風の通る場所で空を見上げていた。
どこまでも続く空は青く、広くて、私の存在も悩みもとてもちっぽけなものに感じる。
そろそろかな、と思って視線を下げた時、屋上のドアが開いて、待ち望んだ人がやってきた。

「梅雨…、何やってるの!」

伊作は、フェンスの向こうに乗り出した私を見て叫ぶような声を上げた。

「何だか、この先に私と伊作の知らない世界があるような気がして」
「馬鹿なこと言わないで!当たり前だろ!死んだら…戻って来れないんだから!!」

伊作はフェンスの下を覗き込んでいる私を引っ張ると、硬いコンクリートの上に座らせた。
長い溜息を吐いて、色素の薄い前髪をかき上げる。
こうして見ていると伊作は本当に格好いいのに、どうして私なんかを選んだのだろう。
不思議で、少し目を伏せた。

「全く…何事かと思ったよ。急に呼び出されたと思ったら、屋上から飛び降りようとしてるんだもの」
「そんなつもりはなかった」
「僕にはそう見えたの。…とにかく、心配かけないで。僕は梅雨を失いたくないよ」
「伊作ってば、大袈裟」
「梅雨が気にしなさすぎなの」

伊作は困った顔を浮かべて、そっと私の頭を撫でた。
心地良い、伊作の体温。
小さい時からずっと触れてきた。
伊作は、血の繋がらない兄で、大切な人。
私の両親は、私が生まれて間もなく姿を消したそうだ。
つまり、私は伊作の両親にお世話になっている、貰われっ子。
本当の両親じゃないのに、彼等はとても優しくて、そして伊作も、私を大事にしてくれた。

それだけで幸せな日々。
なのに、どこか物足りないと気付いたのはいつだったか。
私はその「何か」を求めて、ずっと探し回っていた。



「…もう帰ろう」
「伊作」
「今日は母さんがシチューを作るって言ってたんだ。梅雨も好きだろう?」
「私、変な夢を見たの」
「そうだ、帰りに梅雨の好きなアイスクリームを買って行こうか」
「私の知らない、もう一人の私が…あのフェンスの向こうにいたの。忍者みたいな格好して、走ってた」
「梅雨…」
「伊作は泣いてたよ。何でか、わからないけど……凄く、悲しそうだった」

だからあのフェンスを乗り越えたら、あの二人に近付けるかなと思ったの。
そう告げた私を、伊作は強く強く抱きしめた。
まるで、これ以上何も言うなというように。
伊作の肩が、少しだけ震えていた。だから…

「梅雨…それはね、夢だよ。悪い夢。怖い夢を見たんだ」
「………」
「だって、君は今ここで生きている。僕の目の前にいる。そんなものはまやかしだよ」
「私の話が嘘だと言うの?」
「いいや…、嘘なんかじゃない。きっと。でも、もういいんだ。知らなくてもいいことなんだ…梅雨」

そんな言い方をされると、それ以上は何も言えなくなる。
私以上に伊作が真剣に語るものだから、きっと、その何かを伊作は私に知らないでいて欲しいのだと思ったのだ。

私は伊作のことが誰よりも大切で、彼に愛されていると自覚もしている。
広い背中に腕を回して抱きしめた。

「私が生きている限り、伊作が私を幸せにしてくれるなら、私はそれでいいの」
「梅雨…」
「誓って。私たちは兄妹だけど、血は繋がっていない。結ばれることはできるのよ?」
「知ってるよ…」
「お母さんたちには反対されるかもしれないけど、」
「そんなことはないさ」
「私だって、伊作を幸せにしてあげたいから」

ね。約束。
と、私は小指を立てた。
伊作はおままごとみたいだねと笑ったけど、ちゃんと指を絡めて約束してくれた。
二人が、いつまでも共にあると。


「…さぁ、帰ろうか」
「うん」
「梅雨」
「なに?」
「幸せにするよ」

――今度こそ、絶対に


伊作の声は、風に消されて、届かなかった。


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