僕の使命はアルヴィン、貴方を殺す事です

暖かな日差しが差し込む窓辺から中庭を見下ろしながら本日の授業が終了するチャイムを聴く。数分も経てば中庭は生徒達の賑やかな声に溢れ、学校内に建てられた寮へ生徒達の半数は移動して行く。
 今日は何事もない普通の日だった。否、今日もが正しいのだろう。
 富裕階級の子息が集い、知力、体力、才力が優れた人間のみが入学を許される全寮制の学校は他所からの干渉を受けず平和に始まり、平和に終わる。
 この危険から遮断された空間は理事長ガイアスを筆頭に校長のローエン・J・イルベルト、その二人より選ばれた優れた教師が守り平和を維持している。この均衡は決して崩れる事はなくこの暖かな温室で彼等は育ち世界へと輩出される。

 この学校に教師として赴任したのは三ヶ月程前の事だった。しかし俺はこの危険から掛け離れたこの学び舎にそぐわない命令を受けていた。
『あの学校へ通う、ターゲットを始末しろ』
 俺の叔父にあたるジランドール・ユル・スヴェントと取り引きを交わし俺はこの学校に通うターゲットを殺害する為に放たれたスパイだったのだ。防衛は万全と言えど中に忍び込んでしまいさえすれば温室で過ごす子供を始末する事なんか赤子の手を捻るように容易いと思っていた。
 しかし赴任してみれば、そのターゲットは半月前に別の学校へ転校したという情報を得たのだった。あの優秀と讃えられているジランドがそんなミスをするだろうか、もしや取り引きなんて始めからする気がなく俺を陥れようとしているのか――そう思うとジランドの元へ帰る足は鈍り気がつけば三ヶ月の月日が経過していた。
「アルヴィン先生。さようなら」
「あぁ、部活に遅れるなよ」
 スパイとしての仕事を放棄して俺はアルヴィン先生と呼ばれこの学校に勤めるのが日常となっていた。そもそも俺はジランドから言い渡される汚れ仕事をやめる代わりに最後の仕事としてこの学校にやってきたという経緯を考えればこれで良いのだと考えるようになった。ただし、俺の要求はもう一つありそれが果たされないと思うと苦渋の決断ではあったがジランドの策略の為に手を汚す事はもうしたくはなかった。
 だからこれでいいんだ、そう思って教職者として過ごす事を選び歩き始めた。
 一度手を汚してしまった罪の代償を払わないままに――。
 生徒達が部活や帰寮するのを窓辺から見届け、教室の施錠をして自分のデスクがある準備室へと向かう。準備室は実習棟にあり教師一人一人に与えられていてスパイとして潜入した時は何かと都合が良かったが、いざ教師として過ごしてみると実習棟と教室棟の行き来の面倒臭さが好きにはなれなかった。
「アルヴィン先生、今よろしいですか? 今度の学校交流なんですが……」
「大丈夫だ」
 授業が終わればこうして生徒の面倒を見る事も多くなり、それがわずか三ヶ月の間に俺の日常として定着していた。富裕階級の子息ばかりが集められたという事もあり礼儀正しくスパイの俺を何の疑いもなく教師として敬愛される日常はジランドの元に居た頃よりも遥かに心地よいものだった。
「――んな感じで……わかったか?」
「はい! 大丈夫です。ありがとうございます、アルヴィン先生」
 質問に来た生徒は俺が説明し終わるとそう言って会釈して教室棟の方へ向かって行った。俺は振り返った足を中庭に向け緑々しく生い茂った芝生に足を踏み入れた。休憩時間や登下校時間には多くの生徒で溢れかえるこの中庭も今は誰も居ない様で閑散としていた。
 今日も何事もない普通の日だった、と安寧の言葉を呟き中庭をゆっくりと歩いている時の事だった。何処からか痛い程の殺気が向けられている感覚に陥った。
 向けられた殺気の元を探るように周囲を見回すがそのような人物はいなかった。その代わりに中庭の先の方から子供が一人俺の方へと向かって歩いて来ている。殺気の主はこいつかと思い浮かべたが十五歳ぐらいの子供が放つ殺気とは思えなかった。
 しかし俺の方に向かって来る子供の衣服はこの学校の制服ではなく紺色のセーターに赤いチェックのスラックス――内部の人間ではない事は明確だった。
 俺が惑っている間にもその子供は俺との距離を縮め、俺に向かって真っすぐに歩いて来る。転校生が迷子になっているのかもしれないと考え、警戒しながらその子供に近づくとその子供はいきなり拳を俺目掛けて振るった。
「――様の命令で始末します――」
「おい! 待て!」
 その拳を掴み対話に持ち込もうとしたが、子供の足蹴りが来るのを視界の端で捕らえ捕まえた腕を離し距離を取る。
「ジランドール様の――で始末します――」
「ちっ」
 言葉がまったく通じない事に苛立つが、こんな状況を他の人間に見られでもしたら俺の新しい日常を失ってしまう事は明確だった。しかもこいつは、確かにジランドの命令でとそう言ったのだ。
 どうにかしなければいけない、しかし相手は俺より十歳は下であろう子供だ。混乱した頭では考えようにも結論を出す事が出来ずその間にも子供は俺との間合いを詰めて来る。
 しかし運が良い事に子供は丸腰で武器一つ持っていなかった。丸腰なのは俺も同じだが対格差では俺の方が有利なのは明らかだった。
「ジランドの差し金の癖に丸腰とはなっ」
「武器は入り口でローエン・J・イルベルトを名乗る人物に押収されました」
「ローエンだと!?」
「しかし僕はジランドール様の命令で貴方を始末しなければなりません」
 ようやくこの子供から聞き出せた言葉は俺を悩ます要員を増やす事にしかならなかった。ローエンが武器を押収した上でこの学校に入校を許したという事、武器を取られても命令を遂行する為に俺の元へやってきた事。
 全ての事が不可解だった。
「無駄話はジランドール様に許されていません、貴方を始末します」
「くそっ……! どうなってんだ!」
 まるでその命令を果たすための道具のように行動するこの子供は外見にそぐわず強力な技で俺を圧倒し追いつめようとしている。防戦一方の俺はこの状況を脱するにはやはり対格差で捩じ伏せるしかないと思い子供の隙を探した。
 繰り返される攻撃を避けつつ、俺に目掛けて振るわれる拳と足を掴み身体の支柱となっている片方の足を蹴ると子供はバランスを失ってわずかによろめいた。その隙に子供の身体を突き飛ばし倒れる子供の上に乗り攻撃を止める事になんとか成功した。
「……これでもまだ俺を始末するって言うのか?」
「離して下さい、ジランドール様の命令を遂行できません」
 攻撃を止める事は出来たが、その程度では子供の意思を折る事はできなかった。
 俺はこんな子供がジランドの周辺に居たかと疑問に思い、目を覆う前髪を掻き分け顔を見ようと子供の顔に触れた。
「なんだ……こいつの目は……」
 子供の目は虚ろで心が此処にはないと思わせる程に焦点が合っていなかった。普段子供の輝かしい生き生きとした眼差しを受けている俺から見たら十五歳前後の子供がするような目ではなかった。
「離して下さい、ジランドール様の命令が遂行できません……離して下さい……!」
 まるで機械人形のように同じ言葉を繰り返す子供に生を感じる事が出来ないが組敷いた子供の身体は確かに暖かく、脈を打っている。機械人形でもない普通の人間のはずなのにこの子供からは人間らしさを感じる事はできなかった。
「命令を……遂行します……」
 俺の下に居る子供が急に呟き、俺のネクタイを引っぱり俺の身体が僅かに前のめりになった瞬間に子供の手は俺の首に伸び息の根を止めようと力を込める。俺へ伸びた手を阻もうと子供の腕を引っ張るがその手が俺の首を離さない。
「っく……!」
「ジランドール様の命令で始末します――」
 死んだような目で俺を見ながら子供は再びそう呟いた。
 たしかにこのままじゃこの子供の言う通り始末されてしまう。俺は子供の腕と胸部に力を込めて腕を振り切ろうとすると子供の胸部の服の装飾ではない異物に指先が引っかかった。
「うあああああっ!」
「何だ?!」
 子供は急に叫び出し頭を抱え地面を転がった。
 その表情は苦しそうで、叫び声は止まる事なく中庭に谺した。そしてその叫び声が静まると同時に子供は意識を失い眠るように静かになった。
「何なんだこれは……」
 あまりにも急な出来事に頭は混乱しその場に立ち尽くす。脳内に数多の疑問が浮かび上がるがその答えは見つかる事も無く俺の行動を静止させた。
 地面に横たわる子供の上半身を抱え、揺さぶるも起きる気配はない。しかし、この子供を此処に置き去りにしてしまえばこの子供から俺の素性を知られてしまうかもしれない。
 連れて帰るにも、置いて行くのにもリスキーな選択だった

「アルフレド先生」

 俺の背後から俺の名前を呼ぶ声がして振り向けばローエン・J・イルベルトが立っていた。そして、俺はこの男の計算高さに驚愕するのだった。
 俺はこの学校でスパイとして潜入する為に本名であるアルフレド・ヴィント・スヴェントという名前を伏せてアルヴィンという名前で生活していた。つまりローエンは俺の素性を知り、この動揺しているタイミングを伺ってカマをかけたのだ。
「全てを説明して頂けますか」
 そしてローエンは俺が全てを悟った事を気付いた上でそう言った。――食えない男だ。
「俺が全てを話すと思ってるのか?」
「ええ、思っていますよ。少なくとも今の貴方には戦意がないと思っています。それに、卑怯な言い方かもしれませんが私にはそこの彼から押収した武器があります。貴方のような方がこの状況下で合理的ではない判断を下すとは思えませんからね」
 ――本当に食えない男だ。
 俺は抱えていた子供の頭を膝の上に下し、両手を上げて敵対心がない事を伝える。
「懸命な判断です。彼の事もありますし、場所を移しましょう。そうですね、貴方の準備室にしましょうか」
「……他の生徒は?」
「大丈夫です、彼が進入した時からこの教室棟と実習棟は封鎖していますから」
「準備が良い事で」
 ローエンが実習棟へ向くと同時に子供を抱えて起き上がる。その足が震えているのが情けなく思えた。スパイを失敗した人間に与えられる罰に想像を絶する恐怖があったからだろう。
「さあ、行きましょう。……私は降参をした者に不相応な罰を与える程、酷い人間ではありませんよ」
「……あんたのその知慮の深さと洞察力には恐れ入るよ」
 無言で中庭を通り抜け、実習棟の階段を昇り準備室のソファーに子供を寝かせた。ローエンは俺のその向かいのソファーに座るように言ったのでそれに従った。
「本題に入りましょうか」
 ローエンは窓辺から運動場の生徒を眺めながら静かに口を開いた。
「貴方は名家スヴェント家の子息のアルフレド・ヴィント・スヴェントさんで間違いないですね」
「……あぁ、間違いない」
「そんな貴方が何故この生徒を狙って潜入してかお聞かせ頂けますか」
 ローエンは俺の前に置かれたテーブルに一枚の写真を置いた。その被写体はジランドから始末を依頼された顔と一致していた。
 内密に教えられたターゲットを知っているという事は俺に聞くまでもなく全てを知っているのではないかと思ったが下手に逆らわない方が良いと思い俺はこの暗殺計画の一端を話し始めた。
「俺の叔父のジランドール・ユル・スヴェントという男に命令されて来た」
「やはり……」
「目星は付いてたみたいだな」
「えぇ、考えの一つにはありました。……ただ分家にあたるジランドール氏が本家である貴方にそういう命令を下すというがあまり現実的ではないと思っていたものですから」
「……あいつはするさ、何でもな」
 俺は向かいのソフェーで眠る子供を目の端で見ながらそう言った。
 ――そう、何でもな。
 俺と叔父の関係はとある時期までは普通の親戚の間柄の関係を保っていた。
 スヴェント家は代々本家が当主を継いでおり、父の弟にあたるジランドがその椅子に座る事を約束された未来はなかった。その為、新エネルギーというエネルギー産業に着手してその分野から脚光を浴びようとしていた。
 しかし十数年前に俺の父が亡くなってから状況は一変した。父の後を継いで当主になるには幼かった俺の代わりにジランドが当主にあたる権限を一時手に入れたのだった。
 そこから叔父はスヴェント家の力を大いに振るい新エネルギーの存在を世に知らしめ実用化へ至ろうとしていた。だが、現在の政府関係はこの新エネルギーを良しとはしなかった。
 この頃から俺はジランドから取り引きを持ちかけられスパイの真似事をしていた。全てはジランドが成功者という脚光を浴びる為に――。
 ジランドは新エネルギーに反対派の人間を俺を使って陥れ、残った反対派の人間が現在の首相ただ一人で後は自分の意見を持たない人間だと気付くと俺にターゲット、首相の息子を始末するように命令した。
 あいつは自分の欲望の為ならば甥すら利用し、世継ぎとなる未来の政治家すら殺害するそんな男だ。そして、俺に面識がない子供すら使って俺の始末をつけようとした人間だ。
 なんだってするに決まっている。
 俺と叔父の関係をローエンに簡潔に伝えれば何かを考えるかの様に長い髭を触っていた。
「たしかに、現首相は高齢でその息子が今年で卒業し、後を継ぐだろう事は容易に考えられます。しかし……それだけの理由で……」
「それで十分なんだよ、あいつは」
 ジランドの非常さを考えてそう言い放つとローエンは再び髭に触れて何かを考え始めた。ローエンの考えている事がまったく分からない俺にとってこの時間は辛かった。
「アルヴィン先生、スヴェント家の当主は今でもジランド氏にあるのですか?」
「言ったように一時的にジランドが当主となった。けれど家の中では俺に当主の座を戻すべきと言う人間とジランドを当主とするべきという人間とで大まかに別れている。……俺自身は継ぐ意思はないが、言ったようにジランドは卑劣な人間だ。だから俺を押す奴もそれなりに居る」
 この学校に赴任する前までの家の状況をローエンに説明すれば、ローエンは何かに気付いたかのように俺を見て考察を話し始めた。
「貴方の話を聞いて私なりに考えてみましたが、ジランド氏は貴方に首相の息子を始末した後に貴方をも処分するつもりではなかったのでしょうか。そうすればジランド氏は研究者としての名声と名家の当主という称号を手に入れる事ができます」
「なっ……」
 ローエンの考察に驚きはしたものの、冷静に考えればありえない話ではない。
 俺はジランドにとっての厄介者に過ぎない。だからこそあの取り引きを行った、なのにジランドは俺の要求に応える事なく俺を始末するつもりなのか――なんて非情なんだ。
「しかしジランド氏は何故この学校で貴方を始末する事にしたのでしょうかね、始末するにはこの学校はあまりにも適さない環境かと思います」
「それは……俺が命令を放棄してここに居る事を選んだからだ」
「――半年前くらいでしたかね、我が校のデータベースに侵入しとある生徒のデータが盗まれる事件が起こりました。私達は内密にその生徒を熱りが冷めるまで兄弟校へ転校する事を進言し生徒は了承しました。そして侵入元を割り出し、そして貴方へと繋がりました。その貴方が自ら潜入して来るのを待ち、実際にこの学校でデータを盗む際に現行犯として捕まえようと理事長と話していましたが当の貴方は対象の生徒の事を居ない以上に調べようとせず教師業に邁進する姿を見ていましたが……そういう事なのですね」
「あぁ……そうだ」
 ターゲットが居ない事をジランドの罠だと思い込んでいたが、全ては校長であるローエン・J・イルベルトの手の上で踊っていただけに過ぎない事に恐怖を抱いた。
「貴方が赴任して三ヶ月、貴方の行動は全て見ていましたが実に優秀でした。そんな貴方に真実を聞いても話してくれるとは思いませんでしたので、彼を利用してしまいました」
 ローエンはチラりとソファーで眠る子供に上着をかけて申し訳なさそうにそう言った。
「で、俺をどうする気なんだ、警察に突き出すのか? それともあんたが俺を処分するのか?」
「いいえ、何もしません。強いて言えば、ジランド氏を誘き出す為にも教師で居て頂けませんか? おそらくジランド氏は我が校の生徒を狙っています。しかし、証拠はありません。通報する事もできないので貴方にはジランド氏を誘き出す為に居て欲しいのです」
「……いいのか、こんな奴がここで教師をやって」
「言ったはずですよ。優秀です、と」
 恐怖に支配されていた心が開放され、大きく溜息を吐くとローエンはクスリと笑った。
「では、次の話ですが……」
 ローエンの視線が再びソファーで眠る子供へと注がれる。
 俺を始末しにやってきたジランドの手先、機械のように命令を遂行する人間。
 そして急に叫び出し意識を失った、この子供に関する全てが謎に包まれていた。
「彼に見覚えは?」
「いや、まったくない……見た事が無い」
「えぇ、私も見た事がありません。何より命令を遂行する以外の感情がないと思えました。校門から入って来る彼に……本来なら立ち入りが出来ないという所をわざと武器は持ち込めないとお話ししましたら手持ちの武器を全て渡して下さいましたから」

 謎が謎を呼ぶ最中、向かいのソファーで眠る子供の身体が僅かに動いた。
 そしてその子供が胴体を起こすと同時に床に水晶玉のようなものが落ちて転がって行くのが見える。
「……ん」
「気分はいかがですか?」
「……」
 ゆっくりと開かれる子供の瞳が先ほどとは違って虚ろではなかった。そしてその子供はあたりをキョロキョロと見回していた。
「私の名前はローエン・J・イルベルトと申します。ローエンと御呼び下さい。では、貴方の名前を教えて頂けませんか?」
「……あの……」
 目の前に居る子供は何故か困り果てたような顔をしていた。
 その表情は先ほどまでの表情とは違い、機械人形という言葉が相応しいとは思えない程ごく普通の人間らしい表情をしている。
 ――さっきまでのあれは何だったんだ。芝居か、夢か、幻だったのか……?
「……すみません……僕、……何もわからないんです……」
「なんですと?!」
「なんだそりゃ?!」
 ローエンと俺の声が被さるように室内に響く。
 その声に圧倒されたのか子供はどうしようと言わんばかりに涙目になっていた。
「落ち着いて下さい、貴方の様子では日常会話は普通に出来ていると考えられます。貴方の中の一部の記憶だけがないと考えられますが……どうでしょうか」
「……わかりません、ただ名前を思い出そうしたり、さっきまで何をやっていたんだろうと考えようとすると全然思い出せないです……」
「おい、ジランドという名前は覚えているか?」
 惑う子供に先ほどまでにしきりに呼んでいたジランドの名前を口に出すが、目の前の子供はそれすらもわからないようで困ったような表情をしている。
「お手上げだな……」
「たしかアルヴィン先生、彼が倒れる前に悲鳴を上げられたのをみましたが……その時何か心当たりはなかったのですか?」
 あの時の状況を思い出そうと、片手を頭に当てるがこれと言って思い当たるものは無かった。ヒントを探るように目下の子供を見るが思い出す事もなく、反らそうとした視線の端に子供の服から落ちた水晶玉のような物が映る。そういえば、この子供の胸部を押さえた時に何かに引っかかった事を思い出した。
「ちょっといいか?」
「え? っ何するの?!」
 子供の側に寄ってカッターのボタンを上から順番に外していくとネックレスのようなものが露になった。そのネックレスの装飾部の中央は空洞となっていて何かが入っていた事が想像できた。
「おい、これはお前の物か……?」
「……わかりません」
「ちょっと見せて貰っても良いですか? 」
 するとローエンは装飾部を手にもって何かを考えるかの様に細部を見渡した。
「多分、この水晶玉がその空洞の所に入っていたと思うんだが」
「……そうでしょうね、同じ大きさですから。……このネックレスの装飾と、水晶玉に刻まれた術式。おそらくはマインドコントロールの術式が織り込まれていたのでしょう。それを適切ではない外し方をしたのが記憶のロストに繋がったのだと予測されますね」
 その手の話に詳しくない俺にとってはピンとこない話だった。それが伝わったのかローエンは子供の服のボタンを付け直しながら詳しく説明するように話し始めた。
「その名前の通り、精神を支配する事をマインドコントロールと呼びます。つまり彼は意識を完全に乗っ取られマリオネットのように操られていたのではないのでしょうか」
「はっ……何でもすると思っていたが、そんな事までとはな。……解決策は無いのか」
「今の所、私の知識だけでは難しい所があります。しかし、術に詳しいアテがありますのでこれを貸して頂けないでしょうか。アルヴィン先生、その水晶玉も預かりますよ」
「外しても大丈夫……?」
「えぇ、大丈夫ですよ」
 目下の子供はローエンの言葉を聞き、ネックレスを首から外しローエンの掌の上に乗せた。そして俺もその掌の上にガラス玉を置いた。
「アルヴィン先生、先ほどのお話。貴方をここで雇い続けるという条件にもう一つ条件を加えても宜しいでしょうか」
「……どういう事だ」
「彼の本来居るべき所在が明らかになるまで、この学校に通わせようと思います。しかし、我が校は敷居を高める為に定員以上は取りません。ですから、寮の空きはありません。しかし教室の空きは貴方が狙っていた生徒の空きがあります。狭いでしょうがアルヴィン先生の寮監室へ住ませてあげて下さい」
「わかったよ」
「では、ジュードさん。所在不明の貴方を学校外に放り出しては貴方はまた何かに巻き込まれてしまうかもしれません。一時的ですが貴方をこの学校の生徒として迎えたいと思います。いいですね」
「はい、その前に……僕の事を……」
「貴方の制服の内ポケットにJUDE・Mと刺繍が入っていました。おそらくは貴方の名前だと思います。ですから私達はこれから貴方の事をジュードさんと呼びます。どうでしょうか」
「それで構いません。何も思い出せないけど、しっくり来る名前だと思います」
「それなら良かったです。アルヴィン先生、宜しくお願いしますね」

 そう言ってローエンは燕尾を靡かせながら部屋から出て行った。
 残ったのは俺とジュードという名前を付けられた子供の二人だけ。
 狙う者と狙われる者という歪な関係だった少し前の事が嘘のように思える新しい関係。

 先生と生徒という関係を持った俺達はその日、殺意を失った。

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -