黒板に浮かび上がる白い字は小学生にしては少し堅苦しい漢字が並んでいた。すらりとバランス良く、あっさりとしたそれらを凛は最早文字記号と認識しなかった。何かの芸術。滑らかに描かれる曲線は絵画の一部に埋め込まれた美術の一欠片だと、彼は感じる。末宮奏生。教卓の真ん前に立つ少女の名前だ。
「末宮奏生です。宜しくお願いします」
文字と同じく、すらりとした印象の少女だった。淡い色の髪の毛はつやつやとしていて、二つに結ばれている。見た目に反し、年相応の髪型だ。
転校生を歓迎する拍手の中、奏生は緊張した面持ちで指定された席へと歩を進める。
凛の隣の席に彼女は座った。
「よ、よろしく」
いつもより弱々しい声で凛は言った。何故か喉が震えていた。
「うん…よろしく。ええと」
「あっ、俺、松岡凛」
「松岡くん。うん。私、末宮…」
「知ってるよ、たった今自己紹介しただろ」
「あ、そっか。そうだったわ…」
奏生は緊張で強張った顔を赤らめて、困ったように笑った。彼女の顔は、花のようだ。先程まで硬く閉ざされていた蕾がその身を綻ばせ、開く様によく似ていた。その笑顔の色彩は凛の網膜にはっきりと、濃く焼き付く。不思議な感覚だった。その顔を凛は、未だ忘れることが出来ない。
「転校しちゃうの?凛」
乾燥した風が奏生の髪を浚う。冬の空気が2人を包んで、体を冷やした。
奏生が転校してきて、一年が経っていた。六年生の冬。そんな途中半端な時期に転校などあまり聞いた事がない、どうか嘘であれば…と奏生は心の中で祈るも、呼び掛けられた凛は振り返って「ああ」と頷く。奏生は目を伏せた。
「寂しくなる」
「そんな事ないだろ。お前には沢山友達がいる。俺と違って」
「でも、私にとっては凛が1番仲良しなんだもん」
凛にとってはこの上なく嬉しい言葉だった、しかし今、素直に喜べはでしなかった。奏生の喉が震えていたのだ。
「そんな遠くに引っ越す訳じゃないんだからさ。また会えるよ、奏生」
「…うん」
大きな飴色の瞳を細めて、凛は奏生の頭をそっと撫でる。この一年で背丈はとうに越されていた。顔付も身体も心も少しずつ大人へと変わっていく。しかし凛の顔に浮かぶのはいつでも、明るく無邪気な笑顔だった。奏生はその顔が何よりも好きだった。
それが奏生の見た、最後の凛の姿だ。
*
季節は晩夏であった。蝉の騒音に似た鳴き声も徐々に衰退しはじめ、少しずつ穏やかな空気が海の向こうから流れ始めている。
奏生は17になっていた。真新しい一軒家は彼女が小学5年生の頃に両親が建てたもので、もう新築と呼べるのかは曖昧だが昔暮らしていた狭いアパートよりは住みやすかった。
雑誌や化粧品で散乱する部屋は仄暗い。布団の海を遊泳しながら朝日なんかやって来なければいいのに、と願う。
「おはよう末宮さん」
教室に入って早々、柔らかい笑顔が奏生を迎えた。橘真琴。男女分け隔てなく接する穏やかなクラスメイトである。「うん。おはよう橘くん」奏生も挨拶した。彼は俗に言う「良い人」である。挨拶程度の仲だが悪い気はしない。むしろ彼のお陰で爽やかな気分になれる。
奏生は席に付き、友達の輪に加わる。彼女達も穏やかに奏生を迎えた。
「おはよう奏生」
「おはよう」
「ねえ、今日も彼氏の所行くんでしょ?」
「え、うん…まあね」
「いいなあ!ラブラブじゃん」
「そんな事ないよ。普通よ」
「まーたそう謙遜して。リア充め」
彼女らの笑顔は純粋で尚且つ明るかった。嫌味など微塵も感じない暖かな表情は奏生の心に少しの棘を生む。
「それでリンがさ…」
ふと遠くで真琴の声がした。隣の席の七瀬遙と談笑している、その会話の一部が奏生の耳に飛んできた。
リン。という単語に彼女の意識は深く深く引っ張られて行く。
昔仲良しだった凛、という男の子がいたけれど、彼が転校して以来、姿はおろか連絡すら取ることはなくなっていた。
今、どこの高校で何をしているのかも知らない。中学は一緒になるはずの学区分だったが、奏生の進んだ学校に凛の姿は無かった。
「奏生、どうしたのぼーっとして」
「え?ううん、何でもない」
奏生にとって松岡凛という存在は幼き日の幻影となりつつある。