06


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 蝶子が三歳になった時、異変が現れた。真夏にも関わらず、蝶子を起こそうと部屋に向かった時、ベッド一面に蝶子を綺麗に囲んだ桜の花びらがあった。秀臣は不思議に思い桜の花びらを手に取ると、指に鋭い痛みが走り思わず花びらから手を離す。花びらをつまんだ人差し指から一筋の血が流れていた。
「どういうことなんだ…」
「秀臣さん、どうかしたの」
 朝食を用意していた梓は、蝶子を起こすのに時間がかかっている秀臣に痺れを切らして自ら部屋まで来ていた。
「まあ、どういうことなの?」
 蝶子を囲む桜の花びらと、指から地を流す秀臣とを交互に見て梓は尋ねた。
「おそらく君が飲んだアビリティドロップは、君ではなく―蝶子を選んだんだ」
 血を抑えながら秀臣は告げた。梓は信じられないというような表情で眠っている蝶子を見た。安らかに夢を見ているその少女は、能力者として生きることになるのだった。
 秀臣は直ぐに研究室に出向いた。
「君の娘さんが、超能力を持って生まれたみたいだね」
 嬉々として語るのは、アビリティドロップを梓に飲ませた張本人、八乙女だった。何処から情報を得たのかと、秀臣はぞっとした。
「どうだい?君の娘を僕に研究させてくれないか」
 ニヤリと口角をあげて八乙女は言う。秀臣は目もくれずにその場を立ち去ろうとした。
「つれないねぇ。まあ、アビリティドロップはもう既に各国に秘密裏に売買したから、時期に新しい研究材料が入るからいいけどもね」
 秀臣は一度だけ振り返って八乙女を見た。睨む訳でもなく、憐れむわけでもなく、ただ無表情で八乙女を見つめた。直ぐにまた向き直って歩き出した。
 アビリティドロップは既に外交の一部として様々な国に渡され、各国数十人ずつにアビリティドロップを飲ませる実験を行った。被検体自身が能力を持った例は少く、後は何も起こらなかったり、生まれた子が能力者だったりということが多かった。
 秀臣は研究員から情報を集めると、直ちに国連で働きかけた。まず能力者を各国一人ずつ集めて平和維持のための裏組織UN-0を作った。これは超能力者が非超能力者を支配しないようにするためでもあり、非超能力者が超能力者の人権を侵さないようにするためでもあり、尚且超能力で世界平和を作り上げるためでもあった。正義感の溢れるエージェントを育てることで、彼ら自身を正義で縛り、セカンドエージェントを筆頭とするその他の能力者を縛る。完全に能力者を守り、非能力者を守り、世界を守る組織が出来上がった。
 この時、蝶子が五歳の時である。

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 東京にある市立病院で、癌に伏せる梓の姿があった。すっかり痩せ細り、凛とした百合はこうべを垂れて最早見る影もなかった。秀臣は、この癌はアビリティドロップによる障害なのではと疑った。
 秀臣は蝶子が見舞いに来ない時間を見計らって病室へと足を運んでいた。
「すまない…」
 梓の手を握りながら、ベッドの傍らで秀臣は頭を下げた。梓は柔らかく笑って秀臣の手をすっかり衰えた力を懸命に込めて握り返す。
「いいの。蝶子を守るためには、そうするしかないのよね」
 梓は秀臣から顔を逸らして、天井を見つめて言った。
 秀臣は蝶子を守るために最愛の妻と蝶子のもとから離れ、国連に従事するとになった。UN-0の司令官として職務を全うするために。
 梓はそれを聞いて、何一つとして秀臣を責めることはなかった。ただ静かに微笑み頷く。
「蝶子が大きくなるまでは寂しい思いをさせるでしょうけど…あの子は貴方の子だもの。強い子だから、きっと大丈夫。貴方が傍にいなくても、きっと立派に正義を貫ける女性になるはず」
「ああ…」
 秀臣は小さな声で相槌を打った。
 ―来る日まで、自分は蝶子にとって最低な父でいなけらばならない。
 秀臣の胸はチクリと痛む。出来ることなら、三人で家族らしいことをもっとたくさんしたかった。目が潤むのが鬱陶しい。
「幸せでした」
 梓は痩せこけた頬を緩ませて微笑む。
 ―心拍数はそこで、途絶えた。この時、蝶子は八歳だった。

  **

 室柩研究所では、秘密裏に人間を造る研究が行われていた。研究所の地下四階にある第零研究室で、梓の細胞を使ってクローンを造る研究が行われていた。勿論、この研究は秀臣には伏せられていた。研究は成功した。出来上がったのは十何歳ほどの少女だった。梓にそっくりの少女は絵理子と名付けられた。彼女は飲み込みが早く、言葉を覚えて直ぐに義務教育課程を終えた。彼女の希望でドイツへと向かう事になり、やがてローゲンと結婚した。
 秀臣がこのクローンの事実を知ったのは、ローゲンがUN-0へとやって来た時だった。


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