02

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 ぼんやりと薄暗くなった夕暮れ時に、蝶子は一人廊下を歩いていた。蝶子の表情は硬い。
「よお蝶子。どうしたんだよ、暗い顔だな」
 正面から歩いてきたウィリアムが蝶子に話しかける。
「…えぇ、実は、マキュールさんがガブリエルさんのことを忘れてしまっているみたいで…」
「それ、本当か?」
 ウィリアムは驚きを隠せずに尋ねる。
「ええ。マキュールさんの意志とは別のところで、ガブリエルさんを忘れることによって傷つくことから回避しようとしているみたいで…」
「大切な人を失う悲しみ、か」
 ウィリアムはしみじみと呟く。
「ウィリアムさんは、大切な人はいますか?」
「俺か?俺は…」
 トムは大切な友達であった。しかし、彼をウィリアム自身の手で殺めてしまった。現在のウィリアムは蝶子のことを大切な人だと思っているが、本人に言う勇気がない小心者の自分に内心呆れている。
「俺は、ここのみんなが大切だ」
 ウィリアムは当り障りのない返答をする。
「…私もです」
 蝶子も微笑みながら同意した。
「俺には本当の家族はいなかったけど、一般的には家族とかも大切な存在なんじゃないか?蝶子もそうだろ?」
「私の母は、もう亡くなってしまったのですが…今でも、大切な存在です」
「…父親は?」
「私が八歳の時に、家を出て行ったきり…。母が亡くなるまで、いよいよ家には帰ってきませんでした。仕事人間だったので」
 蝶子は目を伏せるようにして言う。
「言いにくいこと言わせたな、ごめん」
「いえ。でも私、父のこと尊敬していたんです」
「帰って来なかった父親を?」
「私と母を置いて行ってしまったことは、今でも恨んでいます。ですが、父は仕事ができる人でしたから」
「何の仕事してたんだ?」
「研究機関で研究をする傍ら、国連の職員として働いていました。何の研究をしていたのかまでは教えてはもらえませんでしたが、平和に関する仕事だ、と言っていました―私はそんな父が誇りでした」
「へぇ。凄い人だったんだな、蝶子の父親は」
「ええ」
「待てよ、国連の職員だとしたら、もしかしたら…」
「会えるかもしれない、ってことですか?」
「あぁ。会おうと思わねぇの?」
「…今更会っても、私のことを覚えているか分かりませんし、父には父の新しい家庭があるのかもしれませんから」
 ウィリアムははっとする。この前ウィリアムがローゲンの電話を盗み聞きした時のことを思い出す。ローゲンの上司と思われる人物との会話に、蝶子の名前が出た事を。
「蝶子、お前の父親、国連で働いているんだよな?」
 ウィリアムは蝶子の肩をがっしりと掴みながら吠えるような声で尋ねた。
「え、はい」
 蝶子はいきなり慌て始めたウィリアムに揺すられ、困惑しながらも頷いた。
「お前の父親、俺たちと近いところにいるはずなんだよ!」
 二人が立つ廊下にウィリアムの声が響き渡る。
 二人だけが立っているはずの廊下の曲がり角には、一つ影が落ちていた。


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