敬するに値する人物なのは確かだが、女性の臀部を撫でる大変許し難い悪癖を持つ。お陰で「あなたの師にセクハラされた!」とメルカに泣きつく女性隊員は後を立たない。
「今日おれとお前で防衛任務だって」
ぼんち揚を口に放りながら迅が言う。
「…そうですか。足を引っ張らないように頑張ります」
「そんな固くならなくていいって。もっと気楽にいこうよ、ルーキー」
「…そろそろルーキーって呼ぶのやめて下さい」
「だってルーキーだろ」
「私が入隊したのは1年以上前の話なんですが」
不服そうに顔を歪ませるメルカに、迅は困ったように笑って、その頭に掌を載せる。
弟子として迎え入れた当初は大人しい人見知りの少女だったというのに知らぬ間に反抗期に入ってしまったらしい。しかし迅にとってメルカの反発的な物言いはスキンシップの一つとして昇華しているし、何より可愛らしいと思う。以前そんな話を玉狛の人間に話したら弟子馬鹿だと一蹴された記憶がまだ新しい。
「嫌ならおれとお揃いにする?実力派ルーキーとかどう?」
「もっといやです」
未だ載せられる迅の手を退かそうとメルカが右手を挙げた時、彼の背後に突如、亜空間の歪が生まれた。
黒点が捻じ曲がり、ばちばちと弾けながらやがて大きな穴を作り出した。途端に鳴り響くけたたましい警報。二人の鼓膜を否応無しに劈く。――近界民の、門だ。
「うわ、こんな所で?」
「此処警戒区域ではありませんね。もしかしたら」
「ああ、例の“イレギュラー門”だ」
迅は好戦的な笑顔を浮かべてサングラスを掛けた。彼の所持するそれはフレームとフレームを繋ぐ真ん中の留め具が無い、一風変わったデザインである。
「……迅さん、私がやります」
手出しは絶対いりませんから。闘志を燃やす師を押し退け、更に精一杯の念を押してメルカは唯一の武器が収まる片手をその門の前に翳した。
「もうルーキーじゃないってこと、見せてあげます」
渦巻く暗黒の中からのっそりと姿を現す巨大な化物は口腔に収まる大きな目玉にメルカの姿を映す。網膜の中でメルカは不敵に笑っている。無垢な少女の顔はもうそこにはない。小さな胸に秘めた闘争心は炎のように燃え上がり、そして天を焦がした。
「――トリガー、起動」
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