刳まわしき夕陽

僕は、紅に染まるこの空の下で、人と別れて一人で歩く帰り道が嫌いだ。さようなら、という響きが嫌いだ。何もかも、終わりのような気がして。

僕は、時々保育園まで迎えに来てくれる、少し年の離れた兄と手を繋いで帰る時間が好きだった。道端に落ちてる煙草の吸殻をみて、「あ、べべだ!べべ捨てるなんて悪い人だ!」と、煙草をべべと呼んで言っていたのを思い出す。兄は優しく微笑んでくれた。当時野球をしていた兄の逞しい手で、頭を撫でて貰えることが嬉しかった。休日、よく兄に付いてまわって遊んだ。よく一緒にいるものだから、兄の友達とも仲良くなった。今思うと、鬱陶しかったであろう僕の行動に、嫌な顔せず優しくしてくれた兄に申し訳なさを感じる。僕がもっと聞き分けのある子供だったら、兄の自由な時間はもっとあったはずだ。僕に構ってばっかりで、恋愛もろくに出来なかっただろうに。

そんな兄は、僕が小学校の高学年の時にはもう高校の卒業を迎え、就職先である東京に行ってしまうことになった。ここの家の最寄駅から、電車を乗り継いで四時間ほどの場所らしい。会えない距離ではないが、それでも遠い距離だった。仕事となれば、大きな休みや連休中にしか帰って来られないだろう。僕は、少し寂しかった。
兄を見送る時間になった。兄は大きなボストンバッグを持って、新品のスーツを着て、晴れやかな笑顔を見せていた。両親はそんな兄に、「お金を使いすぎないようにね。」、「外食は控えて栄養のあるものを食べなさい。」など、口を酸っぱくして言っていた。その両親の顔は、寂しそうで、立派になった我が子を慈しみ、誇らしげであった。僕はそれを横目に見ながら、兄のボストンバッグを眺めていた。ボストンのチャックには、先日僕が渡した御守りがついていた。僕は、なんだか泣きそうになった。目の下に水滴が溜まってもぞもぞと視界で動くのを、必死にこぼれない様に我慢した。
もうそろそろ兄の乗る電車が来るらしかった。両親が心配げに口うるさくしているのを振り切って、兄が僕の方にやってきた。兄は身長が高いから、僕の身長に合わせて屈みながら言った。
「兄ちゃんもう行くけど、ちゃんと学校頑張れよ。兄ちゃんいないから、お母さんのこと手伝ってやるんだぞ?」
兄の言い回しが、何処かもう会えない場所に行ってしまいそうなものだったから、僕は耐えきれずに涙を零した。そんな僕をみて、兄がふっと微笑む。昔帰り道にしてくれたように頭を撫でて、
「心配するな、盆にはまた戻ってくるから」
そう言って立ち上がり、ボストンバッグを手に、じゃあなと手を振った。兄は両親にも別れの挨拶をすると、改札の向こうのホームへと向かっていった。僕は滲ませた涙ごしに、兄の背を見ていた。僕もあんな男になりたいと思った。

その日の夕方だった。確か、夕方の六時頃で、もう兄は東京に着いたかもしれない時間帯だった。一つの電話が家に鳴り響く。両親は家にいなくて、僕がその電話を取らなければならなかった。電話が苦手な僕にとっては、その受話器は重い物だった。渋々何コール目かに受話器をとって、もしもし、と言った。
『○○警察署ですが、石山輝也さんの御家族の方ですか?』
輝也は兄の名前だ。警察からの連絡で、しかも兄の名前が出てきたことに驚いた。兄が何かしたのだろうかと不安になりながらも、
「はい、そうです」
と返答した。
『今、ご両親は家にいますか?』
「いえ、今家にいませんが・・・よければ僕が用件をお伝えしましょうか?」
『落ち着いて聞いてください、石山輝也さんは―』

受話器が重かった。受話器じゃなくて自分の身体が重くなったのかもしれない。―冷静に考えれば、兄は警察に捕まるようなことする人じゃないことなど分かりきったことだった。じゃあ一体どんな用件だ、なんてことは予測がついたはず。いや、その頃の僕はまだ小学生だ、悟ることなんて知らないし、理解するのにも時間がかかる。そう、〃兄が死んだこと〃も。

―兄の乗っていた列車は、途中で横転したらしい。車体は酷い有様で、兄だけでなく、沢山の人が死んだらしい。母親も父親も、悔しそうに嗚咽しながら、傍から見ればみっともない様子で泣いていた。涙でぐしゃぐしゃで、兄の凄惨な遺体を目の前に崩れ落ちて泣いていた。僕は、ただただ兄の遺体を見て、呆然と立つことしか出来なかった。兄の身体は冷たくて、綺麗にされていても傷だらけだった。兄は、お守りを持ったまま死んでいたと聞いた。死後硬直で固く閉じられたその手の中から、御守りを取り出すのがやっとだったらしい。兄がこんなことに遭わないように渡したものなのに、何故、兄は、―・・・。
僕がその現実を理解し、受け入れるのに時間を要した。

もう何年経つのだろう。あの時の夕陽に包まれた部屋の光が、酷く憎かった。あの紅が肩に重くのしかかって剥がれてくれない。あれからというもの、夕陽が憎くて嫌いで、切なくなる胸を切り裂きたくてしょうがなかった。あの色に染まる中で、目の前の相手にさようならを告げられると、もう会えない気がして、嫌いな瞬間だった。何処かで聞いた、〃別れる前に気をつけてねというと、その人が事故に遭う確率が低くなる〃という知恵を頭の隅に、友達や親しい誰かと別れるときは必ず口にした。
僕はどこかで、兄がひょっこり帰ってくるような奇跡を期待していた。あの兄のことだ、また何でも無かったように帰って来て、「今日の晩飯は?」なんてことを言うに違いない。―何年経っても、そんなことは起こらなかった。起こるはずない、そう分かっていた筈なのに、僕にとっては受け入れ難かった。

やがて僕は、高校生になった。兄がいない事でぽっかり空いた胸の穴が塞げず、心から笑う事も出来ず、友達も殆んどいないに等しかった。学校が楽しいとは思えなくても、毎日休まずに通った。兄が出発前に言った、『学校頑張れよ』が忘れられなくて。休日は、夕陽を見なくて済むように、部屋のカーテンを閉めて電気をつけて、ひたすら引きこもっていた。両親はそんな僕を見兼ねて、海に行こうと提案した。昔、家族みんなで行っていた馴染みのある海岸だった。あまり気は乗らなかったが、両親が貴重な休みを使って連れて行ってくれるのだから、申し訳なくて断れなかった。

海は相変わらず綺麗だった。夏の終わりの日差しが反射して、僕の目を眩ませた。昼間の海だから、子供が沢山いて、楽しそうに声をあげてはしゃいでいる。―昔を思い出す。僕は、兄が僕を背に乗せて泳いでくれたことを思い出していた。あの時は底の見えない海が怖くて、泳ぐ事が嫌いだった僕に、海の楽しさを教えてくれた兄。思い出すたびに思い知らされる、もう兄はいないと。僕は、子供たちの楽しそうな表情から目を逸らすように、白い砂浜を見つめた。
『ここに埋めておくから、兄ちゃんみたいな年になったら、掘り出して中を見るんだぞ』
もう一つ、大切な思い出があった。この海の隅っこの浜辺、そこにタイムカプセルを兄と埋めた。今も手をつけられていなければ、ちゃんとあるはずだ。僕は、夢中で埋めた場所まで走った。足の裏に突き刺さる貝殻やガラス片なんてもうどうでもよかった。早く、早く―・・・。

朧げに記憶に残る場所を夢中で掘り続けた、ただ時間が過ぎていくのも忘れて。大嫌いな夕陽が現れるのも忘れて。遠くで両親が呼んでいることにも気付かずに。
爪の間に入る白い砂が痛かった。気にせず掘り続けると、手につるつるとした瓶の感触が現れる。砂を払って、持ち上げる。間違いなく僕と兄が埋めたものだ。瓶の蓋を開けると、少し傷んだ紙の封筒が二つ出て来た。一つは幼い僕が兄に宛てて書いた手紙、一つは兄が僕に宛てて書いた手紙だった。書いた内容などはとっくに忘れていたが、覚えたての汚い字で書いた記憶だけはあった。少し躊躇いながら、僕が書いた手紙を開けて読む。『おにいちゃんはぼくのひーろーです。』、記憶通り汚い記号みたいな字だった。次に、兄からの手紙を開ける。『拝啓、侑希様。もう、大きくなっているだろう。成長した君に、言っておきたいことがあります。実は、僕は孤児で、君の両親に養子縁組で引き取られた人間です。僕は侑希とは血の繋がりはありません。でも、僕にとって両親と君はとても大切な家族です。君の家に引き取られたこと、神様にとても感謝しています。侑希のことも、父さんや母さんも大好きです。もうこれを見ている頃には、兄ちゃんは家を出て働いているだろうけど、いつでも困った時はいいなさい。力になるよ。離れていても、兄ちゃんは君の傍にいる。若さは取り戻せないから、一分一秒を大切に、一生懸命過ごしてください。血は繋がっていなくとも、遠く離れていたとしても、僕は君の幸せを願っています。 敬具 輝也』。
僕は、息すら出来なかった。喉につっかるような苦しさがあった。血の繋がりがないのは薄々気付いていた。けれど、血の繋がりのない僕にあんなに優しくしてくれた兄が、僕には理解出来なかった。涙が溢れて手紙を満遍なく濡らした。あの日の両親のように、みっともなく嗚咽を洩らしながら泣いた。

落ち着いた僕は、両親の待つ車へと戻った。目を腫らして瓶を抱える僕に、両親は何も聞かなかった。ただ静かに、帰ろうと声をかけた。僕は無言で頷きながら、車に乗り込む。後部座席の窓から差し込む夕焼けは柔らかかった。だけれど、やはり僕を切なくさせた。車で揺られながら、くしゃくしゃになった手紙を何度も読み返した。〃血は繋がっていなくとも、遠く離れていたとしても、僕は君の幸せを願っています〃。これが本当なら、兄は僕を見守ってくれているのだろうか。―僕はまだ何も返してないのに。兄のために僕が出来ることはなんだろう?
「ねぇ、父さん、母さん」
「どうしたの?」
母親は助手席から、顔を後ろに向け、僕を見た。
「兄ちゃんのために、僕は、何ができる?」
両親は視線を一瞬合わせてから、母親が再び振り返る。
「あんたが、一生懸命生きることよ」
その言葉は、僕の胸に出来た穴にじんわりと広がった。


やっぱり夕陽は僕を切なくさせる。だけど、あの時の暖かさを取り戻すための、確かな一歩を踏み出せる気がした。

back
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -