∴胸がほくほく
結局、香織はあの後、大成の家の匂いが忘れられず眠りに付けなかった。
いつもは厳しい上司に、しかも好きな相手に、普段見れない優しさに触れて、浮かれない女はいるのだろうか。香織の頭の中は大成でいっぱいだった。
「ますます惚れちゃうじゃないですか
...」
香織は昨夜のことを思い出す度に、熱くなる顔を隠せなかった。
**
二日酔いを引き摺りながらも、香織はいつも通り出勤した。誰よりも早く出勤する大成と少しでも会いたいと思い、香織は毎日早めに出勤している。これを友人に話した時は「よくそこまで出来るよね…」と呆れ半分に言われたものだ。いつも通りの時間につき、いつも通り自分の課へと向かう。そうして、いつも通り仏頂面の大成がデスクに座っていた。
「あっ…お、はようございます」
「…あぁ、おはよう」
ただ、いつもと違ったのは、少しだけ、大成の刺々しさが和らいだことである。これは、香織の中ではとても大きな進歩だった。
「(少しだけでも、視界に入れてもらえたらいいな...)」
香織は荷物をデスクに置いて、
「あの、大成さん、えっと…飲み物、どうですか?」
「ああ、頼む」
二人きりの時間、香織にとっては最大のチャンスだった。精一杯のアピールをして、少しでも気に入ってもらおうと今日も気を利かせていた―が、それは一つの声によって阻まれる。
「やっほー香織ちゃん」
「えっ、山本さん?」
山本が現れた途端、大成は眉を寄せてため息をついた。
「ごめんね。昨日は飲ませすぎちゃった。大成に任せちゃったけど、大丈夫だった?手とか出されてない?」
「少なくともお前ではないから平気だ」
「お前潔癖だし、酷くあしらったりとかしてないよな?」
山本のその言葉を聞いて、香織は慌てて首を横に振り、否定した。
「いえ、本当に大成さんにはお世話になりました…」
山本はそんな香織の表情を見て、意外そうな顔をした。
「へぇ…大成はてっきりまだ女の人とか駄目なのかと思ってたんだけど」
「えっ…」
「誤解をまねくような言い回しをするな」
「ごめんって…俺、香織ちゃんに無理に飲ませちゃったの誤りに来ただけだから、もうそろそろ帰るね。お邪魔したよ」
山本は飄々と去ろうとして、思い立ったように振り返り、香織に耳打ちする。
「今度、お詫びに何か御馳走させて。…大成の昔話、聞きたいでしょ?」
山本はいたずらっぽい笑みを浮かべてそう言った。思いがけない申し出に戸惑いながらも、はい、と香織は答えた。すると山本は満足気にじゃあねと手を振り、鼻歌交じりに去っていった。
「おい」
「は、はい!!」
「…早く茶を入れてくれ」
「あ、すみません!今淹れます」
香織は、不思議とワクワクしていた。大成の過去はどんなだったのだろう、と。
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