05

 滴る汗は襟元を濡らし、照りつけた太陽の熱と光を反射するアスファルトの上を、男は人混みをかきけながら歩いていた。男の名前は漣秀臣という。彼は二十九歳にして、国を代表して国連で働くほど有能な人物だった。彼はしきりに溢れる汗を拭いながら、ただただ蒸しかえるビル街を抜けタクシーを止めた。
「すまない、室柩(むろひつぎ)研究所まで向かってくれ」
 彼の目的地は、日本有数の生物研究所だった。彼は国連に務める傍ら、研究者としてここに通っている。タクシーは小一時間で研究所に着いた。校外の山に囲まれ薄暗く閉鎖的な研究所で、広がる緑にぽつりと灰色のコンクリートが酷く目立つ。
 彼は研究所に足を踏み入れた。
「遅かったじゃないか秀臣!」
 そう言ってづかづかと足音を立てて近づいて来たのは、秀臣の幼馴染みの海道武史(かいどうたけし)。眉が太いのが特徴的で、笑った時に見せる歯は極めて白い。海道は秀臣の方を掴み、にっこりとその白い歯を恥ずかしげもなく晒し出す。
「新しく研究員に入った女の子がこれまた綺麗なんだ!早く来てくれよ」
「なんだ、騒がしいと思ったらそんなことか」
 秀臣は呆れて溜息をこぼした。
「そんなことじゃないぞ!あ、噂をすれば」
 海道が顔を向けた先に、小柄でくっきりとした目鼻立ちさ女性が凛として立っていた。
 ―胡蝶蘭のようだ、と秀臣は見惚れていた。
「初めまして。今日から漣先生の研究チームに配属されました堀田梓(ほったあずさ)です」
 声は鈴のように可愛らしいながらも、しっかり通つ強さもあった。秀臣は求められて握手を交わし、よろしくと声をかけた。
「な、美人だろう?」
 海道はすかさず秀臣にそう言った。秀臣は耳に入らないとでも言うように呆れ顔で無視をした。

  **

 彼女が研究所に来てから半年が過ぎた頃、別の研究チームが始めた研究が完成に近づいているとの報告が入った。秀臣は報告を受けてその研究チームへと足を運ぶ。
 ―第十六研究室。室柩研究所の二階、北側の一番奥に置かれたその研究室はひっそりとしていた。人通りのない廊下は酷く閑散としていて、空調設定はどの研究室も変わらないはずであるのに、不思議と肌寒さを感じるほどだった。秀臣はノックをしてスライド式のドアを開ける。
「第三研究チームの漣だが、研究の事について少し見学させてくれ」
「お待ちしておりました漣さん」
 すぐに研究チームの男の若手研究員が秀臣に近寄ってきた。薄らと寒い研究室の中は、ずらりと並べられた白いベッドに眠る人間で溢れていた。
「これは…?」
 ぎょろりとぎこちなく目を動かして尋ねる。
「私が説明しようか」
 上質な革靴を鳴らしてやって来たのは、ここの研究チームのリーダー―八乙女二郎(やおとめじろう)だった。彼は真っ白な頭を掻きながら、丸眼鏡の下で不気味に目を細めた。
「彼らは研究所の人間さ。この研究計画を聞いて、喜んで被検体になってくれたよ」
「一体貴方は何をしようとしているんですか、八乙女先生」
「漣くん。超能力に興味はあるかい?」
「超能力?」
 秀臣は眉を潜める。
「僕はとても興味があってね。超能力者というものをいつか創ることが夢だったんだ。その夢が、もうそろそろで叶うんだよ!」
 八乙女は子供のように目を輝かせて垂れた瞼をめいいっぱい開く。ぞっとするほど無邪気な笑みを浮かべている。
「君の研究チームの堀田君だったかな?彼女にも血液を分けてもらったんだ。アビリティドロップと呼ばれる、その人物が持つ能力のポテンシャルを引き出して超能力者にする薬があるんだが、その薬と彼女の血がとても相性がいいことが分かってね…彼女にアビリティドロップを飲ませてみたんだ。」
 八乙女はニヒルな笑みを浮かべ、アビリティドロップと呼ばれる緋色の錠剤を取り出す。一見すると普通の市販薬だ。
「彼女に、何て勝手なことをしてくれたんだ!」
 秀臣は耐えきれず怒鳴った。青筋を立てて震えている秀臣を前に、八乙女は笑っている。
「彼女が協力してくれると言ったんだ。ちゃんと僕は許可を貰ったんだよ、本人にさぁ」
「何だと!」
「でもねぇ、あんなに相性が良かったのに、なかなか能力が出て来ないんだよ」
 今度は眉と口元を下げて八乙女が言う。秀臣はいても立ってもいられなくなり、研究室を飛び出した。
 ―何処だ!何処なんだ!
 秀臣は、梓を探して走った。息が乱れて苦しくとも秀臣は走った。
「梓くん!!」
 第三研究室のドアを蹴破る勢いで開けて梓を呼ぶと、探していた人物が目をぱちくりさせて驚いてこっちを見ていた。
「大丈夫なのか、君は」
 彼女に大声をあげそうな興奮した気持ちを押さえ込んで、低くそう聞いた。
「八乙女先生から聞いたんですね…」
「得体の知れない薬を、大事な僕の研究チームのメンバーに飲んで欲しくなかった。なんて軽率な行動をしたのか…」
 秀臣は手で顔を覆う。噛み締めた唇が腕の下に見えた。
「私が被検体となって成功すれば、あの不気味な研究に巻き込まれる人が少なくて済むと思ったんです…確かに先生のおっしゃるように軽率な行動でした。申し訳ありません」
 鈴が揺れたような声だった。秀臣は思わず彼女を抱き締めた。
「もういい。君が無事ならそれでいい」
 彼女の芯の強さに折れた秀臣は、ただ暫く彼女を強く抱き締め離さなかった。

  **

 やがて梓と秀臣は結婚した。その翌年には子供にも恵まれた。生まれた女の子には、蝶のように凛と舞ってほしいと、"蝶子"と名付けられた。
 ―ここから、悲劇が始まった。


prev / しおりを挟む / next

back
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -