その8
「伊地知いる?」
事務室の入口でひょっこり顔を覗かせた名前は、近くを通りかかった新田に声をかける。新田は人の良い笑みを浮かべながら「ちょい待ってて下さいッス」と伊地知を呼びに、書類が山積みになっているデスクへと向かった。
「お待たせしてしまいすみません…」
「あ、いや、全然大丈夫。これお土産と昨日のお礼。みんなで食べてもいいよ」
名前が差し出してきた箱に書かれたノコギリエイの煎餅という文字を伊地知はまじまじと見つめた。サメではなくエイなのか…。伊地知は礼を述べてから箱を受け取った。
「あと、これは俺から伊地知への個人的なお礼」
そう言って名前は、ノコギリエイの煎餅の文字の上に缶コーヒーを一本乗せた。
「いつも悟が迷惑かけてるから。…こんな物で申し訳ないけど」
表情は相変わらずの無だが、伊地知の疲弊しきった心には充分過ぎるものだった。実際、じわりじわりと視界が滲んでいる。まずい、このままでは名前を困らせてしまう。そう思案した伊地知はありったけの感謝を伝え、名前に背を向けた。名前は仕事が忙しいと思ったのだろう(実際忙しいのだが)特に気に留める様子も無く、「頑張って」とだけ言い残してどこかへ去っていった。
「もしかして伊地知さん、泣いてるんスか?」
「な、泣いてません!!」
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「伊地知さー、自分だけ特別とか思ってないよね???」
事務椅子に座りクルクルとまわる五条。伊地知は冷や汗をかきながら只管にパソコンと向き合っていた。この人は昼間の出来事を言っているに違いない。
「名前が優しいのはお前だけじゃないからね、皆に優しいからね、み、ん、な、に!!それに、名前の特別は僕だけなんだから!」
伊地知は別に自分だけが特別などと思ったことは無い。否、特別とまではいかなくとも少しだけ、本当に少しだけ、もう本当にミリ単位で自惚れはあったかもしれない…。
「あー!僕今すっっっっごいコーヒー飲みたいなあ!!伊地知コーヒー持ってない??」
目隠しで表情まではよく分からないが五条の機嫌が良くないことはわかっている。ここで下手に刺激しては後々がとてつもなく面倒な事になるので、伊地知は仕事が一段落したら飲もうと思っていた、名前から貰った缶コーヒーを大人しく差し出した。
「これブラックですけど…」
「だからなに???」
この男はコーヒーが飲みたいとかではなく、名前が伊地知に個人的に何かを渡したことが不満だったのであろう。缶コーヒーを手にした五条の機嫌は目に見えて良くなっていた。このまま早くどこかに行ってくれ。その一心でキーボードを叩いた。
「あ、忘れてた。…これ、後よろしくね」
五条はそう言って、伊地知のデスクの上の山を更に高くしてからルンルンと上機嫌で事務室を出て行った。
名前くん、一人でお外に出れないので自販機で買ってきた缶コーヒーです。結構最近まで「いじち」を「いちじ」だと読み間違えてた(白目)口調迷子不安。
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