剋O日月と爪

男は爪を切っていた。不器用と評判のその手の、垢だらけで黒ずんだ爪を切っていた。時刻は夜中の十一時に差し掛かっていたが、男は眠気を見せることなく、ただその黒ずんだ爪を切って、時折、爪切りの中に溜まった爪をゴミ箱へと落としていた。夜中に爪を切ると親の死に目に会えないという迷信も、心底この男には興味のないことだと思われた。国道を走る車の音と、買ったばかりの時計の音との中に、爪を切る音が毅然と居座っていて、私はこの男の動作に、無類の心地よさを感じた。人の無を感じた。生を感じた。それを感じさせる程、目の前の男が普通の人間であったのである。

男は一通り爪を切り終わると、ゴミ箱に切った爪を捨てて、一つあくびをした。私は先程から窓際に座って、男の動作と、夜空にぼんやりと光を広げる三日月とを、交互に眺めていた。今日の月はぼんやりと柔らかい光だった。はっきりと姿を表す満月より、私はこういう月が好きだ。

「眠くなったのかい」

「まあね」

「今日は三日月だよ、ご覧」

私は男に月を見るように促した。天文学に興味がある私にとって、月はとても興味深いものだったが、この男はどうもそういった浪漫が分からないらしい。だから、こうして促してみても、「うーん」とどっちつかずの返事をするだけで、結局空を見ようとはしない。

「こんな月は今日だけかも知れないのに、勿体無い」

この男とは長い付き合いとはいえ、少しムッとしたので、毒を吐くように言った。男の反応が気になって、私は月から目を離して男を見た。気にしている様子はない。コイツはそういう男だ。

「…俺はなぁ、芳雄」

男が私を呼んだ。ん、とだけ返事をした。

「月を見ているうちに、過ぎていく時間がどうも苦手なんだ。人間って時間に縛られてる生き物だろう?だが、月を見てると時間を忘れる。時間を忘れると、生きてる意味も忘れる気がする」

私には信じられなかった。この男は、こんな真面目な話をする程冴えた人物であっただろうか。否、そんなはずはない。五歳で知りあった時から早二十年経つが、この男がこんなに哲学的なことを言うことはなかった。哲学的なことを言うのは、いつもと言っていいほど私の役目のはずだった。

「急だね。びっくりしたよ」

「そうか。そりゃお手柄だ。アンタが驚く事はそうないからな」

「でも、どうしたんだい、いきなり」

「さあ、自分でも分からんよ。なんだかそう思っただけだ」

「ふぅん」

私はまた月に目を向けた。丁度月に雲が被って、灰色のベールに包まれた貴婦人のように妖艶な、ぼやけた細いシルエットが、そこにはあった。

「確かに、月を見ていたらもうこんな時間だ」

時刻は十二時を回っていた。

「月を見て綺麗だと思ったり、苦手だと思ったりするのは、人間だからだよ。僕は前者だけど君は後者だ。意見に差異はあれど、人間の感情には変わりはない。君も僕も、人間だ」

「そうだな」

「そうさ」

男は控え目に月を見やった。この男にとってこの月がどう映っているのかは分からない。だけれど私は、この月には、見た人の人生そのものを表している気がした。

ふとゴミ箱の爪を見る。黒ずんだその爪の破片たちは、雲に覆われた今日の三日月のように、その男を表していた。

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