(M・Mとブルーベル)

 人の指をここまで引きちぎりたいと思ったことはない。人の指はなにもない限り十本ある。物陰に隠れて、ブルーベルは白蘭の不貞を目撃した。不貞といってもそれは人それぞれで、白蘭はこれを不貞とは言わないと弁解している。「人という生きものはね、どうしても楽をしたがるんだよ。僕も君も…。」白蘭はかしづきながらMの左甲に口をつけ、指先に大粒のダイヤを施した指輪をはめさせていた。この調子だと、白蘭はあと九つはめて彼女の指をコンプリートするつもりなのだろう。それを見て、Mは大げさに嬉しそうな顔も嬉しくなさそうでもないまるで人形のようにはいはいということを聞きもはや白蘭の思うがままだったのだ。こんなに大きな人形は美しくない、せめてブルーベルを選んだほうが幾分可愛いはずだった。白蘭にブルーベルは何度か私を選んで欲しいと言ったが答えは曖昧なものだった。「あの子とブルーベルはね、ほとんど似ているんだけれどあの子の方が僕にふさわしいんだよ。だって、あの子には僕の気持ちが手に取るように分かるんだよ。君に僕の一番を務めるには重すぎる。」そのときからあの女は、醜い存在になり下がったような気がする。
 なにも、最初からMのことを憎いと思ったことはない。最初は、世話好きのおせっかいな女だったけれど、彼女からもらったヘアピンとまあるいカメオブローチは大切に持っていた。それに時々髪の毛を結ってくれるのがすごくうれしかったのだ。なぜこの場所にいて良くしてくれるのかは、未だによくわからなかったがとりあえず彼女の指が適度に冷たくて代謝の良いブルーベルの体や頭皮にはひんやりと心地よい冷たさが大好きだった。その代わり彼女はいつも体がだるそうだった。つまり、入江のいた日本でいうと肩こりである。それは日本特有の身体症状でブルーベルには早すぎる身体症状ではあるので理解できず見られなかったものの、歳の近そうな白蘭にもそういった症状は見られず、入江はたまに「君が肩をもんでくれたら、お菓子あげるよ。」と笑って言ったのは覚えている。菓子なんて低く見られたものであるが、入江が選んでくれるものは大体おいしかったのでそうすることにしたのだ。白蘭が癖になって食べている「ましまろ」は砂糖の塊で口にしたとき、非常に毒々しかった。つまりはおいしくない。ラムネもマカロンも、どれもこれも甘すぎる。彼女に対する態度と同じである。思い出せば思い出すほど憎々しい、どうしてあの女に触られて嬉しかったのだろうか。

 「Mちゃん、君は楽だよね。だってこうやって僕が指先にダイヤをちりばめれば喜んで僕の相手をしてくれるじゃない?正ちゃんもユニもブルーベルもみんな、みいんな僕に対する気持ちが重いんだよね、まあ、僕は聖人だからかもしれないね。それなのに、どうして僕はこんなにいいかげんなんだろうねえ、」
「あんたはすっごく白々しいヤツ、けれど聖人だわ。それに私が楽だなんて人選ミス!」
「そんなことないよ。ほうら、十分もしないうちに、もう少しで君の指先は僕のもの!お金で言うことをきいてくれる子なんて世界で君だけだろうねえ、ブルーベルも君が大好きみたいだけどさあ、なんか許せなくなっちゃったよ!僕は酷いヤツだけど、僕の方が強いし。」

 Mはもう何も抵抗できなかったが九本は白蘭のものになった指先に怖気づいた。「あと一本、コンプリートはちょっと難しい方が達成感が沸くってもんよ、」と言って装飾で重くなった指を払いのけた。その時の引力で白蘭に触れた頬は若干の痛みを感じた。ブルーベルは、あのショックな光景を目撃したショックで足がすくんでいた。Mは、少し機嫌の悪そうな声で「あんたが見て得するようなことじゃない」と言って何もできなくなったブルーベルをおぶった。ブルーベルは彼女の肩に乗り、肩が凝っている、そんな感触はどうなんだろうと思いながらぼおっと絶望を抱いた目でにゅうとかうにゅーとか言葉にならない言葉を呟く。Mはしっかりしなさいな、と少し振り向いた。前なら「もう眠いの、」と言ってわがままを言えただろう。しかし大好きだった白蘭がまさか自分よりもMを選んでしまったことに何も言えなくなってしまった。どうしよう。ぐるぐるぐる自己嫌悪、自分は何の非のない女の子でMは囚われの女。どっちも罪はない。ただ楽か否かの問題で白蘭が愛しているかいないかの違いである。

 「少しは落ち着いた?」
「もう大丈夫だって。」
「そうね。今日は休みなさい。こんな姿みせて悪かったわ。」

 彼女はそっとブルーベルの元を離れた。ブルーベルの頭の中では至極混乱していたのは言うまでもないが何をやっていてもおなかが空く、ちょっとでも白蘭に好かれたかったがために覚えた料理をしに冷蔵庫を開けた。ひんやりとした箱がMの指先を思い出して頭がぐちゃぐちゃになった。それでも泣けそうになかったのでおもむろにそこにあった玉ねぎを取り出して半分に切った。玉ねぎの硫化アリルという涙が出る原因である物質で泣きたかった。でも流れてくる涙は慟哭に比べれば貧相なもので、何かにこじつけない限り涙は流れないことが分かった。今のMに玉ねぎの皮はむけるだろうか、指が鉛のように重くなって何もできないだろうか。
 「あーあ、猫の手で切るって言わなかったかしらあ?」とMはブルーベルの小さな指を触る。「こうよ、今のままじゃあ確実に指先から、ぶすり…ね。」と言って間違った手元を修正した。この作業は今に始まったことではない、猫の手で押さえて何かを切ることになぜか指先の自由を失ったような気がして不快感を催すのだ、そう白蘭がブルーベルを裏切ったように。長くのばした漆黒の睫毛も、女らしさだってブルーベルにだってあるのに、扱いが楽な女なだけで選んだのだろうか。あの女が取りいったのだろうか。そんなことを考えている間にあっという間に玉ねぎを切り終えた。

 「私が憎いんでしょう、どうして見ていたの。」とMが言った、その時にブルーベルの包丁の持ち方がおぼつかなかったためかずっとMとの位置が近かった。ブルーベルは、女の声が近くで聞こえ背中がぞっとした。そこを振り向くときっと低体温の彼女と頬が当たる。硫化アリルが眼にたくさんしみ込んだ時の涙がひたひたとMにまとわりつきそうだったので、出来る限りむかないようにしていた。間髪を開けずに、Mは「この薬指はねえ」と笑みを浮かべた。彼女の指は思ったより細かったというよりも皮ばっていた。腹立たしいというよりもこの指に今触れるとすごく冷たいのかもしれないと感じてしまった。不意に彼女はブルーベルの口元へ指先を持っていくとぷすりと簡単に唇を触れてしまった。予想通り冷たかったのだ、硫化アリルをこじつけにした涙がぼとぼとと彼女の指にまとわりついた。「この人差し指が憎いんでしょう、これは白蘭に売った指だわ。さああんたは何すんのかしらねえ、あんたの方が白蘭を愛しているんでしょう?」と半狂乱のような笑い声だった。知っている、彼女もブルーベルも精神的に疲れていたのだ。だけどどうやってこの溝を埋めたらいいのかがお互い分からなかったのだ。

 「さっさとこの人差し指を憎みなさいよ!」
「ブルーベル、あんたのこと嫌い!」
「嫌いっていえば、解決されるなんて!まあ幼いこと!知ってた?」
「嫌、嫌っ!私は今あんたの指を噛み切れるし、憎めるわ。でもねえ!」

 ブルーベルは、大声で泣いた。こんなことは人生でまだない、まだちょっとしか生きていないのに人生を語るには早過ぎたが隣まできっと聞こえるぐらいだった。もう白蘭にもMにも裏切られるよりも、自分がこうしてMを憎まなかった理性が働いたことがいちばん辛かった。「嫌い」は魔法の言葉である。小さい子どもは気に入らなければ嫌いという。しかし、気に入ったことをされて好きかといえばそうでもない。要は概念のないストレスから逃れたいがために嫌いだの嫌だのと泣きながらいう。大人たちはいつからその言葉をあまり使わなくなったのだろうか、それはその言葉が効かなくなるということを知ってからである。その代わりこっそりと嫌味をいったり涙を流す。現にブルーベルも涙を流しそこにいたMも涙を流した。本当は白蘭に指を売りたくはなかったのだ。何でそんなことになってしまったのかは分からないが、白蘭のいうとおりの聖人で逆らうことを無としていて、威圧感があったのだ。「この薬指はねえ!白蘭が買いそびれた指!薬指ぐらいあんたにくれてやるわ!」とぽろぽろと涙を流し言った。ブルーベルはたった一本の指が妙に価値観があると思ってしまった。白蘭のものには触れないという見えないルールの中に、まるで一つの自由があるように見えた。ブルーベルには白蘭を愛してはいるが、現実が見えているのかのようだった。しかも憎むべき対象のMの指の価値が彼女の中で需要が上がり、さらに愛しくなっていた。

 「白蘭の真似じゃないからね、それにしても忠誠すらしてない強欲女にかしづいてるなんて。勘違いしないでよね。」
「あんたの理性が勝ったのね、好きになさい。」
「そうねえ、ブルーベル本当はその指嫌いなんだけどね。また、また…」

 その美しく細い指で髪を結ってちょうだいよ、心地よくてくすぐったいあの気持ちよさは、妬ましくてもあの快楽とは変えられない、ひんやりとしたあのさわやかさで青色を、頭皮をなめらかに。


















 「あーあ、ブルーベル泣いたらお腹すいちゃったあ。アイス食べたいなあ。」
「そうねえ、それにしてもこの大量の玉ねぎはどうしたらいいかしら。」
「そんなの正一にあげればいいのよ。ブルーベルが作ったのは何でも喜んで食べるわよ、だって正一ってばねえ、ブルーベルのことが好きだもの。」

 「そうねえ、男はばかばっかりねえ。」そう言ってMはブルーベルの頬を触り耳へ頭皮へ髪へ触れた。ブルーベルは玉ねぎ臭い手で髪を触るMの手をぎゅうと掴んだ。すると、妙に自分より冷たいMの体が心地よくて目を閉じてしまった。泣き疲れたせいか、白蘭がMの指を買ったことも、Mが憎い存在であったことも忘れてしまうことも、もうどうでもよくなっていた。

 「こんなに大きなダイヤ、使えないから返してくるわ。」

 小さな声でMはブルーベルに耳打ちした。薬指だけじゃあ髪の毛はうまく結えないのは自明のことだった。ブルーベルはそんなことにも気づくことなく夢の中だった。そう、彼女の指であの青く染まった髪の毛を結っているあの夢を。本当はMと白蘭、同じぐらいブルーベルは好きだったのかもしれない。

妬ましくも愛しいその指先
20100429 そらまめ


ルージュは要らないさんへ提出いたしました。


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