命を知って僕は恋を忘れた | ナノ



祈りを知れば、妬みを忘れた。


だけど、薄暗い感情なしに人は形成されない。

あの日、すべてを祈りに捧げた俺は、何者だったんだろうか。


眠る謙也さんの手を握って、俺は祈りの言葉を紡いだ。







視界を阻むほどの霧雨が降っている。

結露で僅かに曇っている窓を人差し指でなぞって、謙也さんは外を眺めていた。

昼休みの廊下は、人が多くて騒がしい。

「この分やったら、部活できへんなぁ」

「ええやないですね。今日、寒いし」

4月――

暦上ではもう春だが、季節外れの寒波が直撃した関西地方の温度計は、水銀がぐんと下がっていた。

寒いのは苦手だ。
元々、皮下脂肪が少ない上、厚着するのも嫌いな俺は、ひたすら暖房器具に頼るか、そうでなければじっと耐えるしかなかった。

経費削減の波は、公立学校にも押し寄せてきている。
4月に暖房を点けることを学校が許すわけがないから、必然的に俺は後者の方法で寒さに立ち向かっている。

「財前、寒いの駄目やもんな」

はは、と笑いながら謙也さんは俺の頭をくしゃくしゃと撫でた。
その手の温もりに少しだけ体温が上がった。

「やけど、どんな奴等が見学しに来るか、はよ見たいやないか」

けれど、謙也さんのその言葉に再び身体がすう、と冷えていく。

「…別に。興味ないッスわ。1年なんて」

「あほ、これから一緒に全国目指していく仲間やで!気になるんも当然やっちゅー話や」

この春、入学してきた1年達の部活見学が今週から始まる。

人が好きな謙也さんは、1年達が見学しに来るというだけで、嬉しそうだった。
そこに、自分の仲間になるかもしれない奴等が混ざっているのだから、尚更。

ドロリ、と腹の底に汚泥のような重く冷たいものが溜まっていく。

「……い、」

「ん?」首を傾げる謙也さんから目を逸らし、呟いた。

「後輩とか、うざい」

目の端で、謙也さんが悲しそうな顔をしたのが分かったけれど、俺はそれ以上、何も言えなかった。




同学年のテニス部員の中で、正レギュラーの座を手にしているのは俺一人だった。

だから、正レギュラー同士の練習試合に参加できるのは当然で、先輩達と接する機会が増えるのも当たり前のことだった。

それに優越を感じるほど、幼稚な性格ではない。

むしろ、金糸雀色の髪をした一つ年上の人よりは数段、大人だと自負している―と、そのときの俺は思っていた。(そして、それが致命的な間違いだった)

どんなに先輩達が構ってくれたとしても、顧問が天才だと言ってくれても、それで嬉しいと思うことも、満足することもできない。

だって、欲しいのは、ただ一人だけなのだから。


――謙也さんに近付く人間が増えるのを、どうして歓迎できるだろう。




案の定、部活は中止になった。

俺は謙也さんと一緒に帰るために、3年2組へと向かった。

寒さが治まらない。
もしも、謙也さんが何か上着を持っていたら借りよう。

そう思い、辿り着いた教室の中を覗く。

謙也さんがいた。

「けん―――」

名前を呼ぼうとしたそのとき、後ろの席の白石部長が謙也さんの首にクリーム色のマフラーを巻き付けた。
耳元で何かを囁かれて、謙也さんの頬が淡く紅潮する。笑う。

――謙也さんは、確かに笑った。

白石部長が謙也さんと近しいのはよく知っていた。
彼等は親友同士だ。

それは、謙也さんと付き合い始めてから何度も自分に言い聞かせ、また謙也さんからも言われ続けていたことだった。

けれど――そのときは、頭の中が燃えるような赤に染まるのを、止められなかった。


“謙也さんが、好きです”


俺がそう告げたときの謙也さんの嬉しそうな微笑みが、赤色に塗りつぶされていく。


“俺も――俺も、財前のこと、”


周りの奴等にジロジロ見られるのも構わず、俺は教室の中に入って行った。

「謙也さん」まだ白石部長と何かを話していた謙也さんの名を呼ぶ。

「うわ、財前!びっくりしたやないか」

「帰りましょう」

「お、おう、ちょお待ってや」

「何や財前、俺には挨拶もなしか」

白石部長がにこやかに言ってきた。その笑顔が余裕のようで、俺の赤を真紅に深める。

「…さい」

「ん?」白石部長が首を傾げる。


―――うるさい!!!


俺は謙也さんの右手を掴むと、そのまま真っ直ぐに教室の外に出て行った。

「え?ちょ、ちょお!財前!」

後ろから謙也さんの焦る声が聞こえても、ただひたすら歩き続ける。

毎日、ラケットを握り続けている手は、女のように柔らかくはない。
だけど、この手はほかの誰の手よりも、俺を優しく守ってくれる。


“財前、”


あんたが俺を呼ぶたび、俺は自分の名前を思い出す。

屈託のない笑顔、無償の優しさ、たくさんのものを映す瞳――その全てに、俺は恋している。


恋は、欲だ。


誰にも渡したくない。


全部、全部、俺のものにしたい―――のに。


「……謙也さんは、酷い」

「……財前?」

生徒玄関に着いたところで、立ち止まる。
謙也さんの手を握ったまま、俺は後ろを振り向かずに言った。

白石部長のマフラーを巻いている謙也さんなんて、見たくない。


「謙也さんは、酷い嘘つきや」


―そないに周りの人間が大事なら、何で俺のこと好きや云うたんですか。


「ざいぜ、」


―俺を特別にしてくれへんのなら、そんなこと云わへんかったら良かったのに。最初から、


俺を…


「俺を、放っておけば良かったのに!!!」


謙也さんの手を投げ捨てるように、放す。

云いたいことの半分も云えない無力さと、俺のことを何も分かってくれない謙也さんへの怒りが身体を突き動かす。

内履きのまま外に飛び出し、俺は視界の悪い霧雨の中をがむしゃらに走った。

走って、走って、そして―――

車のタイヤが地面と激しく擦れる音で、我に返った。

靄の中から現れた白い車が、真っ直ぐに俺に向かってくる。


(あ…)


轢かれる。


「ざいぜんっ!!!」


その瞬間、俺の身体は地面に叩き付けられていた。




「……って…」

春の霧雨が、柔らかく降り注ぐ。

重い身体を起き上がらせて頬を擦ると、ピリリと痛みが走った。
どうやら擦り剥いたようだ。

「―――っ!――ゅうしゃを!」

運転手が車から降り、何かを叫んでいる。

湿った髪が瞼に張り付いて、鬱陶しい。
俺は、片手で前髪を掻き上げた。


「え……」


道路に横たわっている謙也さんの金髪が、濡れていた。

長い睫毛がぴくりとも動かない瞼を彩っている。
白石部長のクリーム色のマフラーが、赤く染まっている。赤く…―――


謙也さんを中心に、じわりと血が広がった。


「――――けんやさんっ!!!」










「ほんま、アホやな…自分が轢かれてどうすんねん」

眠る謙也さんの脇に立っていた白石部長が、謙也さんの頬を撫でて、苦々しく笑った。

「お前は?平気やったか?」

その隣にいたユウジ先輩が、俺に訊ねてくる。
俺は黙って、頷いた。右頬以外に、怪我をしたところはない。


謙也さんが、助けてくれたから。


車の前に走り出た俺を歩道へ突き飛ばしてくれた謙也さんは、そのまま車を避けることができず、俺の代わりに撥ねられた。

車の運転手がすぐに救急車を呼んでくれたおかげで、命に別状はないらしい。


だけど…


「謙也…はよ起きや…」


事故があってから丸一日。
謙也さんは、いまだに目を覚まさない。

昏々と、穏やかに眠り続けている。
頭と腕に巻かれている包帯がなければ、本当にただ夜の眠りについているようだ。

「…白石部長、ユウジ先輩、お茶でも淹れますか」

「何や、財前。えらい殊勝やなぁ。気持ちの悪い」ユウジ先輩が、軽く笑った。

「別に…」俺が何かを返す前に、白石部長が言う。

「財前、」俺は、白石部長を見る。白石部長は、いつもと変わらない調子で云った。

「ほな、貰おうかな」







俺の淹れたお茶を飲んだ白石部長とユウジ先輩は、程なく帰っていった。

謙也さんの両親は、仕事で帰りが遅いためにまだ来ない。
俺と謙也さんの二人きりになってしまった。

ずっと――誰にも渡したくないと思っていた人と、二人きり。

眠る謙也さんの顔が、滲む。
微かな音とともに、床に水滴が落ちていった――それは、何粒も何粒も、止めどなく。

「……けんやさん、」

(謙也さん、)

白石部長とユウジ先輩が、俺の淹れたお茶を飲んでくれました。
大切な友人だろうあんたを、こんな目に遭わせた張本人が淹れたお茶を。

あんたの両親は、自分たちが帰ってくるまで俺にあんたの面倒を見て欲しいって、云ってくれました。

「…ごめん、けんやさん。ごめん…」

赤に染まったマフラーを見た白石部長の顔が、脳裏に過ぎる。


―これな…


眠り続ける謙也さんの手を握って、俺は祈った。


「おねがい…め、さましてください…おれのこと、なぐっても、けっても、きらいになってもええから…」


―これな、謙也がお前のために持ってったんや。お前がえらい寒がってたから、貸してほしいって。


「けんやさん、けんやさん。たのむから…」


全ての人に優しい謙也さんが、誰かのものを借りてまで温めようとした存在。

自分の身を投げ出してでも守ろうとした存在。

自分の親や友人達に、誰よりも大切だということを伝えずにはいられないほど愛した存在。


それが、俺。


だから、誰も俺を責めない。

謙也さんが心の底から俺のことを愛していたことを、知っているから。

分かっていなかったのは、俺だけだ。


「いややよ、けんやさん…けんやさん、けんや…」

―白石部長と何を話しても、後輩ができるのを楽しみにしても良い。俺のことを、嫌いになっても良い。お願いだから、

「めぇ、さまして…」

俺はこの人に恋していた。
恋は、欲だ。
燃えるような独占欲。そこから派生する妬み、嫉み。

けれどこの瞬間、それら全ての欲はどこかに行ってしまった。

俺は、この人への恋を、忘れてしまった











「――――おはよう、」


謙也さんの目が、ゆっくりと開かれた。

俺は、囁くように朝の挨拶をする。
謙也さんは、しばらくぼんやりと俺の顔を眺めたかと思うと、緩く笑った。


「…おはよぉ、財前」


昨日、俺が乾かしてあげた髪を撫でる。
謙也さんは、嬉しそうに目を細めたかと思うと、何かに気付いたようにハッと目を見開いた。

「財前、また思い出しとったん…?」

苦しそうに眉を顰めて訊いてくる謙也さん。
俺はそんな彼に、ふるりと首を振って、嘘の答えを返す。

この人を無闇に悲しませたくないから。

4年前のあの日の夢を見たのは、本当に久し振りだった。

幼い俺の嫉妬と、変わらない謙也さんの献身。
それが引き起こした事故。

結局、あの後すぐに謙也さんは目を覚ました。

視界の悪い中を運転していた車は最初からそんなにスピードを出しておらず、出血が派手に見えたのは皮膚の表面が切れたからであって、怪我はそんなに酷くなかったらしい。

そうでなければ、いくらなんでも白石部長やユウジ先輩、謙也さんの両親があんなに落ち着いている筈が無かった。

今思えば、たった一日目を覚まさなかったくらいで自分一人が取り乱していたのが恥ずかしいくらいだ―相手が謙也さんだったから、それは当たり前のことなのだけれど。


祈りを知れば妬みを忘れ、この人が存在していることの大切さを知って俺は恋を忘れた。


「財前の、嘘つき」

謙也さんが、むくれて俺の鼻を摘んできた。「大方、夢にでも見たんやろ?」

ああ、ずっと敵わない。

俺は苦笑いして謙也さんに覆い被さると、薄い唇に軽くキスを落とした。


妬みも嫉みも、この人を想うひとつのファクターに過ぎない。
欲するよりも、守りたい。大切にしたい。


「謙也さん、」


かくして俺は、恋以上――ただひたすらに、この人を愛している。









命を知って僕は恋を忘れた







素敵な企画に参加させて頂き、ありがとうございました!
10/06/29提出

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